真珠湾攻撃から所沢市「芙蓉会 富士見産婦人科病院事件」まで パート59

真珠湾攻撃から所沢市「芙蓉会 富士見産婦人科病院事件」まで パート59

目 次
第71章 日本と世界の架け橋 禅僧“ネルケ無方”その18

第71章 日本と世界の架け橋 禅僧“ネルケ無方”その18
 先の章では世論を無視した集団的自衛権の発生原因となっている
【皇位継承権を巡る実に醜い争い】の内幕から、
【FAPIG 第1原子力産業グループ事務局長 小保方幸平】と、
【政治歌舞伎 2014年7月1日【兵庫県議会議員 野々村竜太郎 劇場】と、
【橋下徹大阪市長の提唱する「米軍専用従軍慰安婦所」の在った地区ー朝霞(日本の上海)・横浜・奈良・小倉・(滋賀県高島郡今津町饗庭野 アイバノ?)Rest And Recuperation Centerレスト・アンド・レキュベーション・センター=「休養と体力回復センター」に居た日本人女性たちは、何故?韓国人女性122人の様に、日本政府を告訴しないのか?】と、
【2014年7月8日の朝日新聞夕刊のトップ記事が、国民の今一番の関心事である、台風の進路と被害情報ではなく、『谷中の全生庵 異色の禅寺ー安倍首相から社長(依田巽 よだたつみ。エイベックス)まで』と云う記事であり、全生庵 住職平井正修(ヒライ・ショウシュウ)が、安倍晋三首相が強引に立法化した「集団的自衛権」の指南役だったと云う訳だから、それは、世界中に在る禅センターで提唱されている仏教全てが「戦争禅」で在る事を証左している。】
と云う問題について述べた。
当然な話しだが、原田祖岳・安谷白雲(量衡)の禅の継承者である「東照寺国際参禅道場 法務担当兼住職出口鉄城」の禅は「戦争禅」の代表である。最も、その出口鉄城は2014年2月20日に山内で胸の痛みを覚えていたが、2月27日に心筋梗塞をおこし知り合いの病院に入院し、3月20日に死亡している。何故か?葬儀の報告はされていないが、今は個人情報保護の時代だから、品川区役所は死亡の事実は発表しない訳である。歴代内閣の指南役で、皇室に出入りが自由だった出口鉄城を失った森喜朗元首相・小泉純一郎元首相・安倍晋三首相・麻生太郎副首相・石破茂幹事長らは、「谷中 全生庵 平井正修老師」に指南を求めている訳である。
先の芸能人 坂本忍の「二日酔い」とは“麻生太郎副首相”の酒浸りの毎日の話しをしている訳だが、それなら、中川昭一元財務大臣と同じ末路である。そんな中で、今度は芸能人“北野武”が49歳の女性と同棲して居て、全財産を奥さんに渡して離婚する。と云うニュースが報道された。この<7月9日には10日発売の「週刊文春」誌上での芸能人 北野武の離婚報道>も、麻生太郎副首相の話しである。麻生太郎が奥さん(鈴木善幸の娘)と離婚するのか?と云えば、北野武と同じで離婚はしない。問題は「離婚」が何を意味するのか?と云う点である。政治家は外交問題を良く、結婚と離婚問題に置換えて発言する。そう云った観点から見れば、日本と韓国の外交関係と云う事に成る。麻生太郎副首相は韓国にある土地を、個人資産として所有している訳で韓国とは関係が深い。だから、韓国と太いパイプで結ばれているのだが、此所に来て、関係が微妙になってきて、「離婚=韓国と日本の外交関係の亀裂」が表面化して来たと云う訳である。芸能人 北野武の相手の女性の年齢が49歳と云う事だから、外交関係として49歳を考えれば、それは49日である。韓国の旅客船「セウォル号」(6,825トン)が沈没したのが2014年4月16日だから、喪中として49日を考えると、6月4日である。つまり、6月1日~4日の時点で、日本と韓国の間では、漁業資源(海産物)などの貿易が途絶し始めている訳である。それが『政治歌舞伎 北野武の離婚劇場=日本と韓国の外交関係に修復できない亀裂が発生している』と云う麻生太郎副首相の感想なのである。
そして、7月14日のネットで注目されていると云うのが<芸能人 伍代夏子がキッコーマンのレシピから画像を転用してお詫び>と云う物である。伍代夏子は自身のブログに「タラコのおむすび」の画像を載せていたが、この画像がキッコーマンのレシピとして存在する「ねぎのおかか卵焼き」だと云うのである。この伍代夏子の「タラコのおむすび」の画像は削除されて今は存在しないと云う事である。しかし、「タラコのおむすび」と「ねぎのおかか卵焼き」が同じ画像の転載が可能と云うことが不可視である。“おかか”は鰹節で、タラコとは鱈の卵で、卵焼きの卵は鶏の卵であるから、卵巣と云う意味なら同じだが、鱈の卵と鶏の玉子の画像が転用可能と云う事はあり得ない。この伍代夏子は杉良太郎の後妻であり、杉良太郎は「高浜海員学校(現在は移転・改組の上、国立清水海上技術短期大学校)中退」であり、芸能人に成ってからは「ロッテ歌のアルバム」に出演していて、プロデューサー(韓国人)から賄賂を要求されていたと云うのだから、伍代夏子の「タラコのおむすび」歌舞伎は、日韓の水産界における鰹・鱈と養鶏などの資源問題であるから、伍代夏子の画像転用歌舞伎も韓国と日本の水産資源問題についての話し合いの件である。キッコーマンの醤油も韓国との貿易品目であるから、これも同じ外交品目になってくる。画像だけの意味に搾れば、それは、重信房子パレスチナ解放戦線指揮官と中曽根康弘元首相の親子鑑定の画像問題である。何故なら、重信房子はキュコーマンの社員だったからである。キッコーマンの社長と四元義隆(全生庵)は血盟団事件当時からの国粋主義者の関係で“刎頸の交わり”が在ったから、就職していた訳である。そして、重信房子の父親も血盟団事件に賛同していた訳である。これが、「谷中 全生庵の禅の伝統である。つまりテロリズムの為の禅」である。重信房子の父親が語っている所では「(自分が)戦地から帰って程なくして,房子が生まれた」と語っているのである。つまり、「父親が戦地に居た時には、母体に居た」と云う意味である。だから、養女となる。それは、岩手県盛岡市の福田セツが母親と云う訳であるが、その理由は、福田セツのご主人が山本五十六海軍大将の非嫡出子と云う関係だからである。その福田セツの胤は“米内光政海軍大将”と云う関係である。つまり、米内光政と山本五十六両海軍大将の非嫡出子同士が結婚している訳である。この海軍繋がりの関係で、海軍の青年将校 中曽根康弘は帝国海軍の英雄の血筋である“福田セツ”と肉体関係をもつに至る訳である。そして、三浦梧楼の関係で、福田セツの血には韓国の“閔妃(ミンピ)”の遺伝子が入っている訳である。つまり、パレスチナ解放戦線の指揮官“重信房子”は、韓国“閔妃(ミンピ)”の遺伝子がテロを誘発している訳である。
伍代夏子・杉良太郎夫婦の「タラコのおむすび」とキッコーマンの「ねぎのおかか卵焼き」から来る<鱈・鰹節・昆布・鯵・アサリ/卵・鶏肉・豚肉/配合飼料など>の日本ー韓国間での輸出入品目が日韓の外交課題に上っている訳である。そして、それは杉良太郎の善行「ベトナムへの慈善活動」とも関係してくる訳である。日本ー韓国ーベトナムとの水産資源を巡る外交交渉の議題と云う訳である。だから、アメリカ軍の「オスプレイ=ミサゴ(魚鷹)→水産資源」が静岡県に飛来したと云うニュースに反映されている訳である。だから、杉良太郎の高浜海員学校(現在の国立清水海上技術短期大学校)中退」が演技者の履歴にも反映されている訳でもある。
東照寺国際参禅道場 法務担当兼住職 出口鉄城は先にも述べた様に、2014年3月10日に死亡している訳だが、出口鉄城の“つぶやき=Twitter”もサイトも弟子や出口真希子や元美が“なりすまして”書き続けている。イタリアとスペインでの禅会に関する記述も全て弟子(渡邊)が、出口鉄城に成り済まして書いているのであるが、7月6日なって< 出口 鉄城 @tetsujyo · 7月6日現在、受戒希望の方がありますが、出来れば数名集まったところで一緒に授戒会を開催したいと思っております。(7月末か8月) 仏戒とは宇宙の真理そのもので、真理は人間の理解とは無関係で微動だにしません。それ故に、まずこれを文句なく受けておく。それが受戒です。ご希望の方はお申し出下さい。>と書き込んでいる。
「仏戒とは宇宙の真理そのもので、真理は人間の理解とは無関係で微動だにしません。」ね!それなら、出口鉄城の死亡について隠し続けている意味は何なのだろう?それなら、こう云うべきである「真理は人間の嘘とは無関係で生は生。死は死の位にある」と云うべきである。又は、<東照寺 出口由美子自身が頭で作り上げた「出口鉄城は死んでいない」と云う出口由美子の理解とは無関係で死亡した真理(事実)は微動だにしない>。となる訳である。そして、「真理は人間が頭で作り上げた世界観と、密接に連動していて、犬はワンワン、猫はニャー ニャー、と、悟りへの導きを語っている。只、人間が金の為、名誉欲の為に動き回っているが故に、その言葉を聞いていないだけである。そこで結跏趺坐して、自分が自分の頭で作り上げた欲を切り捨て(心意識の運転を止め)、数息観で心の眼を開く行を行ずる必要がある訳である。それをなし得ても、そこには深い浅いの境涯がある。それを今生の因縁と申す訳だが、今生において佛縁を結び、次の代で佛縁が結ばれる事がある。それが授戒である。仏教では「因あって果なし」である。よって因を重んじている。」と云うべきである。
今や東照寺国際参禅道場では、弟子(渡邊)も寺を出て仕舞い出口由美子以外は誰もいない状態となっていて、8月の接心会の開催も危うくなってきた為に、「受戒」を名目にして仙台市の「玄光庵」徒弟で東照寺に居た事のある“伊藤実玄”(報恩寺 関大徹の侍者)を東照寺に呼び戻して、8月の大接心会を乗り切る。と云う計画を出口由美子は考えている訳である。その心理の裏には、伊藤実玄に対して、出口由美子は長女 真希子の父親はアナタ伊藤実玄なのですよ!と洗脳して在るから時間を経ても伊藤実玄は出口由美子の要請を断れないと云う事情を作り上げている訳である。
出口由美子自身が剃髪して住職資格を取得する以外に東照寺に留まる道はないのであるが、それはしないのである。出口鉄城の死亡を何処迄も隠し仰せるとでも考えているのだろうが、格地の寺院の場合は住職資格を得るのは大変な訳である。それに、東照寺の近所には伴鉄牛老師の実績を良く知っている人々が多数いるので、その実績に見合った布教(接心会、座禅会、托鉢)ができなければ住職として認められない訳である。どちらにしても、出口鉄城の本葬を早く出さないと、それこそ、出口鉄城の云う「見破る主義」にならないから、出口鉄城自身が猫のタネ・ミーヤと供に、中有の世界に迷っていると云う事に成る訳である。

それでは、話しを《ポルトガル・スペインとイエズス会による日本人奴隷商売》の問題に舵を戻します。この奴隷売買の問題は、戦国大名と「鉄砲」による武装化にも関係して居る事は、前にも書きましたが、戦争と飢餓と奴隷商人(売買)について、<第67章 日本と世界の架け橋 禅僧“ネルケ無方”その14>の冒頭で述べました。『七度(しちど)の餓死に遇(あ)うとも、一度(いちど)の戦(たたか)いに遇(あ)うな。(三度の餓死に遇うとも、一度の戦に遇うな)』と云う“ことわざ”について、“菅野八郎”が戊辰戦争の体験や動向を綴った『八老独年代記』(慶応4年)にも書いている事を述べました。
安倍晋三首相が国会の答弁で、相手から斬り付けて来た刀を受け流して、返す刀で切り返して悦に入っている姿は実に見苦しい限りであるが、この見苦しい姿の原因は「単なる無我」だからである。つまり、思考がなく単にニコニコとしている白痴だからである。この「白痴 安倍晋三首相」を作り上げたのが、白痴の禅問答の指南役が学習院大学法学部政治学科卒業の「谷中 全生庵 住職平井正修」だと云う事であるから、つまりは、平井正修が学習院で修めた政治家の白痴(出世欲)だから、白痴が安倍晋三首相に伝染したのである。
この全生庵は明治維新の三舟「高橋泥舟・山岡鉄舟兄弟と、勝海舟」の中の一人“山岡鉄舟”の建立に当たる訳である。
勝海舟と山岡鉄舟が、任侠“清水の次郎長”に掛合って、官軍による江戸市中への放火を防いだと云う事である。この“清水の次郎長”の子分“の大政”とキリスト教徒(YMCA)の近江兄弟社の吉田悦蔵とが繋がっている訳である。そして、メレル・ヴォーリズ(帰化名:一柳米来留。コロラド大学)と、YMCAのホワイトさんとは繋がっているし、この“ホワイトさん”の親族の人が、原田祖岳の所で、参禅していて、アメリカに帰国した後、アメリカの禅家としてアメリカ人から欧米人にまで著名な人物として知られる訳である。

つまり、勝海舟=山岡鉄舟=清水の次郎長=大政=吉田悦蔵(近江兄弟社/YMCA)=メレル・ヴォーリズ=ホワイトさん=原田祖岳=飯田トウ隱=中原鄧州(南天棒。長崎県生。1839年4月3日ー1925年2月12日)=山岡鉄舟と云う一大円相で繋がっている訳であるし、又、メレル・ヴォーリズ家は奴隷商人として奴隷市場を経営して財をなし、九州の平戸に居た一柳家もポルトガルへ日本人奴隷を売って財を成した訳である。そう云った意味で云えば、時間(織田信長・豊臣秀吉→明治政府)と空間(日本ーアメリカ)を隔てていても、実は1917年(大正6年)に、奴隷商人だった家系のメレルヴォーリズ家と一柳満喜子家が出会い婚姻する訳である。法律的には奴隷制度は禁止された訳だが、奴隷商人と奴隷市場を経営していた支配層は太平洋を隔てて血縁関係とキリスト教(YMCA)思想で結ばれている訳である。

1940年に近江神社で帰化した時の姓名は“一柳米来留”(神道への改宗式とも云える)となり、皇室(宮内庁)から近江兄弟社 メレル・ヴォーリズ(一柳米来留)は藍綬褒章を受ける訳である。
この、メレルは最初の頃は、「狂気なアメリカ人」として日本中で有名に成った訳である。その理由は、メレルは、日雇い労働者は商品ではなく人間であり、休憩と回復の時間を与えれば、仕事の効率が良くなる事を示し、「日曜日は休み、週6日制で44時間のみ働く。しかし、労働者には週に7日で1日12時間働くのと同じ賃金が支払われた」と云うのである。メレル・ヴォーリズ家は先祖の奴隷商人から脱皮する事ができたのか?と思うでしょうがそうではない所が、名士の家系である。近江兄弟社が巨額の債務で倒産するのは、アメリカへメレル・ヴォーリズ家が資産を移転するからだからである。キリスト教団のYMCAは口先だけの紳士だと云う事である。つまりは、ヤクザ(キリスト教マフィア)と紳士を使い分けるのだから、実に手強いヤクザ(キリスト教マフィア)者が近江兄弟社である。この近江兄弟社のYMCA精神と京都の釈迦族という懺悔教団「一燈園」が繋がっているから、志村ふくみの両親が深く関係している訳である。そして、日本女子大学の平塚らいちょうの「青鞜」と矢島楫子の「日本基督教婦人矯風会」と「同志社」へと繋がる日本のキリスト教集団が、原田祖岳・安谷白雲の「戦争禅」と結び付いて行く訳である。
一柳満喜子・米来留夫婦は、戦中の一時期は軽井沢に居る訳だが、この時の軽井沢は日米英独等が非公式に戦争会議をし、その連絡場所だった訳だから、一柳家は結構良い生活ができた訳である。
そして、戦後には、極東裁判軍事法廷(市ヶ谷)で戦犯として告訴された者の多くが、家族や知人を通じて、近江兄弟社(YMCA)=メレル・ヴォーリズ(一柳米来留)のところへ金品を持って日参して、減刑嘆願の申請を受けたりして、このプレゼント攻勢が功を奏して、戦犯らは刑を逃れたり、刑期の減刑に成功した訳である。
このA・B・C級戦犯問題では、戦争遂行・指導・命令を出した者の大多数は生き延びて、命令に服従した者の大多数は処刑されるか?獄中死しているのである。東条英機と近衛文磨の自殺狂言では、東条英機は未遂で、その後裁判で死刑となる。近衛文麿の自殺時の写真はどう見ても出来過ぎであるから、政治歌舞伎としか見えない。それと、同じ様に終戦時の自殺写真では大満州帝国を動かした甘粕四郎(満州映画)の自殺写真も良く出来過ぎている訳である。

そして、戦犯・戦後問題を国民の脳裏に焼き付けたドラマ映画は1958年(昭和33)10月31日・12月21日の2回にわたり橋本忍作、岡本愛彦演出でTBSから放映された『私は貝になりたい』である。このドラマは後に著作問題で裁判になる訳だが、その理由は、ドラマの原作に当たる文章を綴ってい人物が、巣鴨プリズンに収監されていた“加藤哲太郎”(春秋社を創立し、トルストイ全集を発行した加藤一夫の長男)だったからである。加藤哲太郎氏は戦中には、国策會社「北支那開発株式会社」に居て、召集され内地の大森俘虜収容所長に成り、俘虜虐待の罪で問われると云われ、全国を逃げて逮捕され、巣鴨プリズンに収監されると云う経験から書かれたものらしい。これらの体験を巣鴨プリズンで書いたもので、『狂える戦犯死刑囚/戦争は犯罪であるか/私達は再軍備の引換え切符ではない/戦犯の赦免について/水洗便所の水音ー1952年10月9日手記、ガリ版印刷『散りゆきし戦犯』(三部作)、『第1部「13号鉄扉」巣鴨遺書会、1953年所蔵』が原作に成っている訳で、世界的映画監督“黒澤明”とコンビを組む“橋下忍”が、著作権を踏みにじってまで『私は貝になりたい』を書いた理由は裁判では分からない訳であるが、TBSが政治的な目的を持って放映する必要があったと考えると、同じ年に明仁皇太子と正田美智子の婚約発表(1958年11月27日)があり、その翌年4月10日には御成婚パレードの馬車に少年が飛び乗ろうとした事件が放映されている。
これは、街灯テレビから一世帯1台のテレビ受像機を、明仁皇太子と正田美智子のパレードを自宅に居ながらにして見る為の箱を、言わば強制購入する形で全国にテレビが普及する訳である。そこで問題となるのは、ソフトとしてのテレビ番組の構成による思想宣伝であるが、その主体は結局のところ、皇室・皇族・右大臣・左大臣・有名企業の取締役などの非嫡出子が連日登場して、産みの親にその健在ぶりをアピールする場所として機能する訳である。中東諸国でも欧米諸国でも、<日本の「スター誕生」>と同じ歌番組があるが、日本の山口百恵や桜田淳子や森昌子等々と同じ様に、自分の生みの親に自分の成長ぶりを見せる為に唄っているのである。それは、政治的な宣伝効果も内在している。直接的な政治宣伝としての効果は、やはり、日米同時衛星放送の第1報の番組が「JFKの暗殺生放送」だった事である。だから、JFKの暗殺には日米両国の政府(諜報)機関が関与している事は確かである。そして、2001年9月11日の米国WTC同時多発テロも映像的には同時放送だった訳である。2011年3月11日の東日本大震災の災害報道では外国の報道の方が信頼性が高かったのだから、つまり、日本のメディアは非嫡出子の番組が主体である事を証明しているのである。

さて、さきのTBSの高視聴率となった番組『私は貝になりたい』を放映した問題であるが、政府が国民に対して最も云いたかったことは、『私は貝になりたい』が放送された1958年(昭和33)の2年前の、1956年(昭和31)に政府が発表した経済白書に登場する『もはや「戦後」ではない』(1956年2月号の「文藝春秋」で、中野好夫が云った)と云う文言から来ている訳である。
この『私は貝になりたい』と同じ意味をもつ文言として、戦争遂行者側の言葉としては、東条英機の妻勝子(かつ)が云った『一切語るなかれ』(岩浪由布子著、本名:淑枝。現:東條由布子)である。両者に共通しているのは『口を閉ざせ』である。“加藤哲太郎”の著作名で考えれば、巣鴨プリズン時代の『狂える戦犯死刑囚』か『13号鉄扉』である。(株)春秋社から発行されている加藤哲太郎の著作タイトルも現在では、ドラマ・映画のタイトルと同じ「私は貝になりたいーあるBC級戦犯の叫びー」と成っている。加藤哲太郎の原作『狂える戦犯死刑囚』では「私は貝に生まれるつもりです」だった訳である。一体!シナリオ作家 橋本忍はどういった経緯でラジオ東京の依頼を受けて、加藤哲太郎の著作をほぼ完全に盗作する形でシナリオ化したのだろうか?作家山崎豊子にしてもその作品は盗作した箇所が数多く有る。つまり、戦争体験のドラマ・映画では盗作箇所が多いと云う事である。
さて、このドラマの本来の原作者である“加藤哲太郎”はキリスト教系「明星学園」と慶應義塾卒であり、YMCAや賀川豊彦やトルストイの三女トルスタヤなどとも親交があり、日本のキリスト教徒も助命嘆願し、加藤哲太郎の減刑助命嘆願をする為に、妹加藤不二子が、直訴状を携えて第一生命にあるGHQ総司令官マッカサーのオフィスを訪ね直談判できる筈がないのである。
これは歴史のセオリーで云えば「良くできた話しが真実とは限らない」と云うことだからである。この直談判に似ているのが、本田宗一郎が4輪の世界に入り込む為に、通産省に直談判する姿にも似ている。それは絶対に無理だと云う話しを通す姿に於いてである。加藤哲太郎は生命がかかっている訳だが。本田宗一郎の場合には、京都府の財界と旧中島飛行機の幹部が後ろ盾と成っていたから、本田宗一郎が通産省に乗り込まなくても、4輪の世界の覇者にはなて当然なのである。加藤哲太郎の妹加藤不二子は、助命嘆願文をYMCAの青年の翻訳してもらい、その青年とGHQ本部に乗込みと、“スンナリと通れた”と語っている訳だから、GHQ本部にはYMCAを通じて了解が執れていた訳である。このYMCAの青年と近江兄弟社(一柳米来留・満喜子)は同じである事からして、GHQ司令官マッカサーは加藤不二子を招待していた訳である。その裏舞台について加藤不二子がどこまで理解出来ていたのかは分からないが。
この様な裏舞台を日本と米国(マッカサー司令官)が演出しなければ成らなかった事情の方が問題である。従って、ドラマ『私は貝になりたい』を演出するのであれば、ドラマの中に【YMCAの青年と近江兄弟社(一柳米来留・満喜子)】の腹黒い思惑を書き加える必要がある。その思惑とは、
1、戦争体験について、戦地や原子爆弾体験に関して、日本人には“一切 語らせない”。それは政府が著作権を主張して、国民の戦争体験を通り一遍等(同じ)にする効果となっている。
2、米国は日本の戦犯問題について、極めて人道的に対処している。つまり、“アメリカは善(正義)を以て日本に対処している”と云う印象付けに成功する。
3、「もはや戦後ではない」という論調として巣鴨プリズンを消去する効果があった。
最低でも上記3項目程度の効果が『私は貝になりたい』放映には在った訳である。
この日本政府とキリスト教YMCAの日米国民に対する心理誘導は成功した訳である。
今でも、日本国民は地上デジタル放送化と云われて、明仁・美智子皇太子御成婚当時に買ったブラウン管テレビから、強制的に液晶テレビを買わされ、消費税は8%にまでなり、その内必ず「人頭税(徴兵制)」まで法整備される訳である、つまり、国民はいつまでも「奴隷」として働く訳である。これが、日本製原爆完成全文の紹介で書いた「国民総シベリア抑留(俘虜は奴隷)されない為の警告文」と云う訳だが、誰も読む人がいない。マアー、仏教では「服と不服とは医の咎に非ず」=「人の話しを真摯に受け止めるも、受け止めないのも、話し手の責任ではない」と云う事ですから。

先の加藤哲太郎の著作権問題では、2008年に日本テレビが<加藤哲太郎・不二子作。脚本寺田敏雄、主演中村獅童、その他歌舞伎界の大御所多数出演>で『私は貝になりたい』(DVD)を制作している。
しかし、問題は太平洋戦争と云う歴史を日米で演出した、最初の「大日本帝国海軍による真珠湾奇襲攻撃」の裏舞台で暗躍していたのが、アメリカ・イギリスのYMCAと救世軍と云ったキリスト教会の神父・牧師と、内村鑑三・海老名弾正・賀川豊彦などの日本のキリスト教団の世界覇権としての主イエス・キリストと云う存在なのである。
GHQ司令官マッカサーは幼少期に日本に居て、日露戦争を見聞きしていたせいなのか?東京に進駐した時に自分を十字軍の総大将になぞらえている。そして、猪瀬直樹前東京都知事も「2020年東京五輪の招致に成功したのは日露戦争の勝利と同じである」と語っている訳だが、それなら、猪瀬直樹の曾祖父も軍人で、日露戦争で指揮を執っていた事に成る訳だが?
橋下徹大阪府知事はシベリア出兵(1918年8月)の時に組織化された「従軍慰安婦所」を、今はオバマ大統領に有効利用して下さいを発言し。舛添要一都知事は猪瀬直樹前都知事の「2020年東京五輪の招致成功は、日露戦争の勝利」だと思って準備を進めている。国政に物申したい東北6県の地方自治体の長は、地元の問題で頭が一杯で、大阪・東京の知事・市長は、地元の行政問題には無関心で国政に意見ばかりしている。それ程、大阪府/大阪市は巨額の赤字財政(政府の管理が必要な地方自治体)問題を除いて“平和”と云うことなのでしょうか?埼玉県は大丈夫でしょ!何事も逃げない“上田清司”が埼玉県知事だから、任期の問題を除いてはという但し書きがつきますが。
そして、「2020年東京五輪招致問題」の強敵だったスペインの王室では、<スペイン国王フアン・カルロス一世(76)の退位し、2014年6月19日新国王フェリペ六世(46)が、首都マドリードの国会で宣誓式に臨み、王位を継承した。そして、6月25日にはフェリペ六世の姉クリスティーナ王女と夫ウルダンガリン氏による公金数百万ユーロの横領疑惑を調べていた予審判事は疑惑に確信をもった様である。>スペインとポルトガルは隣国だから、金銭的な疑惑だけとは思われない訳だが。どちらにしても、日本の強敵スペイン艦隊(王室)が撃沈した訳である。それとも、日本政府とスペイン政府はスペインのイエズス会“天正(少年)遺欧使節”を通じて今も同盟関係にあるのだろう?

さて、話しの本題に戻ると、近江兄弟社のキリスト教徒 吉田悦蔵と“清水の次郎長の子分 大政”に繋がりが在ると云う事から、幕末の乱世とは、どういうものだったのか?と云う問題である。この幕末の戦乱はやがて韓国から中国(支那)からシベリアから欧州へ、そして織田・豊臣時代から繋がりのあった南方(東南アジア)派遣へと世界を相手に泥炭の苦しみに引きずり込んで行く訳である。
勝海舟ー山岡鉄舟ー清水の次郎長が、どういった連携をとって江戸市中を官軍のワカラズ屋共から火災・掠奪・暴行からどこまで守れとしても、NHKの大河ドラマはどれも「英雄豪傑の物語」で、戦乱の喘ぐ庶民の姿は存在しない。英雄は何をしても正義であり、その幕末の英雄が作った「天皇(西郷隆盛)が正義」だと流されている。時代考証を完全否定しているからである。そこで、少し先の“菅野八郎”が残した戊辰戦争の体験や動向を綴った『八老独年代記』から明治維新が如何に会津藩士や薩長軍が悪逆非道の限りを尽し、その勢いが第2次世界大戦まで続くと云った原因を考える一助として、その一部分を転載する。
それは、『日本思想大系58 民衆運動の思想』(岩波書店、1979年4月25日刊)の158~160頁に次の様に書かれている。

答て曰(いわく)、「仙兵(佐幕派)討死の屍(しかばね)、我等93人にて取片附被②仰付①(とりかたづけおおせつけられ)、先づ百人づつ算(かぞえ)、百人塚と号(なづけ)、6ヶ所に埋め、外(ほか)壱ヶ所は算(かぞ)ひもせず、大穴にほふり入(いれ)、埋め候は百人の余なるべし。然れば仙台・会津の賊兵の討(うた)れし事、七百余人なるべし。官軍には即死纔(わずか)に7人、手負(ておい)十弐人と申事に候。是は当月朔日の戦にて、其先きの戦には、官軍敗ぼくと聞而巳(きくのみ)、委細は不√知」と言(いう)。
・・・中略・・・・
《・・・扨(さて)、翌日伊王野を出立、在々の間道を通り、或は山を越へ、旗宿(西白河郡)と申所へ出(いで)しに、此所には官軍も賊軍も壱人(ひとり)も見へ不√申候。是棚倉(たなぐち)街道也。是より壱り半行けば、棚倉の固めありて、会津・仙台の勢出張(でばり)の様子なれば、通行六ヶ敷(むつかしく)候故、此所より西の山端を通り、白川の東岩城城街道仁井田・鎌之子を通り、浅川宿へ泊り居(おり)候処、上州商人五人泊り合わせ申候。此もの共は、越後新潟へ行、長々滞留(たいりゅう)いたし居候中(うち)、上越後大乱に相成、何分帰村難√成、如何(いかが)はせんと色々工夫して、羽州最上(うしゅうもがみ)行、夫(それ)より伊達(だて)へ出、よふよふ是迄参り候。 上越後より真直(まっすぐ)に帰村、仕(つかまつり)候へば、纔(わずか)五十里位の処を、百四五十里の廻り道を仕、命からがらの目に出合、通る所も通られず、
世話にも、七年の餓死に逢ふとも、壱年の乱に逢ふべからずとは、むべなる哉。哉と、
青息ついても言鳧(いいける)故、我問て曰、
「扨(さて)、其上越後の兵乱は、何故の兵乱に御座候哉、承り度候」。
「見もせぬ往昔(むかし)の軍段(軍談)さい、銭金を出し足を運びても、夜を寝ずとも、諸人是を聞いて楽みとす。然るに、今目前正真の軍段(軍談)を聞(きく)は、患(わずらい)の中の楽みなり。私義も是迄諸方欠歩行(かけあるき)、見聞の処は御咄(はな)し申さん。今夜は御互(おたがい)旅の欝晴(うさはら)し、咄して一夜を明し申さん」
と言へば、5人の者も大に悦び、上州辺の様子も知れなば一と安堵に御座候とて、
一人先づ言を発して、
客「去れば、上越後の戦と申は、長州勢大軍を催し、蒸気船に打乗(うちのり)、越後高田・今町の両所へ着船いたし、榊原式部太輔政敬(ヨシ)15万石の居城を一昼夜に攻落す。城主政敬(よし)公、長岡の城へ落行(おちゆき)、牧野備前守殿を頼みしかば、長州勢勝(かち)に乗(のり)て、直(すぐ)に長岡へ攻寄(せめよら)んとす。此時、新発田(しばた)の城主7万4千石の余溝口主膳正直溥(ヒロ)并に与板2万石の領主井伊重磨申合(もうしあわせ)、長州方へ内通(ないつう)し、会津方と見せて長岡へ加勢の体(てい)をなし、長州勢と一度に表裏よりせめかかり鳧(けれ)ば、何かは以(もって)たまるべき、忽ち城を攻落(せめおと)され、討死(うちじに)・手負(ておい)其数を知らず、辛(から)くして城を逃出し、北をさして走る所を、此所(ここ)に斬伏(きりふせ)、彼処(かしこ)に打取(うちとり)、その屍(しかばね)は道路山野の差別なく、首なきむくろぞ多かり鳧(ける)。道べり野原の草々は、紅葉(もみじ)に見まがうからくれない、生血(ナマチ)に染(そま)りし有様は、剣(つるぎ)の山に罪人がわけ登りたる其跡も、斯(かく)やと斗(ばか)り疑はれ、あわれと申もおろかな事。追々北越後へも攻来るの風聞(ふうぶん)専らゆへ、堀・柳沢・松平の面々より、会津へ注進、早馬・早籠引(はやかごひき)もきらず、急を告(つげ)るに依て、会津より軍勢繰出し、新潟へ着陣ありて、今にも焼払ひに可②相也①模様にて、市中の騒動大方(おおかた)ならず、迚(とて)も滞留(たいりゅう)難√成、早々出立仕、如√此(かくのごとき)の仕合(しあわせ)御推量被②成下①(なされくだされ)、せめて古郷の安否御きかせ被√下(くだされ)たし」と、
余儀なき体(てい)に見へ候へば、私儀も上州の様子知りたるたけを咄(はな)しきかせ、無事なる旨を知らせければ、5人のものども大に安堵のよふすに御座候。
右5人の物語り実事ならんと聞受(ききうけ)候訳は、与板公は掃部頭(かもんのかみ)殿御別家なり、然るに、掃部頭殿は、当時官軍無二の忠臣にて、所々の合戦に馳向(はせむか)ひ、しばしば戦功ありて、薩長土の方々にも、肩を双(なら)ぶる程なれば、別家の与板公ゆへ、官軍へ加(くわわ)るは、当前(あたりまえ)の理なり、又5人の顔色音声の模様、全く虚説には有まじく相心得、如√此書記(かくのごとくかきしる)し差上候なり、
扨(さて)翌日此宿を出立いたし、石川宿にかかり候所、須加川(須賀川)より仙兵500~600人棚倉へ繰込(くりこみ)の趣にて、誠に騒々しき事に御座候。夫(それ)より矢田沢と申所に一宿いたし、翌日間道に入りて、芦沢村・花立村・石の森村抔(など)申所を通り、川又街道(二本松→針道→川俣に通じた道)に出、此辺より段々奥州の風聞承り候に、無生に会津と仙台に贔屓(ひいき)にて(列藩同盟成り、官軍に対抗する。風説)、官軍の負けたる事を大いに悦び、中々奥羽両国の諸侯一同しては、官軍何万の勢来たりとも、負(まけ)る気遣(きづか)へはあるまじ、抔(など)、又は薩摩土は、今度逆賊(ぎゃくぞく)となりし抔、途方もなき悪説を流す事、勿体なき事なるべしと思ひども、只其儘(そのまま)聞流し、針道にて日の暮るるを相待(あいまち)、夜の五つ半頃松沢(伊達郡川俣の近傍村)へ着仕(つきつかまつり)、今日右の段取調差上申所、依而如√件(よってくだんのごとし)。
 慶応四年辰の五月十九日   保蔵拝
   伯父上様  》

   2014年7月15日(火) 榎本 東州 記

「仏戒とは宇宙の真理そのもので、真理は人間の理解とは無関係で微動だにしません。」ね!それなら、出口鉄城の死亡について隠し続けている意味は何なのだろう?それなら、こう云うべきである「真理は人間の嘘とは無関係で生は生。死は死の位にある」と云うべきである。又は、<東照寺 出口由美子自身が頭で作り上げた「出口鉄城は死んでいない」と云う出口由美子の理解とは無関係で死亡した真理(事実)は微動だにしない>。となる訳である。そして、「真理は人間が頭で作り上げた世界観と、密接に連動していて、犬はワンワン、猫はニャー ニャー、と、悟りへの導きを語っている。只、人間が金の為、名誉欲の為に動き回っているが故に、その言葉を聞いていないだけである。そこで結跏趺坐して、自分が自分の頭で作り上げた欲を切り捨て(心意識の運転を止め)、数息観で心の眼を開く行を行ずる必要がある訳である。それをなし得ても、そこには深い浅いの境涯がある。それを今生の因縁と申す訳だが、今生において佛縁を結び、次の代で佛縁が結ばれる事がある。それが授戒である。仏教では「因あって果なし」である。よって因を重んじている。」と云うべきである。

   2014年7月16日(水) 上記を追加校正ス。 榎本 東州 記

さて、引き続き、《ポルトガル・スペインとイエズス会による日本人奴隷商売》の問題について述べますと、このポルトガル・スペインと、イエズス会問題につきましては、原書に当たることが難しいので、翻訳された研究書物からの引用と成ります。ドイツ人禅僧“ネルケ無方禅師”もその著書『日本人に宗教は要らない』の中で、イエズス会ーポルトガルーブラジルに売買された日本人について少しだけ触れているが、キリスト教が奴隷商売で肥えた(金銭的な利益を得ていた)事までは、研究していないのである。
さて、15世紀から17世紀にかけて「日本人奴隷」が、どれくらいの人数ポルトガル・インド・東南アジア・スペイン・ヨーロッパ・ブラジル・アルゼンチンなどの国々に奴隷市場で売買されていたのか?と云う問題について考える一つの資料として、『ブラジル学入門』中隅哲郎著 1994年9月30日発行 無明舎出版刊の163頁から168頁「世界に分布の日本人奴隷」には次の様に書かれている。
【世界に分布の日本人奴隷】
大航海時代と、それに続く植民地進出時代のポルトガルの泣きどころが、人口の少なさにあることは前にも触れた。少ない人間でいかに海外の植民地を維持し、収奪するかはポルトガル王室の直面する歴史的命題だった。そのため、囚人だろうが捕虜だろうが、どんどん海外に送った。ところが送った人間のほとんどすべてが男だったから、たちまち現地女性との雑婚がはじまり、混血が増えてくる。ポルトガル人が特別に好色だったわけではない。他に方法がなかっただけのことである。ブラジルのバンデランテスたちの「インジオ狩り」が「女狩り」を兼ねていたことは良くしられている。
海外進出に武力はつきものだが、ポルトガルは兵隊の数もたりなかった。そのため、現地では傭兵を募集した。アジア各地では日本人の傭兵が多かった。日本人は勇猛果敢で強かったから、傭兵には最適だったのである。また、ポルトガル人の特徴に現地適応化の能力がある。食べ物をはじめ、すべての生活様式を現地式にして、すぐ慣れるということが、これも必要に迫られてのことだろう。だいいち、海外のポルトガル人は、配偶者のほとんどが現地女性なのだから、生活様式が現地式になるのはあたり前なのだ。
人口減少に悩むポルトガルは、1250年にイスラム勢力を駆逐して国家統一を成し遂げても多くのムーアー人を奴隷として国内に残した。ついでエンリッケ親王時代にアフリカからかなりの黒人が輸入され、肉体労働に従事する。大航海時代、ポルトガル人についてきた黒人は、既にポルトガルにいた黒人なのである。
奴隷制度は日本人には感覚としてわからぬところがある。日本にも古代社会においては、奴婢と称する奴隷が存在した。法令制度に定められた賎民である。しかし、10世紀頃になくなり、以後制度的には奴隷という身分は出てこない。むろん、人買いはいつの世にもあった。1550年から1600年までの15年間、戦火に追われた多くの難民、貧民がポルトガル人に奴隷として買われ、海外に運ばれていった。数について、日本側の記録がないのでわからぬが、ポルトガルにはいろいろな記録が断片的に残っている。以下外交官でラテン・アメリカ協会理事長も勤めた故井沢実(井澤實)氏の「大航海夜話」に記載されていること。

「インドのノーバ・ゴア発行の『東洋ポルトガル古記録』の中に日本人奴隷関係で、まだ訳されていない重要文書が含まれている。ゴアにはポルトガル人の数よりも日本人奴隷の方がより多いなどということはショッキングである」

日本人奴隷は男より女が好かれた。行先はゴアを中心とする東南アジアだが、ポルトガル本国にも相当数が入っている。日本に駐在しているポルトガル人宣教師は、ポルトガル商人の日本人奴隷の買いつけをひどく嫌い、本国に取締方を要請する。このため、1571年には童貞王ドン・セバスチオンによる禁止令も出されるが、一向に効き目はなかった。なにしろ儲かるのだ。
この現象を歎いて、ポルトガルの碩学、アントニオ・ビェイラはこう言っている。

「法律というものはあっても、違反者は絶えないものである。例えば日本人を奴隷にすることを禁止する法律が制定されているにも拘らず、ポルトガル国内にた多数の日本人奴隷の存在する事実によって、これを証することが出来る」

どうやら、法律を守らないブラジル人の原型はポルトガル社会にあるのかもしれない。
日本人奴隷は遠くメキシコやアルゼンチンにも売られている、これも井沢氏の著書に出ているが、アルゼンチンのコルドバ市の歴史古文書館には、日本人奴隷を売買した公正証書が残されている。(第69章 日本と世界の架け橋 禅僧“ネルケ無方”その16で書いた)アルゼンチンには数は不明だが、日本人奴隷がかなり入っているらしく、田尻鉄也氏もそういう記録を見つけている。
日本人奴隷についての数は記録にないものの、推測する手がかりはある。ポルトガルの貿易船はシナの生糸を積んで日本に入り、銀を持ち帰るのを常とした。銀を船倉一杯持って帰るわけはないから、帰りの船倉はガラ空きになる。ここへ奴隷を入れるのだ。
秀吉の側近だった大村由己(ゆうこ)は「日本人男女数百名の多数を黒船に買取り、手足に鎖をつけて舟底に追い込み、地獄の責苦をあたえ・・・と憤慨して書いているから、1船当たり、200人位は積んだらしい。
南蛮船の来航は季節風の関係で、1年に1度しか来れない。南蛮船は50年間に約100隻ぐらい入ったと推定されている。全部が全部奴隷を積んで帰ったわけでもあるまいが、その他にシナのジャンクも入港して奴隷を積んでいるから、やはり2万人ぐらい出たと考えてよさそうだ。

*ムーアー人:ムーア人 Moor。ヨーロッパ人が、北西アフリカ(マグリブ)のイスラム教徒を指す呼称、フランス語でモールmaure、特にベルベル、およびアラブ化したベルベルを指して用いられる場合が多い。古代ギリシア・ローマ時代に、北西アフリカの住民(ベルベル)をマウロス Mauros、マウルス Maurusと呼んだことに由来し、前1世紀には、北西沿岸地帯にローマの属州マウレタニアが設けられた。マウロス(マウルス)の呼称は、フェニキア人がベルベルを呼んだマウハリム(<西国の人>の意)にさかのぼるといわれる。7世紀以降、北アフリカのアラブ・イスラム化が進み、8世紀にアラブ・ベルベルの混成のイスラム軍がイベリア半島に進出すると、原住のスペイン人はこれをモロ(ムーア人)と呼んだ。モロは、スペインではアラブ、ベルベルを別に問わずイスラム教徒一般を指す呼称となり、またイスラム教徒のイベリア半島支配期(アンダルス)には、建築、工芸、詩文学などの諸分野でアラブ・イスラム文化とキリスト教・ラテン文化の交流・融合が生まれ、これを<ムーア文化><ムーア洋式>と呼ぶ場合もある。レコンキスタ(国土回復戦争)後、モロ(ムーア)は、再び北西アフリカの異教徒住民を指すようになるが、新大陸を経由してフィリピンに至ったスペイン人は、再度ここでイスラム教徒の原住民と遭遇することになり、これをモロ族と呼んだ。ー三浦徹ー世界大百科事典 平凡社刊。

*井澤實(井沢実):『第69章 日本と世界の架け橋 禅僧“ネルケ無方”その16』<1932年(昭和7)7月11・12日の朝日新聞記事【通商秘話 ー日本人奴れい海外輸出考ー 上下 井澤 實著】>
 <外交官でラテン・アメリカ協会理事長も勤めた故井沢実(井澤實)>
 此所で、先の「禅僧“ネルケ無方”その16で書いた」<1932年(昭和7)7月11日 朝日新聞 東京 9面 【通商秘話 ー日本人奴れい海外輸出考ー 】上 井澤 實>氏の書いた
《御史邱道隆例●の上奏に佛郎機即ちポルトガル人の残虐振りを述べて「先年潜遺火者亜三、 充浦刺加便臣、風飄致、往来窺伺、塾我道塗、略買小兒、烹而食之、・・・・」といってゐるが 烹而食之というのは、事情を知らなかったためで、實は小兒達が船に積んで遠くへつれて行ってしまはれたことをいったのであろう。》
 と云う出典について以下に述べると。
 この書籍は、中国の明時代に書かれた地方知事の報告書とでも云うべき書籍で『(欽定)四庫全書總目((きんてい)しこぜんしょそうもく) 200卷首1卷 附(欽定)四庫全書簡明目録20卷』に収録さているものである。それには、次の様な記述がなされている。ここで「佛朗機國:中国ではポルトガル国の名称。フランキ。」
要旨としては、「ポルトガル人が鉄砲や大砲で広州湾を攻撃し、中国人がこれに応戦していると読める訳である。又、10歳頃の子供を金銭で売買いしている事、或は誘拐拉致に近い状況で連れて行かれている様にも読める」。外交官でラテン・アメリカ協会理事長までしている“井澤實”氏は、中国の歴史書にも通じていたのなら、「広東通志」の前後の文章から、ポルトガル人が中国の子供を食べていた訳ではなく、誘拐拉致して奴隷として強制労働させられていた事は知っていたのではないだろうか?そして、日本人も同じ奴隷の身分だったことを、昭和7年に知ったのだろうか?誘拐拉致されれば強制労働と云う図式である。誘拐拉致は北朝鮮の十八番かと思っていたら、実は歴史的にはポルトガル人・スペイン人の十八番だった訳である。それでは、北朝鮮から帰国した「拉致被害者」と云う人達は、北朝鮮で奴隷として働かされていた事に成るが、蓮池さんなどにしてもそう云って切羽詰まった声明を聞かない。そして、半島へ行き来できるのは何故なのだろうか?アメリカは拉致被害者としての黒人奴隷の先進国であるから、一度北朝鮮から帰国した蓮池さんなどから、奴隷として生活していたのか?若しくはゲストハウスで優雅な生活ができたのか?事情聴取した事があるのだろうか? 品川区豊町4丁目「東照寺国際参禅道場」で修行していて、アメリカへ帰国する際に、佛教国「タイ」に立ち寄って、死亡を偽装され売春宿に売られた「モーラ祖心尼(バイニング夫人と明仁皇太子との間に出来た女子)」は奴隷扱いである筈だ。アメリカ政府もイギリス政府もクエーカー教徒も何もしないし、タイ政府に抗議もしないでしょ。白人女性が奴隷にされていても。それが、何故?横田早紀江・滋夫婦が演じる所の「北朝鮮の誘拐拉致問題」に引きずり込まれているのだろうか?アメリカの第39代大統領カーター(Carter)元大統領も、第40代レーガン(Reagan)元大統領も、北朝鮮には自身と北朝鮮王朝の血を引く高貴な女性との間に非嫡出子が居る訳だから、アメリカ政府と北朝鮮は友好的外交関係に在る訳である。だから、カーター(Carter)元大統領は孫の顔を見に行く為に頻繁に北朝鮮を訪問する訳である。それとも、その非嫡出子は奴隷なのだろうか?秘密を共有しあう事が権力を維持するという関係で、アメリカと北朝鮮は血の繋がりと云う安全保障が存在する訳である。

景印 文淵閣 四庫全書 第564冊ー〔薹灣商務印書館 発行〕
欽定四庫全書(きんてい しこぜんしょ) ー広東通志 巻58  44
佛朗機國
在瓜哇南向不通貢或云古徐狼鬼國有東西二洲其西洲之境天笠僧僑陳如遥屬之令佛朗機興瓜哇對峙疑即其地然不可考明正徳十二年佛朗機大舶突入廣州澳口銃聲如雷以進貢請對為名左布政兼副使呉延擧誤許之撫按集議以非例不許尋退泊東莞南頭径造屋樹柵恃火銃以自固数掠十歳以下小兒烹食之率一口金銭百丈悪少縁以為市廣人咸惴惴
御史邱道隆何ゴウ(龜+敖)疏其殘逆
先年潜遺火者亜三附満刺加使舶至廣窺伺機便長蔓至今請亟誅亜三毀其居駆逐出海嚴私通者律従之督府己捕得亜三戮於市檄海道副使オウ(水+王)コウ(金+宏)師兵往逐其舶人輒鼓衆逆戦数發銃撃敗官軍尋有獻計者請乗其驕募善水人潜鑿其舟底遂沈溺有奮出者悉擒斬之餘皆遁去遺其銃械嘉靖間オウ(水+王)コウ(金+宏)柄用遂請如佛朗機制為銃頒緒邊鎮詔許之今衝鋒及火戦皆資焉
*焉(エン):いずくんぞ/いずくにか/いずれ/なに/これ/これより/ここに

景印 文淵閣 四庫全書 第594冊ー〔薹灣商務印書館 発行〕
欽定四庫全書ー東西洋考 巻5 6
廣東通志曰 佛郎機素不通中国正徳12年駕大舶突至廣洲沖口銃聲如雷以進貢為名撫按査無會典奮例不行乃退泊東莞南頭蓋房樹柵恃火銃自固御史邱道隆何ゴウ(魚+敖)前後具奏皆言殘逆稱雄逐其國主
先年潜遺火者亜三假充満刺加使臣風飄到沖往来窺伺熟我道途畧買小兒烹而食之近日満刺加國王奏其奪國讐殺等情屠椋之禍漸不可長宣即駆逐所造房屋城寨尽行毀詔従之海道副使オウ(水+王)コウ(金+宏)師兵至猶據劒険逆戦商人鑿舟用策及悉擒之餘皆遯去嘉靖中党類更番往来私舶雑諸夷中為交易首領人皆高鼻白皙廣人能辨識之  方言謂天為西羅曰為梭羅風為綿除山為文池真珠為亜思佛玳瑁為實除奴牙犀角為亜里高佛金為阿羅銀為巴労礁

16世紀
正徳12 明 1517年1月22日ー1518年2月9日(日本ー永正14年 将軍:足利義稙 管領:細川高国)
正徳13 明 1518年2月10日ー1519年1月30日(日本ー永正15年 将軍:足利義稙 管領:細川高国)
沖ー原文は旧字体
寨(サイ)ーとりで
尽(旧字体)
遯ーのがれる
党ー原文は旧字体
玳瑁ーたいまいーべっこう
駆けるー原文は旧字体

  2014年7月16日(水) 上記文章を追加  榎本 東州 記

16世紀
正徳12 明 1517年1月22日ー1518年2月9日(日本ー永正14年 将軍:足利義稙 管領:細川高国)
正徳13 明 1518年2月10日ー1519年1月30日(日本ー永正15年 将軍:足利義稙 管領:細川高国)
沖ー原文は旧字体

  2014年7月18日(金)上記の年代等を追加ス。 榎本 東州 記

 次に、主に16世紀に於けるポルトガル国「イエズス会」がキリスト教の神こそが世界唯一神であり、主イエスキリスト一人が人類の罪を一身に背負って、ゴルゴダ(Golgotha)の丘で十字架刑に処せられ復活する。と云いながら、アフリカ大陸・ユーラシア大陸・極東アジアまでやって来て、多くの土着民族を誘拐拉致して、牛や豚にする様に「肌に焼鏝(やきごて)で、キリストの所有物としての烙印を押す」訳である。そしてバチカン市国は肥えて来た訳である。だから、バチカン市国 ローマ法皇と関係の深い、A級戦“笹川良一”の日本財団・東京財団(旧称:日本船舶振興財団)会長で、日本のキリスト教徒を代表する女流文学者“曽野綾子”はNHK教育放送を通じて「奴隷は褒め言葉よ!オホ ホ ホ」「そこの奴隷」と云えるのは、主イエス・キリスト以外の人間の存在は「罪」と云う思想だからである。このキリスト教の思想を日本佛教では、浄土真宗・浄土宗では親鸞の「悪人正機説」として、『人間は悪行(テロ)を実行すればするほど、救われる』と教えて、世界中でテロ行動を実戦している訳である。A級戦犯“大川周明”(熊本五高、東京帝大)は、東京裁判(市ヶ谷講堂)の席上、公衆の面前において東条英機の頭を殴ったり奇行を演じて、その精神異常ぶりを精神鑑定したのが、日本のキリスト教徒“内村鑑三”の弟 内村祐之(うちむら ゆうし)博士で、アメリカ側の精神鑑定は裁判継続は可能だったが、内村祐之鑑定が通り戦犯裁判から除外される訳である。そして松沢病院を退院した後に、「これからは回教(イスラム教)を研究する」と述べていた訳である。そして、イスラム教を冒瀆したとする『悪魔の詩』{サルマン・ラシュディ著(インド人)発行はプロモーショズ・ジャンニ(スイスで1953年に生れ、そこで育つ。イタリア国籍の“ジャンニ・パルマ”が、日本で出版。翻訳は五十嵐一筑波大助教授)}で、唯一殺害されたのが、日本人の五十嵐一筑波大助教授(迷宮入り)だけだったのである。
先にも述べた様に、東京裁判の戦犯を逃れる事が出来た者たちは、メンソレータムと近代建築に貢献したキリスト教YMCAに繋がる近江兄弟社の一柳米来留・満喜子夫婦を通じて米国に直接働きかけたる事が出来た者達な訳である。それはまた、日本のキリスト教布教の“内村鑑三”にも繋がる訳である。インドの“ゴア”、中国の“マカオ”と同じ役割を持つ、極東アジアの所謂ポルトガルの“自由港 長崎”のキリスト教会に繋がる者ではない訳である。それは、隠れキリシタン時代からの伝統をYMCAが原子爆弾で吹き飛ばしたからである。
主イエス・キリストも聖母“マリア”も描かれている肖像は「白人系」である。黒人でも黄色人でも日焼け系でもない訳であるが、「罪人」は肌の色に関係ないから、キリスト教の「罪」と云う強迫観念を植え付ける事ができるのだろうか?黒人や黄色人の奴隷商人を通じて、ポルトガル人(白人)が買って、南米大陸に人身売買された黒人も黄色人も白人のキリスト教思想を信心できる様に出来ている。そこには、宗教は神聖とか!宗教は商売ではない!宗教の言葉は人間が書いたものではなく神の言葉だ!とか考えているのか?奴隷として売られたのは宿命だが、主イエス・キリストは白人や黒人や黄色人の奴隷商売した「罪」を許され筈だ。とか云いながら、白人のキリスト/マリア像と聖書を信じる。親の肌の色が宗教に繋がらないのは、東照寺国際参禅道場の“つぶやき=Twitter”7月6日< 出口 鉄城 @tetsujyo · 7月6日現在、受戒希望の方がありますが、・・・中略・・・仏戒とは宇宙の真理そのもので、真理は人間の理解とは無関係で微動だにしません。・・・ご希望の方はお申し出下さい。>と書き込んでいる。「真理は人間の理解とは無関係で微動だにしません。」と云うことで「真理は肌の色には無関係だから、キリストやマリアが白人でも問題ないし、奴隷貿易は白人だけがしていた訳ではない」のだが、キリスト教徒が奴隷市場を経営していた訳であり、そこは、ナチスの人間の最終処分場「ホーロコースト産業」と繋がるのなら、奴隷問題はユダヤ教の聖職者の宗教教義が「嘘」だからである。このホーロコスト産業で一番利益を得たのはユダヤ人資本家(財閥)だからである。そして、ナチスの戦犯の多くがポルトガル“イエズス会”が奴隷貿易で建国した「(神聖)ブラジル共和国」だったのである。
そして、戦後“大川周明”が猛烈に学習した回教(イスラム教)とキリスト教の思想的対立構造を利用して、日本・南北朝鮮結合双生児国家機構がイスラム原理主義者の複数を犯人に仕立て上げ、2001年9月11日WTC米国同時多発テロを実行した訳である。それから、アメリカは十字軍よろしく、全く「罪の無い」イラク国民の頭上からミサイルや爆弾を情け容赦なく“お年玉(落し弾)”をプレゼントした訳である。はたしてどちらに「罪」があるのだろうか?ブッシュ元大統領親子はこの「罪」を背負ってゴルゴダの丘で十字架刑にならないのは神がいないからである。
日本・南北朝鮮結合双生児国家機構が謀略して犯人となったイスラム教徒“アタ”(アルカイダ“プラハ・コネクション”騒動)の誕生は、敬虔なイスラム教徒の無差別大量殺戮に始終したのは、イスラム教指導者たちの国際政治に対する見識の無さが原因である。つまり、コーランを読んでも「自己を知る」ことは出来ない訳である。だからイスラム教は宗教ではない。ドイツ人“ネルケ無方禅師”の『日本人に宗教は要らない』確かに。日本人にとってイスラム教はテロとしての研究材料でしかないし、キリスト教は戦争犯罪の「罪」から逃れる為の方便でしかなく、神道は戦犯を護持する宮であり、仏教は戦争を指導する精神的な理由付けに必要なだけであるから、確かに「宗教は要らない」訳であるし、戦争をしたら今度は「道徳再武装運動」と云って日本人は道徳的に民族ですよと、パンアメリカに乗って世界中で講演して歩く訳だから、「日本人には道徳も要らない」とドイツ人“ネルケ無方禅師”は云うべきである。それは、日本人には商売しかない。と云う訳である。
だから、ドイツ人“ネルケ無方禅師”は、次は『日本人には宗教も倫理道徳も要らない』と云う本を書いて下さい。

それでは、奴隷問題について『ポルトガルの植民地形成と日本人奴隷』北原 惇(きたはら じゅん)著、2013年2月25日刊、発行:花伝社と、『近代世界と奴隷制ー太平洋システムの中でー』人文書院 池本幸三・布留川正博・下山晃著 1995年10月5日刊の一部を転載すると供に、画像を載せる。併せて参考資料の書籍名を掲載する。

『ポルトガルの植民地形成と日本人奴隷』
PORTUGUESE COLONIALISM
AND
JAPANESE
SLAVES
Michio Kitahara
2013年2月25日 初版第1刷発行
著 者:北原 惇(きたはら じゅん)
発行者:平田 勝
発 行:花伝社
発 売:共栄書房
〒101ー0065
東京都千代田区西神田2ー5ー11 出版輸送ビル2F
電話03ー3263ー3813
ISBN978-4-7634-0657-6 C0020
北原 惇(きたはら じゅん)
本名は北原順男
1937年生まれ。横浜出身。武蔵高校卒。
1961年モンタナ大学(米国モンタナ州ミゾーラ市)卒
(社会学と人類学の2専攻)。
1968年ウプサラ大学(スウェーデン)修士課程修了(社会科学専攻)。
1971年ウプサラ大学博士課程修了(社会心理学専攻)。
同哲学博士号を受ける。
メリーランド大学、ミシガン大学、サンフランシスコ大学、
ニューヨーク州立大学(バッファロ)などでの教職、研究職を経て
1997年までノーデンフェルト・インスティテュート(スウェーデン・イエテボリ市)所長。
日本語の著書
『なぜ太平洋戦争になったのか』(TBSブリタニカ、2001)、
『幼児化する日本人』(リベルタ出版、2005)、
『生き馬の目を抜く西洋文明』(実践社、2006)、
『ロック文化が西洋を滅ぼす』(花伝社、2007)、
『黄色に描かれた西洋人』(花伝社、2007)、
『現代音楽と現代美術にいたる歴史』(花伝社、2009)、
『脱西洋の民主主義へ』(花伝社、2009)。

【海外の日本人奴隷】p11
 16世紀の後半に多くの日本人がアジア各地に居住していたことが知られている。それにもかかわらず、日本人が日本を出国したという記録はほとんど残されていない。この奇妙な事実は出国した日本人は自由の身で出国したわけではなく、奴隷として出荷されたためである*2。これらの奴隷の出荷先は植民地としてのポルトガルの支配下にあった地域、たとえばインド、東南アジア、中国南部などで、特にマカオ、マラッカ海峡周辺、そしてインドのゴアであった*3。

シャム(現在のタイ国)がビルマならびにラオスと戦った
1585年と1587年の戦争ではシャムの軍隊には日本兵が参加していたことが知られている*4。
一説によれば1579年にシャムがビルマとラオスに侵略されたとき、
シャム軍には500人の日本兵が加わっていた*5。
しかし別の説によればこの戦争は1585年または1587年であったとのことである*6。

1605年にジョン・デービス指揮下のイギリス船がマレー半島のパターで日本人の海賊と戦い、デービスも日本人海賊も死亡した*7。

1606年にはオランダ人のコーネリウス・マテレフに率いられた11隻の船がマラッカのポルトガルの植民地を攻撃したときにはポルトガル人と共に日本人兵が応戦し、オランダ人を撃退させた*8。

1610年のシャムの内戦では280人の日本人兵士たちが反乱軍に参加し、アユタヤの町を占拠し、国王に各種の要求を受け入れさせることに成功した*9。
これらの記録に残されている日本兵は、実は16世紀にこれらの地域に連れ込まれた日本人奴隷であったと推測されている*10。
日本人奴隷はポルトガル*11やアルゼンチン*12にまで売られていったと思われる記録も残されている。
キリスト教は1549年にイエズス会のフランシスコ・ザビエルによって日本に伝えられたが、

1582年にはすでに14万5,000人もの日本人信者が存在していたとも推測されている*13。
その一部は大名で、そのうち大友宗麟、有馬晴信、大村純忠の3大名は改宗した4人の少年を使節としてローマ法王に派遣するこをした。
これは1582年のことでイタリア人の宣教師アレクサンドロ・バリニャーノ(アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノ)の勧告に従ったものである*14。
この少年使節団はゴアやリスボンを経由し、ローマに到着し、法王グレゴリー13世に面会し、

1590年に無事日本に帰国した。
4人の日本人少年によるこの異例の出来事の記録はラテン語で出版され、日本では一般に『天正遣欧使節記』として知られている。
それによると、ミゲルという名の少年は旅行中各地で日本人奴隷を目撃し、同胞を家畜のように奴隷として安く売った日本人に憤りを覚えたと述べている。
マンショという名の別の少年の反応も同様で、あれほど多数の同胞の男女や少年少女が安い値段で売られて惨めな仕事をさせられているのを見て同情せざるをえなかった、と述べている*15。
これはヨーロッパでの事情であるが、南米にも日本人奴隷が存在していたらしい記録もある。

アルゼンチンのコルドバ市に1574年に創立された州立歴史館がある。ここに保存されている
1597年の記録文書によれば、フランシスコ・ハポンという名の日本人が3月4日に裁判所に対して告訴をしている。
その内容は3点からなり、その内容は3点からなり、自分は奴隷ではない、奴隷ではないので売買される理由はない、従って釈放されなければならない、という申立てである。
この裁判は公証人フランシスコ・デ・ソト・マジュールによって仲介され、原告の主張は認められ、
フランシスコ・ハポンが1598年に自由の身になったとされている*16。
しかしポルトガル人だけが奴隷の売買をし、日本人だけがその犠牲になったわけではない。
歴史はこれよりもはるかに複雑であった。
ポルトガル人たちがアジアに進出する以前にもアジアでは自国・他国の人々を奴隷にすることをしていた。

例えば1274年の文永の役では日本はモンゴル人、漢人、女真人、高麗人の混成軍によって襲撃され、
壱岐が占領されて多数の日本人が殺害された。
この事件は高麗側の公式記録である『高麗史』の28巻に明記されている。
それによると200人の少年少女が捕虜となり高麗王と王妃の奴隷として献上されたとある*17。
(*女真人(ジュシェン或は、ジュルチン)満州の松花江一帯から外興安嶺(スタノヴォイ山脈)以南の外満州および朝鮮半島北部にかけて居住していたツングース系民族)

14世紀半ばから盛んに活動していた倭寇(わこう)は対馬、壱岐、ならびに九州の松浦地方を根拠地としていたが、倭冦は日本人だけではなく高麗人も含んでおり*18、
中国や朝鮮半島から奴隷を売ることをしていた*19。
日本人奴隷は中国やインドシナに売られていた*20。
中国人は中国人によって外国船に売られていた*21。

ポルトガル人はすでに1520年に奴隷売買をしており奴隷は中国人であった*22。
16世紀の後半には朝鮮半島からの奴隷が日本に送り込まれ、
日本人の奴隷と共にポルトガル人に売られていた。
これらの朝鮮半島からの奴隷のほとんどは1592年と1597年に日本が侵略したときに奴隷にされたもので、
中国から到着したポルトガル船によって輸送されていた*23。
日本の兵士は朝鮮で子供を捕らえていたとも言われている*24。
長崎の商人が朝鮮半島からの奴隷売買にかかわっていたと言う説もある*25。
ジャパからの奴隷は特に安くリスボンに送られていた*26。

【日本人が奴隷になった理由】p14
 日本人が奴隷になった理由は主として4つある*27。
第1に、
封建制の日本では他の領主の住民を捕え、ポルトガル人に捕虜であるといつわって売りつけていた。その理由はイエズス会は捕虜の売買は大目に見ていたためである。しかし現実には戦争の結果発生した捕虜の数は多くなかったため、このようないつわりの方法による奴隷ができあがってわけである*28。
第2に、
当時の日本の慣習のために奴隷が発生した。例えば、男が何らかの理由により死刑にされるとその妻と子供は奴隷にならざるをえなかった。また夫と生活を共にすることを拒否した妻、父親を見捨てた息子、主人のもとを去った下僕が領主のもとを逃れ、その結果奴隷になった。男が債務の支払いができない場合にも子供や親が奴隷として売られていた*29。
第3に、
貧困のために親が子供を奴隷として売ることもあった*30。
第4に、
日本を出国したい日本人が自らを奴隷として売ることをした*31。
これはアメリカに移住したくても旅費を払うことができない貧しいヨーロッパ人たちが行っていた方法と事実上同じものである。しかしこのような自由意志による奴隷は奴隷として生きてゆくつもりはなかったので、マカオに到着すると直ちに大陸各地に逃亡するのが常であった。当然のことながらポルトガル人にとっては望ましい奴隷ではなかいのでその値段は非常に安価であった。・・・

【秀吉の激怒】p15
 カトリック教会のイエズス会に所属するフランシスコ・ザビエルが1549年に鹿児島に上陸したとき、薩摩の領主は島津貴久であった。・・・略・・・
秀吉が九州平定のため出陣したときの旅の様子と行軍の記録は『九州御動座記』という名の文書として知られており、秀吉の側近であった大村由己の書いたものとされる文章の中にこのことが記されている。その一部を現代文の日本語で要約すると、「後戸、平戸、長崎などに南蛮船が入港すると・・・数百人の男女が黒船に買い取られ、手足に鉄の鎖をつけられて船底に追い込まれ、地獄の苦しみよりひどいものである・・・」*35とある。
当時の日本では、ガスパール・コエルホが1581年から1590年までイエズス会の支部長で、秀吉とコエルホは数回会談した経験があった。ところが1587年に平戸の港に停泊中であったポルトガル船にたまたま乗船していたコエルホは、突然秀吉の使者に呼び出され上陸するように命令された。そして使者はコエルホに面会するとただちに5箇条の詰問をした。その質問を現代文の日本語で書くと次のようなものである。

質問その1ーーコエルホとその同僚はいかなる権限のもとで秀吉の臣下を
       イエズス会の信者になるよう強制するのか。
質問その2ーー宣教師たちはなぜ弟子や信者たちをそそのかして神社仏閣
       を破壊させているのか。
質問その3ーーなぜ僧侶を迫害すうのか。
質問その4ーーなぜイエズス会とポルトガル人は耕作に必要な牛を食用に
       するのか。
質問その5ーーイエズス会支部長コエルホはポルトガル人が日本人を買い
       入れ奴隷としてインドに送っているのをなぜ容認している
       のか*36

この詰問の件はルイス・フロイスの記した1588年2月20日付けの公式文書に明記されており*37、同じくフロイス著の『日本史』にも述べられている*38。
この『日本史』によれば秀吉は「・・・日本に交易のためにやってくるポルトガル人その他が多くの人々を買い入れ、奴隷として船で本国に送っていると聞いている。これは自分にとって耐えられない。従って今日までにインドその他の遠隔地に売られていった日本人のすべてを日本に送り返すように努力していただきたい。遠隔であるために送り返すことが不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人が買い入れた者を放免していただきたい。自分は奴隷を購入したときの費用を支払う用意がある」とのべている*39・・・以下略

【ポルトガル側の態度と反応】p18
これら一連の日本での出来事に対し、ポルトガルはどのような態度を示し、どのような反応を示したのであろうか。ポルトガルの国王ドン・セバスチアンは1571年3月12日付の勅令で日本人奴隷の売買を禁止した。・・・略・・・
日本でのイエズス会は1596年に破門令をだし、奴隷売買にたずさわったポルトガル人は破門されると述べている。・・・
翌1597年4月16日にはインド副王がポルトガル国王の名において第2回の勅令を公にしている。・・・
イエズス会は1598年に再び破門令を公布し、奴隷売買に従事した者は破門され、奴隷の少年または少女1人につき10クルゼーロの罰金を科せられる、としている*48。
・・・中略・・・
これらの勅令と破門令はまったく異なった理由にもとづくものであった。理由は2つある。
第1に、
アジア在住のポルトガル人の多くはカトリック教会の教えを無視し、日本人奴隷の女性と同棲して堕落した人生を過していた。この問題はポルトガル人が書いた文書の中に何度も記載されている*50。・・・中略・・・ガスパール・コエルホも秀吉がキリスト教を禁じた理由のひとつはポルトガル商人たちの不道徳ぶりであるとして次のように述べている。「これらの商人たちは若い人妻を奪い妾とし、子供誘拐して船に連れ込み奴隷としている。従ってその多くは自殺を選ぶ」*52。ポルトガル人の不道徳ぶりは1598年のイエズス会の破門令にも指摘されている。

第2に、
ポルトガル人が日本と朝鮮半島から奴隷を安く買い取り商品として扱ったことによって、キリスト教に対する悪評が広まってしまったという理由があった。この問題は1599年2月20日付の日本のイエズス会からポルトガルのイエズス会支部長宛の手紙に明確に記される*54。・・・以下略

【奴隷売買禁止の効果】p20
日本とポルトガル双方の法令、勅令、破門令などにもかかわらず、奴隷取引の禁止には事実上効果はなかった。17世紀に至っても日本人奴隷が海外に送られていた文書が存在している*56。1603年にゴア在住のポルトガル人がポルトガル国王宛に書いた奴隷売買についての陳情書がある。・・・略・・・インド副王は勅令に従って任務をする役人の任命さえしていなかった*58。インドやアジア各地に在住するポルトガル人は勅令を無視し、ポルトガル商人たちは何事もなかったかのように奴隷売買を継続していた。日本側にも2つの問題があった。
第1に、
領主は農民に極度の課税をしたため農民たちは自らを、そして家族を奴隷として売ることを余儀なくされていた。秀吉がコエルホに詰問した際、コエルホは一番大切なことは、奴隷を連れ去る外国船が入港する港を管理している領主がそのような船の入港を禁止することであると反論している*59。
第2に、
1543年にポルトガル人が日本に鉄砲を持ち込んだ時、日本は戦国時代であったという事実である。大名たちは直ちに鉄砲の有利さを理解しそれを戦で用い始めた。従って日本では急速に鉄砲の需要がたかまり、堺、国友、根来、雑賀などで大量の鉄砲が生産されるようになった*60。・・・中略・・・火薬を買えばその支払いをしなければならない。支払いには奴隷を差し出す大名を現れた。ポルトガル国王ジョン3世は「火薬の樽1個に対して日本人は奴隷50人を提供した」と発言したとされている*62。イエズス会は天草地方の三隅湾を「白銀海岸」と呼んでいたと言われている。その理由はここから奴隷が送り出され、硝石は銀色をしていたからである*63。
奴隷売買が禁止されることによって損害を受ける者は当然のこととして強硬に反対した。・・・最初の抗議文は次のように述べている。「奴隷を解放することはインド在住のポルトガル人に莫大な損害をもたらすので我々は直ちに集会をし、いかにしてこの問題に対処すべきかについて話し合った。これまで我々は奴隷を買い入れるために百万クルゼーロ、またはそれ以上の出費をしている。しかも日本でのキリスト教を管理しているイエズス会の司教ならびに神父は公式の承認と認可の文書を発行することによって奴隷を買い入れることを認めている。従って国王がこの事実を取り消して我々がすでに手に入れた奴隷を我々から奪うことを受け入れることはできない」*64。・・・中略・・・国王フィリーべ2世の意図を要約すれば、もし法的で理由のある説明をすることができる場合には奴隷は所有してもよく、すべての奴隷を無条件に解放するのは自分の意図するところではない、前任の国王ドン・セバスチアンも同様に考えていたのだ、ということである。

【奴隷売買の禁止が失敗した理由】p23
 これまでに述べた事項を要約すると下記の5項目にまとめることができる。
第1に、
日本人がなぜポルトガル人によって奴隷として売買されたのか。
第2に、
日本社会になぜ奴隷制度を生み出す背景があったのか。
第3に、
ポルトガル国王その他のポルトガル関係者がどのように奴隷問題に対応したのか。
第4に、
日本在住のイエズス会のポルトガル人がこの問題をどのように扱ったのか。
そして第5に、
アジア各地に在住のポルトガル人が奴隷売買を禁止する試みにどのように反応したのか、
である。
・・・中略・・・どこにでも見られる人間のエゴイズムとして要約できる。これは誰もが自らの利益と安全を考えるだけの歴史であった。そしてここでの犠牲者は不幸にも奴隷となってしまった日本人の成人男女と少年少女であった。

【日本側の行動】p25
1587年に秀吉は新たな規則を定め、大名がキリスト教に改宗する場合には秀吉の許可が必要になった。・・・中略・・・当時の日本には少なくともイエズス会、フランシスコ会、ドミニカ会、合うガスティン会の宣教師が存在していたことが知られており、しかもこれらの異なった会派の間の睨み合いと争いがあったことは知られているので、それが原因である可能性が高い*75。
・・・中略・・・1614年にはキリスト教からの改宗を拒否した高山右近を含め、300人がルソンに追放となった。1616年には中国船以外の外国船は平戸と長崎以外に入港することを禁止された1629年頃には信者摘発の方法として踏絵が実行されはじめた。1636年には日本在住のポルトガル人は長崎の出島に隔離され、1638年にはポルトガル船は日本の港すべてに入港することを禁止され、この時点でポルトガルとスペインは日本から完全に閉め出されることになった。奴隷売買に関与していなかったイギリスも日本から閉め出された。オランダ人は例外とされたヨーロッパ人であったが、それでも1641年に出島に隔離されることになり、一般にこの年が鎖国の始まりとされている。・・・中略・・・従って日本にとってもっとも納得のゆく合理的な判断は、ヨーロッパの国すべてを疑いの目でながめることであった。カトリックであるかないかに関わらず、キリスト教の国はすべて危険であると見なすのが最も安全である。従って日本にとっての最善策は鎖国を選ぶことであった。

【これらの出来事の解釈】p27
 歴史上の出来事を取り上げ、それらの出来事が別の形で処理されていたとか、ある特定の事件が起こらなかったら、などと考えるのは大いに興味があるものの、実際には全く意味のないことである。・・・略・・・秀吉があらわれなかったら日本はカトリックの国になっていたかもしれないし、カトリックとプロテスタントの間の熾烈な憎みあい殺しあいが日本で再現されていたかもしれない。信長は仏教に反対の態度をとったばかりかそれを行動にあらわすことによってキリスト教が広まることを助けた*77と言えるので、その意味でもこの信長と秀吉両者の違いが歴史に反映されているとも言える。・・・中略・・・海外に送られた奴隷が数年後には自由の身になれた可能性は大いにありうる。しかしここにも問題がある。日本国内での奴隷であれば何といっても日本文化の中での生活であり、自由になった場合には生まれ故郷に帰る可能性も充分ある。しかし海外に送られた奴隷の場合には、いくら自由の身になっても日本に帰るなどということは事実上不可能である。このようないろいろの理由が総合的に考慮された結果が秀吉の具体的行動として実行されたものと思われる。ポルトガル側の口先だけで行動を伴わない態度は、日本側に不信と疑惑と敵意の反応をもたらすには充分すぎるものであった。この態度では日本に決定的な行動をとらせることになっても少しも不思議ではない。そしてサン=フェリーペ号事件がその引き金となった。そしてその後の鎖国に至るまでの一連の行動もすべてこの観点から理解されるべきである。

【結 論】p29
日本は1641年に鎖国政策を実行し始め、外国との接触を最小限に保つことによって、元禄文化のようなある意味では日本独自の文化を形成し発展することができた。資本主義の始まりのような経済も発展した。鎖国には好ましくない点もあったと議論するのは容易である。しかし徳川幕府支配の日本は戦国時代とは異なり、原則的には平和であり、なによりも問題を起こし続けた厄介なヨーロッパ人たちを排除できたことは日本に有利であった。・・・中略・・・この黒船に始まった開国は日本にとっては屈辱であり、苦痛であり、怒りであり、トラウマであり、何よりも極度の憤慨であった。軍事力と技術力が劣っていたためにこのような惨めさと哀れさを味合わされたと理解した日本は「西洋化」と「近代化」に励むことになった。その背景にあったものは、憎い西洋に打ち勝つには西洋の軍事力と技術力を手に入れなければならないという思想があったためである*81。
その結果日本は「西洋化」と「近代化」に成功し、日清・日露戦争に勝ち、第1次世界大戦でも戦勝国の一つとなり、世界でばかにされない一流国になったと思っていたところ、西洋人は人種主義によって日本を攻撃することを始めた。これは日本にとって新しく現われた別の形の西洋に対する憤慨と怒りであった。真珠湾攻撃はこの観点から理解すべきである*82。このように考えるとポルトガル人による日本人奴隷売買は反西洋という一連の事柄の最初の出来事であると見なすことができる。別の表現を用いると、一個人、組織、国などの違いに関係なく、人間の行動は常に予期しなかった結果を生み出す可能性を含んでおり、場合によっては戦争のような大事件にさえなりうるという解釈もできる*83。

『近代世界と奴隷制ー太平洋システムの中でー』人文書院 池本幸三・布留川正博・下山晃著 1995年10月5日刊。
奴隷貿易の制度化 p97
 奴隷貿易が軌道に乗りはじめると、ポルトガル王室はそれを自らの管理化におこうとした。このために王室は1486年に「リスボン奴隷局」を創設した。この組織の役割は、まずアフリカからリスボンに運び込まれてきた奴隷を受け取り、検査し、標準価格をつけ、オークションで売却することであった。また、奴隷商人に貿易許可を発行し、特許料を受領した。この許可証によって貿易を営む商人は、さらに売上高の4分ノ1を税として奴隷局に納めなければならなかった。これは現金でよりも奴隷そのもので支払われる場合の方が多かった。
ポルトガル商人が獲得した奴隷の数は、大略次のようになる。15世紀後半は、年によって浮き沈みがあったものの年間数百人から2千人程度であった。とくにジョアン2世が即位した1480年代以降、その数は着実に増大する傾向にあった。16世紀の最初の10年間は、奴隷貿易が全般的に不振であったが、その後急拡大を遂げる。16世紀前半に獲得された奴隷数は、順調にいった場合には全体で年間5,500人程度であった。このうち3,500人がモーリタニアから上ギニアで獲得され、残り2,000人が下ギニアならびにコンゴで獲得された。こうして、16世紀前半になると、奴隷貿易が王室収入の重要な一部となった。(16世紀1,500年~1,599年:1543年ポルトガル人が種子島へ上陸)

p116 表2ー1スペイン領アメリカに輸出された奴隷の年齢および性別。
       イギリス海南会社の事例(1715年~1735年)
年齢5ー9。男性17人 女性22人 計39人 比率4.0%
年齢10ー14。男性201人 女性88人  計289人 比率29.8%
年齢15ー19。男性131人 女性146人 計277人 比率28.6%
年齢20ー24。男性177人 女性100人 計277人 比率28.6%
年齢25ー29。男性37人  女性21人  計58人  比率6.0%
年齢30ー34。男性14人  女性9人  計23人  比率2.4%
年齢35ー39。男性4人  女性0人  計4人  比率0.4%
年齢40ー50。男性3人  女性0人  計3人  比率0.3%
総計    男性584人 女性386人 計970人 比率100.1%
C.Palmer Human Cargoes, The British Slave Trade to Spanish
America. 1700ー1739, University of II-Iinois Press, 1981,
p122により作成。

p118
 表2ー2 中間航路における奴隷の死亡率
奴隷貿易業者の国籍
イギリスー時期1680年から1688年ー死亡率24%
オランダー時期1680年から1749年ー死亡率17%
フランスー時期1713年から1777年ー死亡率12%
イギリスー時期1720年から1725年ー死亡率13%
デンマークー時期1777年から1788年ー死亡率15%
ポルトガルー時期1795年から1799年ー死亡率8%
Palmer,op.cit.., pp53-54, H.S.Klein.The Middle Passage:
Comparative Studies the Atlantic Siave Trade, Princeton
Univesity Press, 1978, pp160 ー161.により作成。

p158
コラム④ 大西洋奴隷貿易時代の日本人奴隷
 天正15年(1587年)6月18日、豊臣秀吉は宣教師追放令を発布した。
その1条の中に、ポルトガル商人による日本人奴隷の売買を厳しく禁じ
た規定がある。日本での鎖国体制確立への第1歩は、奴隷貿易に直接結
びついていたことがわかる。

 「大唐、南蛮、高麗え日本仁(日本人)を売遣候事曲事(犯罪)。
  付(つけたり)、日本におゐて人之売買停止(ちょうじ)之事。
  ・・・右之条々、堅く停止せられおはんぬ、
  若達犯之族(やから)あれば、忽(たちまち)厳科に処せらる
  べき者也。」(伊勢神宮文庫所蔵「御朱印師職古格)

日本人を奴隷として輸出する動きは、ポルトガル人がはじめて種子島に漂着した1540年代の終り頃から早くもはじまったと考えられてる。16世紀の後半には、ポルトガル本国や南米アルゼンチンにまでも日本人は送られるようになり、1582年(天正10年)ローマに派遣された有名な少年使節団の1行も、世界各地で多数の日本人が奴隷の身分に置かれている事実を目撃して驚愕している。
「我が旅先の先々で、売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、・・・こんな安い値で小家畜か駄獣かの様に(同胞の日本人を)手放す我が民族への激しい念に燃え立たざるを得なかった。」「全くだ。実際、我が民族中のあれほど多数の男女やら童男・童女が、世界中のあれほど様々な地域へあんなに安い値でさらっていって売りさばかれ、みじめな賤業に就くのを見て、憐憫の情を催さい者があろうか。」といったやりとりが、使節団の会話録に残されている。この時期、黄海、インド洋航路に加えて、マニラとアカプルコを結ぶ太平洋の定期航路も、1560年頃から奴隷貿易航路になっていたことが考えられる。
秀吉は九州統一の直後、博多で耶蘇会のリーダーであったガスパール・コエリョに対し、「何故ポルトガル人はこんなにも熱心にキリスト教の布教に躍起になり、そして日本人を買って奴隷として船に連行するのか」と詰問している。南蛮人のもたらす珍奇な物産や新しい知識に誰よりも魅惑されていながら、実際の南蛮貿易が日本人の大量の奴隷化をもたらしている事実を目のあたりにして、秀吉は青天の霹靂に見舞われたかのように怖れと怒りを抱く。秀吉の言動を伝える『九州御動座記』には当時の日本人奴隷の境遇が記録されているが、それは本書でたどった黒人奴隷の境遇とまったくといって良いほど同等である。
「中間航路」は、大西洋だけではなく、太平洋にも、インド洋にも開設されていたのである。「バテレンどもは、諸宗を我邪宗に引き入れ、それのみならず日本人を数百男女によらず黒舟へ買い取り、手足に鉄の鎖を付けて舟底へ追い入れ、地獄の呵責にもすくれ(地獄の苦しみ以上に)、生きながら皮をはぎ、只今より畜生道有様」といった記述に、当時の日本人奴隷貿易につきまとった悲惨さの一端をうかがい知ることができる。
ただし、こうした南蛮人の蛮行を「見るを見まね」て、「近所の日本人が、子を売り親を売り妻子を売る」という状況もあったことが、同じく『九州御動座記』に書かれている。秀吉はその状況が日本を「外道の法」に陥れることを心から案じたという。検地・刀狩政策を徹底しようとする秀吉にとり、農村秩序の破壊は何よりの脅威であったことがその背景にある。
しかし、秀吉は明国征服を掲げて朝鮮征討を強行した。その際には、多くの朝鮮人を日本人が連れ帰り、ポルトガル商人に転売して大きな利益をあげる者もあった。ーー奴隷貿易がいかに利益の大きな商業活動でったか、このエピソードからも十分に推察ができるだろう。

p160
コラム⑤ イギリス東インド会社と奴隷貿易
 1600年の大晦日にエリザベス女王の勅許によって設立されたイギリス東インド会社は、「近代的」株式会社のひとつの典型であった。徐々に民主的な組織形態を備えるとともに、一時さかんに奴隷貿易に従事して、あくことのない利潤の追及にもつとめていたからである。
同社は、1657年には全社員の無記名投票により重役を選出して会社の重役団・総裁の封建的な専制を拝し、62年には全社員の有限責任制を実現した。会社組織の経営的な形態や会社運営の形式から見れば、確かに同社は「近代的であり且つ民主的」な性格をもっていた。62年の改組以後、同社が「名実共に近代的民主型株式会社」に成長したといわれるゆえんである。従来のわが国の歴史研究は、東インド会社のこうした「民主的」側面を強調し、それを時には近代ヨーロッパ社会が熟成させた普遍的な民主性に映しあわせてきた。(そのことは、戦前・戦中、そしてさらには戦後の非民主的な日本社会を再検討するための時代的な要請でもあった。)
しかし「民主的」な組織形態を整えてゆく一方で、少なくとも1670年代から1720年代にかけて、東インド会社がマダカスカル島近辺を中心に奴隷の調達と輸出を独占する最大手の奴隷貿易会社でもあった事実を見落としてはならないだろう。すでに1645年にはマダカスカルへのイギリス人の入植がすすみ、喜望峰以東の地域での排他的・独占的な貿易の権利を公認されていた同社が、この島から新大陸向けの奴隷を調達する主役になった。奴隷輸出の最初のピークは、1670年から20年間である。この時期のイギリスの『国家文書要覧』や、英領北米植民地および西インド諸島各地の海運局の文書には、東インド会社を通じた奴隷輸出の実態や、奴隷貿易の権益をめぐる利害の対立を伝える記録が数多く収録されている。マダカスカルからバルバドス、ジャマイカ、ヴァージイア、ニューヨークなどに150トン級の奴隷船が送られ、1度の航海で200~600人の奴隷が運ばれた。
本文でもふれているように、東インド会社や王立アフリカ会社だけが奴隷貿易を独占する事態に対しては、貿易勅許をもたないイギリス国内の業者や英領植民地の貿易商人のあいだから、「自由な】取引を求めてさまざまな申し立てがたびたびなされた。東インド会社は奴隷貿易のライセンスを他の業者に下付する形で、大きな利益をあげていた。非合法の「もぐり」とされ、「海賊」のレッテルを貼られて文書の中に登場する多くの貿易商人は、同社や女王のライセンスをもたない新興業者、あるいは植民地の貿易商人のことだったのである。

p322
かつて日本政府はハワイ王国と協定を結び、1885~94年に約3万人を砂糖プランテーションの労働者として送り出したことがある(「官約移民」)。また日本国内で移民会社によってリクルートされた移民たちは、アメリカ西部諸州では人夫請負業者の斡旋をうけて、鉄道工事や保線、炭鉱、季節移動農業労働者、製材、漁業、その他家内労働者として働いた。彼らは1880年代以後、排除された中国人労働者に代わる労働力となった。また1908年以後には、日本人移民は奴隷制度廃止後のブラジルへ、コーヒー栽培の労働力として移住した。私たちは輝かしく語られる日本人移民の「サクセス・ストーリー」のかげに潜む、幾多の移民たちの苦闘の歴史を学ぶ必要がある。
さらにこうした日本人移民の波をより広い展望でとらえるならば、それはインド人と中国人を中心とするアジア人苦力(クーリー)が、19~20世紀を通じて、東・東西アフリカ、インド洋諸島、南・南東アジア、オセアニア、さらにカリブ海を含む南北アメリカへ大々的に動員された歴史の一環に含められるべきであろう。インド人は1世紀の間に、3,000万人が主としてプランテーション労働力として流出し、そのうち2,400万人が帰国した。さらに中国人を中心に500~600万人が海外に流出している。この時期のアジア人の海外への労働力移動は1,200万人を下らなかったと考えられる。
こうしたアジア人クーリーの移住は、その規模や内容において、大西洋奴隷制度に匹敵するといえないであろうか。しかも黒人奴隷の規模は、すくなくとも4世紀以上にわたって約1,000万人規模であったのに、アジア人の場合はわずか1世紀あまりの間にほぼ同数が動員されたのである。
また、1820~1920年には、ヨーロッパから大西洋を越えてアメリカ合衆国への移民が、約3,500万人を数えた。それは北西ヨーロッパにはじまる農業の資本主義化、工業化にともなう社会変動のもとで、まず北西ヨーロッパ人が、ついで南部・東部ヨーロッパ人が、アメリカ合衆国を中心に新大陸へ、過剰労働力として流出したのである。アジア人といい、ヨーロッパからのアメリカ移民といい、資本主義世界のシステムの展開は長期の巨大な労働力移動を伴ったのである。
また、アフリカにおいては、奴隷貿易廃止後は、アフリカ分割に乗り出したヨーロッパ列強が、土着の農業共同社会の上に、鉱山やプランテーション、牧場労働などへの産業労働力を調達しようとした。そのために強制徴用や課税の金納強制の手段によって、共同体生産と部分的賃労働との「接合」をはかったこともあった。そこでは強制労働と賃労働とが相互に交替可能であり、両者はしばしばオーバーラップした。南アメリカのアパルトヘイト体制の核心も、黒人住民を一定地域に定住させて一定労働力を確保し、それを半ば強制的に利用するのが狙いであった。
イギリスがアメリカ低南部の藍作プレンテーションを喪失した後インドにつくりあげた藍作プランテーションも、19世紀90年代までに年平均生産を5万トンに急膨張させたブラジルのゴム・プランテーションも、ある意味ではこうした強制栽培・強制労働再編との連鎖をなしたものである。英領マラヤでは1900年に5,000エーカーていどにしか過ぎなかったゴム園は、1913年には125万エーカーに達した。1870年以降台頭した中南米諸国のバナナ・プランテーション、1900年までの40年間に年平均5万トンの生産を誇るようになった西アフリカ一帯のパームオイル・プランテーション、インド、スリランカで急拡張をみせた茶のプランテーション・・・こうした数かずのプランテーションの歴史を本書のテーマとつなぎ合わせることも今後は必要な作業となるだろう。「大西洋システム」をはなれたプランテーション経済は、今日では、強制・半強制を半ば必然的に伴った「世界システム」の労働市場に舞台を移している。

p329
コラム⑫ 黒人奴隷哀歌とポピュラー音楽
1969年に寺山修司が作詞し、カルメン・マキが歌ってヒットした歌に「時には母のない子のように」がある。この歌にはじつはそのままの原型となった元歌がある。南北戦争前にアメリカ南部でもっとも流行したといわれる「母のない子(A Motherless Child)」という歌がそれである。「母のない子」と同じテーマの類似の歌は南北戦争直前に無数につくられているが、それは奴隷競売の横行による家族離散の実情を反映してのことである。
 
 “A Motherless Child”
Sometimes, I feel like a mother-
less child
Sometimes, I feel like a mother-
less child
Sometimes, I feel like a mother-
less child
A long way from home
A long way from home
A long way from home

 「時には母のない子のように」
時には母のない子のように だまって海をみつめていたい
時には母のない子のように ひとりで旅に出てみたい
だけど心はすぐわかる
母のない子になったなら だれにも愛を話せない

時には母のない子のように 長い手紙を書いてみたい
時には母のない子のように 大きな声で叫んでみたい
だけど心はすぐわかる
母のない子になったなら だれにも愛を話せない

 カルメン・マキ『時には母のない子のように』
  (CBSソニー・レコード、1973)。
このコラムは、主に福本保信『黒人奴隷哀歌』(『西南学院大学紀要』21、1988)による。

サトウキビやタバコを植えるとき、ワタ摘み仕事から帰るとき、監督に鞭打たれるとき、母と子が別々に売られたとき、仲間が死んだとき、祭のとき、解放の知らせを聞いたときーありとあらゆる機会に、黒人奴隷たちは詩や歌という形で自分が血のかよう1人の人間であることを示そうとし、知っているかぎりの言葉をむすび合わせておびただしい数の歌を残した。彼ら自身の手になる楽譜はほとんどのこされていないため、果たしてそれらの詩や歌が実際にはどのようなメロディーで唄われたのか定かではないが、プレンテーションには、いつも奴隷たちがつぶやき口ずさむ歌があふれていた。それらの歌には、畑の独虫に手足をふくれ上がらせた1人の人間の叫びがこもり、肉親を慕う1人の親や子としての魂がこもっていた。旦那(奴隷主)や監督に対する皮肉も1級であった。「もの」や「家畜」ではなく、喜怒哀楽に翻弄され、祈り、呪詛する「人間」の声が、特異で簡素な文法表現の作業歌や生活歌になり、黒人霊歌になり、やがて西インド経由のリズミカルな音楽と融合して、ジャズやブルースやソウル・ミュージックの生まれる最初の源になった。日々たえ間なくつづく極限状態のなかで生涯を過した奴隷たちのあいだから、名もない語り部や歌うたいが現われ、そうした作業歌や霊歌を伝えていった。今日私たちになじみの深いポピュラー・ミュージックに対してジャズやブルースが与えた影響の大きさを思うと、ジャズやブルースの源流が黒人奴隷たちの哀歌であった以上、今日の大衆音楽もプランテーションで唄い継がれた無数の奴隷哀歌に、その遠い源を求めるべきであることがわかる。

図説 ポルトガルの歴史 ふくろうの本
2011年5月20日 初版印刷
2011年5月30日 初版発行
著 者:金七紀男(きんしち・のりお)
装幀・デザイン:ヒロ工房
発行者:小野寺優
発 行:河出書房新社
  東京都渋谷区千駄ヶ谷2ー32ー2
 電話03ー3404ー1201
印 刷:大日本印刷株式会社
製 本:加藤製本株式会社
ISBN978-4-309-76167-1
著者略歴
金七紀男(きんしち・のりお)
1940年、旧満州国生まれ。東京外国大学教授、
天理大学教授を経て、東京外国大学名誉教授。
専攻はポルトガル近世史および植民地史。
著書
『図説 ポルトガル』(共著、河出書房新社)
『ポルトガル』(彩流社)
『エンリケ航海王子ー大航海時代の先駆者とその時代』(刀水書房)
『ブラジル史』(東洋書店)など。
訳書
『ポルトガルとその将来』(共訳、時事通信社)
『ポルトガル』(ほるぷ出版)
『歴史学の現在』(共訳、岩波書店)
『日葡修好通商条約と外交関係史1860~1910』(彩流社)など
  (P89 黙示録の怪獣 ナポレオン)
『じゃぽん奴隷異聞』小林昌彦(こばやし・まさひこ)2000年6月1日 (株)文芸社
{フレデリロ・マウロ著「大西洋国家ポルトガルと奴隷」1570ー1670 ポルトガル語
/千秋文庫 佐竹義春/「九州御動座記」/デ・サンテ「日本使節対話録」}
『ブラジル学入門』中隅哲郎(なかすみ・てつろう)1994年9月30日(有)無明舎出版
『ブラジル観察学』中隅哲郎(なかすみ・てつろう)1995年9月30日(有)無明舎出版
『ブラジル史』アンドウ・ゼンパチ(安藤全八、本名:安藤潔)1983年9月22日 (株)岩波書店
『イエズス会の世界戦略』高橋裕史(たかはし・ひろふみ)2006年10月10日 講談社選書メチエ372(株)講談社
『モンスーン文書と日本ー17世紀ポルトガル公文書ー』高瀬弘一郎(たかせ・こういちろう)平成18年2月28日 (株)八木書店
『大航海時代の日本ーポルトガル公文書に見るー』高瀬弘一郎(たかせ・こういちろう)2011年2月28日 (株)八木書店
『キリシタン時代の研究』高瀬弘一郎(たかせ・こういちろう)1977年9月28日 (株)岩波書店
『イエズス会と日本1』大航海時代叢書(第Ⅱ期)6(全24巻 第6回配本)高瀬弘一郎(たかせ・こういちろう)1981年1月6日(株)岩波書店
『イエズス会と日本2』大航海時代叢書(第Ⅱ期)7(全25巻 第22回配本)高瀬弘一郎・岸野久 1988年2月29日(株)岩波書店
『イエズス会の歴史』ウィリアム・V・バンガード、監修 上智大学中世思想研究所 2004年12月25日 (株)原書房
『近代世界と奴隷制ー大西洋システムの中でー』池本幸三・布留川正博・下山晃 1995年10月5日 人文書院
『16・17世紀 イエズス会日本報告集 第1期 第1巻』松田毅一 1987年7月25日 (株)同朋舎出版
『豊臣秀吉事典』杉山 博・渡辺 武・二木謙一・小和田哲男 1990年9月5日(株)新人物往来社
『秀吉の南蛮外交ーサン・フェリーペ号事件』松田毅一(まつだ・きいち)昭和47年2月25日(株)新人物往来社
『16世紀 日欧交通史の研究』岡本良知 復刻原本昭和17年 昭和55年11月5日第2刷(株)原書房
『創業の初心① 秩序ある時代を求めて』古典大系 日本の指導理念4 発行者:田中重弥 編集所:(株)組本社、第1法規(株)発行。
『織豊政権(しょくほうせいけん)とキリシタンー日欧交渉の起源と展開ー』
  清水紘数一(しみず・ひろかず) 2001年3月31日 (有)岩田書店
『飢餓と戦争の戦国を行く』藤木久志(ふじき・ひさし)2001年11月25日 朝日新聞 朝日選書687
『日独文化人物交流史ードイツ語事始めー』宮永 孝(みやなが・たかし)1993年11月20日(株)三修社
『評伝モラエス「美しい日本」に殉じたポルトガル人』林啓介(はやし・けいすけ)角川選書281 平成9年2月28日(株)角川書店
『続南洋日本町の研究』岩生成一(いわお・せいいち)1987年11月18日(株)岩波書店
『デ・サンデ天正遺欧使節記 新異国叢書5』訳者 泉井久之助・長澤信壽・三谷昇二・角南一郎 昭和44年9月30日(株)雄松堂書店
『火縄銃の伝来と技術』佐々木稔・関周一・峯田元治 2003年(平成15)4月1日(株)吉川弘文館
『日本銃砲の歴史と技術』宇田川武久編 2013年9月5日 (株)雄山閣
『史譚 天正遺欧使節』松田毅一 1977年7月28日(株)講談社
『南蛮のバテレン』松田毅一 1991年7月1日 朝文社
『村と領主の戦国世界』藤井久志 1997年5月15日(財)東京大学出版会
『ケンペルと徳川綱吉ードイツ人医師と将軍との交流ー』B・M・ボダルト=ベイリー著 中公新書1168 1994年1月25日
『逃げる百姓、追う大名ー江戸の農民獲得合戦』宮崎克則 中公新書1629 2002年2月25日
『江戸のオランダ人ーカピタンの江戸参府ー』片桐一男 中公新書1525 2000年3月25日
『バタヴィアの貴婦人』白石広子 新典社新書7 2008年5月30日
『長崎グラバー邸 父子2代』山口由美 集英社新書0559D 2010年9月22日
『日本史1~5 キリシタン伝来のころ』ルイス・フロイス 柳谷武夫 昭和51年4月30日ー昭和53年6月9日 東洋文庫(株)平凡社

高瀬弘一郎 著作
『キリシタン時代の研究』岩波書店
『イエズス会と日本』1・2巻 岩波書店
『キリシタンの世紀』岩波書店
『キリシタン時代対外関係の研究』吉川弘文館
『キリシタン時代の文化と諸相』八木書店
『キリシタン時代の貿易と外交』八木書店
『モンスーン文書と日本』八木書店

2014年7月23日(水)
ニュース。5件
1、ポルトガルBES創業家の危機拡大、債権者からの資産保護を申請 
2、ガザ即時停戦求める決議案、ヨルダンが国連安保理に提出
3、インドネシア大統領選、ジョコ氏が当選=選管
4、朝鮮人追悼碑:群馬県が許可更新せず 政治的と判断
5、韓国(江原道太白市)で列車同士が衝突 1人死亡90人重軽傷

   榎本 東州 記

2014年7月24日(木)写真を追加。榎本 東州 記

この記事は第71章 日本と世界の架け橋 禅僧“ネルケ無方”その18に投稿されました タグ: . このパーマリンクをブックマークする。 コメントとトラックバックは現在受け付けていません。