日本製原爆完成全文 パート3<日本製原爆完成の最大功労者は【巴工業】>

日本製原爆完成全文パート3 (全87ページ)

副 題 <日本製原爆完成の最大功労者は【巴工業】>

巴工業―東京都品川区大崎一丁目2番2号アートヴィレッジ大崎セントラルタワー 12階

『日本』と云う国名ほど耳を汚す言葉が、この地球上に存在するだろうか?世界人類の敵である。『日本』を疑え。『日本』を信じるな。『日本人と犬は立ち入り禁止』と世界は宣言すべきだ。日本が鎖国するのではなくて、世界が無期限で「日本を封じ込める」ことを決行すべきである。アメリカ・イギリス・ドイツ・イタリア・スウェーデン・オランダ・ハンガリーが日本の我が儘を助長しているから、世界がテロ攻撃(大日本帝国陸海軍では“遊撃隊”)の標的にされている訳である。その原因は「1945年8月6日(広島:ウラン型)9日(長崎:プルトニュウム型)」に人類史上第1号の人体実験として核兵器を地上で起爆させて、ポーランド人でドイツ国籍のキリスト教(カトリック)の神父 愛宮真備(ラサール、上智大学名誉教授)神父と、裕仁天皇(皇族ら)が世界に核兵器を売り歩き、中国とアメリカやロシア、イギリス、フランス、ドイツ、スイス、インド、パキスタン、北朝鮮、などの多くの国々が「日本製原爆を購入した」ことが、今日世界中が“日本の奴隷国家”に成り下がっている原因である。日本の奴隷国家に成り下がっている自国の姿に、国際連合加盟諸国も未加盟の国も気が付かないで、自国の国富と権力に固着して“核弾頭を枕にして睡眠不足を嘆いている”。地上から核兵器の完全なる廃棄をすれば、少しは安眠が得られて、良い知恵もでてくる訳だが、睡眠不足の頭脳で国連演説をするから、インドの外相S・M・クリシュナ(S.M. Krishna)外相(78)がポルトガル政府のスピーチ原稿と取り違えて読み上げた如くに、ポルトガル外相の原稿を読む失態になるのである。この脳天壊了(ノーテンファイラー)なインド外相は年齢的に見ても当然に罷免だろ。日本のメデァは、こぞってこのインド外相のヘマ(失態)を茶化していた。しかし、このインド外相の演説原稿をすり替えたのは、日本政府高官である。日本政府のアメリカ側代弁者“ゴア元副大統領”が日本の意向に従わないことに対する“ゴア”への意趣返しであり、インドが日本の呪縛から離れようとすること対する、嫌がらせでもある訳だ。何処までも我が儘を通す荷が“日本人”である。それでもインドでは“スズキ=SUZUKI”の二輪車や自動車を購入したがるインド人が居るのは、インドが日本の奴隷民族だからである。今の家老(日本国)より元の家老(イギリス・オランダ・ポルトガル)の方が良かろう(家老)でしょ。インドの耆那(ジナ)教ガンジー家が支配するや神様は、日本の神様(天皇制=スメラノミクニ)の奴隷生活に満足しているのだから、マァー良いかね。インド人は元日本国首相 鳩山由紀夫と同じ友愛主義者としての釈迦族系「耆那(ジナ)教=ヒンズー教」者から何事に於いても“問題ない”が口癖だから、今回のインド政府のスペイン化宣言も問題ない訳だ。ガンジーの非暴力主義で「マハトマ・ガンジー」は世界一の平和主義者の名前を後世まで残すことに成功した。しかし非暴力運動を信じた無名の人々は、鬼籍にはいっている。ガンジーにマハトマ(偉大なる魂=賢者)の称号を授けたのは、日本の天皇家即ち“スメラミクニ”である。インドの利権については、東インド会社も強欲だったが、日本株式会社は最強の強欲でインドの奴隷化に成功している。それは<インドの核兵器所有と原子力発電所建設>で、インド政府が近隣諸国に脅威を与え自国の防衛力を誇示できているという幻想にある。核兵器も原子力発電設備も日本株式会社から供与されている。それは、インド政府の自主権の如く外見上は飾られているが、単に日本政府の奴隷国家でしない。インドのカレーはウコンの色ではなくて、イエローケーキ(濃縮ウラン)の色である。アメリカのタクシーの黄色もイエローケーキ(濃縮ウラン)を象徴している。だから、日本の天皇(スメラミクニ)は黄色人種の王様イエローモンキーである。人間には程遠い存在である。悪知恵だけは、神様並だがね。神様は悪逆非道な存在でしょ。だから天皇家(スメラミクニ)を“現人神が世界の創造神”としてスメラクラブ(イタリア料理店 キャンティ)は哲学定義して居る訳だ。“神の謀略=現人神一族の謀略(アラヒト神の謀略)”と云う訳だ。希臘(ギリシア)神話や北欧神話や印度神話など世界中に神話と称する物語は星の数程あるが、インドネシアの“黄色い巨人の神話”については、前にも述べた様に、大日本帝国陸海軍の参謀本部直轄の軍事探偵(諜報員)が、インドネシア各地で流布した神話である。それは、日本のテレビ番組3分間の巨人「ウルトラマン(円谷プロ制作=スメラミクニ)」と云う訳である。現在でも日本のマスコミは“スメラノミクニ”を、日常的にメデァを通して潜在意識下に世界創造哲学思想として植え付け続けている訳であるから、日本の世界覇権思想に終わりはないのでる。神様は商売上手で世界中に自動車を売り歩いている。その名前は「日産・豊田・本田・鈴木・松田」である。此処まで、云っても日本人は気が付かない位に、大日本帝國政府(徳川明治政府)の思想教育は現日本人を呪縛し続けいるのである。日本人には「確固たる信念がない」から、“批判教育”に惑わされるのである。
京都・大阪・神戸を中核とした「哲学思想」が問題なのである。そこに<【巴工業】と云う遊び人が巣食う世界的な企業>が登場する訳である。そこは、当然の事ながら、神奈川県逗子市・葉山市と京都府下と埼玉県と福島県・栃木県・岩手県・石川県金沢市に住む“スメラミクニ一族=釈迦族”である。映画流のタイトルで云えば「神々の深き欲望」である。神様は無欲ではなくて「限りない欲望の塊」であり、およそ正義とはかけ離れた存在と“希臘(ギリシア)神話”は説諭しているのである。
さて、【巴工業】は何処に繋がっているのか?と云えば、『世界はふたりのために=佐良直美・キャッシー中島・木原美知子』のレズビアン仲間に繋がっている。それは、大日本帝國政府が広島と長崎で地上起爆させた「日本が製造し使用した人類第1号・2号の原子爆弾」であり、日本大学であり、相撲協会であり、築地市場であり、浄土真宗であり、築地本願寺であり、朝日新聞本社であり、三幸建設(四元義隆=血盟団事件)であり、パレスチナ解放戦線の重信房子であり、連合赤軍の永田洋子であり、一燈園(京都都 西田天香)の出口由美子・鉄城夫婦であり、東照寺の開山 原田祖岳であり、明仁天皇でもあり、秋篠宮・紀子夫婦でもあり、原不二子(同時通訳、相馬雪香の子)でもあり、新宿「中村屋」でもある訳である。忘れていました「徳仁皇太子・雅子夫婦」でしたかね。それから「小島威彦の一族」これが“最強の悪性種の神”スメラノミクニの神である。これらが、日本に深き欲望に塗れた神々達の名前です。建築家「谷口吉郎と坂倉準三と山口文象」などの輩の流れを汲む建築家に石碑でも建立して貰って、これらの悪逆非道を後世に伝えるべきである。勿論、建築家自身たちの悪逆非道についての記述も書かれるべきである。耐震強度偽装事件の主犯は、実は関東大震災の時点からはじまっている訳である。関東大震災の復興に当たった【帝都復興院】が問題なのである。岩手県の後藤新平も神の仲間である。勿論、東京都品川区西大井の伊藤神社に鎮座している“伊藤博文”は自身を“神”として崇めさせる為に、神社(=神の住む宮)を造り明治神宮(西郷隆盛の神格化)、靖国神社(大村益次郎)と、規模の大小に関係なく双璧をなしているのである。これが、明治維新の欲深い神々達である。それが“希臘(ギリシア)神話=スメラミコト(尊)”であり、そこが、今日の日本帝国主義者の一族が世界覇権の謀略を続けている祠である。この祠と多摩墓地の解体が日本の課題だが、其処は鉄の壁で覆われた城、即ち“鉄城”だからどうすることもできないのである。国会議員が取り囲んでも、“出口鉄城”は屁とも思わないでいる。それが、釈迦族の創価学会SGI会長池田大作と作家瀬戸内寂聴から出来ている遺伝子である。そこが「オウム真理教思想」である。無差別セックスの結果が「オウム真理教思想」だから、やはり“神々の深き欲望”が問題なのである。アメリカのジョン・F・ケネディーの胤が、クリントン大統領である様に、アメリカも無差別セックス国家である。アメリカは内に潜むテロリスト思想(無差別大量殺戮=戦争遂行思想)を駆除できないでいる。やはり『土方(ドカタ)根性』は直し難い訳である。インドはイギリスの“東インド会社”の奴隷国家から本当に独立国家に成長出来ましたか? 大日本帝国国家主義者らの奴属国家でしょ。ガンジーが独立の父と云うシナリオは、日本の【新宿 中村屋】が描いたもので、インドが真の独立国家と成った訳ではない。大日本帝国国家主義者の核兵器が譲渡されたから、今日のインド政府が存在したのであって、【新宿 中村屋と、日本の電力中央研究所(旧東邦産業研究所)=松永安左エ門・福沢桃介・斉藤實・鈴木重信・榎本桃太郎ら】の後ろ盾がなければ、今日の経済発展はなかったのである。今世紀も来世紀もインドは「日本の奴隷国家」で在るべきである。大日本帝國國家主義者達の謀略なくしては、今日のインド政府は存在しないからである。欧米人をインド領土から排除したら、日本(黄色人種)がインドを領土化したことに、インド人は気が付かないのは、インド人もアメリカ人と同じ『土方(ドカタ)根性』だから、日本の謀略に引っかかるのである。ガンジーは日本から賢人の称号を貰って子供の様に喜んで居る訳だ。頭脳の程度が知れるね。インドを壊したのが大日本帝国主義者の小間使い“マハトマ・ガンジー”である。それは、1984年(昭和59)12月2日から3日にかけて発生した世界最大の化学プラント工場毒ガス発生事件【ボパール化学工場】について、インド政府はアメリカのいいなりでしょ。インドには主権は存在しないし、インド政府はインド国民を見殺しにしている。やはり『土方(ドカタ)根性』だ。しかし、ボパール化学工場毒ガス発生事件の前の1984年(昭和59)10月31日に「インディラ・ガンディー首相、護衛のシク教徒2名に暗殺される。」と云う暗殺テロ事件が発生していることからして、【ボパール化学工場毒ガス漏出事件(マッディヤ・プラデーシュ州の州都ボーパール (Bhopal))】の事情は、『盧溝橋事件』と同じ図式があぶり出てくるのである。しかも、日本国内では『グリコ・森永事件』の最中であり、その後、日航123便爆破墜落事件に至るのだから、可也計画的なシナリオが浮んでくる。しかも、事件当時の日本國内閣総理大臣は“青年将校”を名のる中曽根康弘で、外務大臣が安倍晋太郎が内閣の顔である。この二人が居るだけでも、満洲帝國建國組で日本製原爆製造組だから、【ボパール化学工場毒ガス漏出事件=盧溝橋事件=2・26事件】と同じ図式である。
どうせ、菅直人首相や谷垣禎一自民党総裁や渡辺喜美(通称:ヨッシー。関西方面では部落差別者に対する蔑視的表現。)みんなの党代表や志位和夫日本共産党書記長など各政党の代表はこぞって、『1984年12月2、3日の【ボパール化学工場毒ガス拡散事件の謀略】はU.C.C.(ユニオンカーバイド)社の利益追求主義が生んだ事故で、日本の謀略ではない。』と、絶叫する筈である。知的見識がない脳天壊了政治家だから。歌舞伎・宝塚歌劇団の様に演技する訳である。最も理性がないから「政治家」と呼ぶ訳ですがね。権力の欲望に取り付かれた「欲ボケ」だから政治家に成る訳だから。【ボパール化学工場毒ガス漏出事件の謀略】の証拠は、1980年から1984年代にかけて、芸能人 佐良直美を中心とした木原美知子・キャシー中島らの“レズビアン騒動と歌手休業と優良家庭犬普及専務理事”に隠されている訳である。“芸能人 佐良直美”の本業は会社役員なのである。アメリカの世界的化学産業U.C.C.(ユニオンカーバイド)社と戦前から太いパイプで結ばれた「巴工業(遠心分離機、化学 」の創業者一族の代表者なのである。其処は石原慎太郎の「石原産業」と世界有数の武器会社「高田商会」と繋がっているのである。そして、ここが「日本が製造した核兵器売買の巣窟」である。佐野眞一が書いた「てっぺん野郎=石原慎太郎・裕次郎一族」は虚飾に飾られた歌舞伎町の淫蕩色のネオンである。ケバケバしい嘘である。流石に大作家は嘘が上手い。作家は筆で飯を食うからゲス野郎なのである。
オウム真理教団が亀戸道場で製造した“炭疽菌の培養プラント”と“毒ガスVXガスとサリンなど”を始めとした化学兵器プラント設備と原材料はこの「巴工業」が製造販売したものである。オウム真理教団事件の「土谷正美被告の死刑が2011年2月15日に確定」したと云うニュースが流れたが、被害者も国民も世界の為政者達も、何が日本の政治を動かしているのか?意味不明だと感じている。それを、ハーバード大學系日本人歌手 宇多田ヒカルの母 藤圭子が2010年8月に出したコメント『日本はガラスで囲まれているようですね。外から見ると開放的でたやすく入れそうだけれど、実際は見えない分厚い壁がある。いつか、ヒカルも感じるのではないでしょうか』と発言している訳ではあるが、日本国民から見た場合「何故、宇多田ヒカルなのか?何故、藤圭子はアメリカに居住しているのか?
何故、高額な現金を持ち歩くのか?何故、沢木耕太郎の子共に宇多田姓が必要だったのか?」一番不透明な藤圭子(岩手県一関出身)が闇の中で“ヒカル(ヒカリ)よ!”と叫んでも、言葉が闇の壁に反響するばかりで、更に闇が深くなるばかりである。元芸能人“藤圭子”の発言内容が逆なのである。『日本はガラスで囲まれているようですね。内側から見ると開放的で、言論の自由も職業選択の自由も、居住の自由も、表現の自由も保障されている様にテレビやラジオや新聞や雑誌でスメラノミクニ政府の許す“究めて限られ檻の中”で生活している。個人は全体主義と國家総動員体制から未だに呪縛されている。これが“実際は見えない分厚い壁”と云う訳なのです。いつか、ヒカルも感じるのではないでしょうか』と云うのが正解である。又、“実際は見えない分厚い壁”をヒカルではなくして、母親の藤圭子が感じているかの如き印象を受ける発言だから、藤圭子は日本に在住していると見るべきである。それは、不可視のガラスの“闇のアクリルガラス”ですか?
芸能人は日本政府(=スメラノミクニ政府)の広報担当官だから、幾らでも好きなだけ政府(文化庁)から生活費を受け取ることが出来る。政府の巨額な赤字が膨れていくのは、この「文化庁」の存在が原因である。だから、芸能人「村田 蓮舫(むらた れんほう)」が内閣府特命担当大臣に就任している訳である。岩手県渋民村の「石川啄木」以来、大日本帝國は借金体質を改善する気持ちがない。消費税(物品税)が200パーセントでも借金体質を改善でいるから、日本政府(=スメラノミクニ政府)は「戦争して帳消しにすることばかり考えている」のである。藤圭子の「ガラスで囲まれて」と云う表現なら、菅直人政権は正に「ガラス」である。本業が「窯業(ガラス)屋」だからね。藤圭子は沢木耕太郎に文章で物事を考える訓練を受けたのですか?世界的写真家「キャパ」の翻訳本の助手をしている中で、文章訓練ができたのですかね?「キャパ」はハンガリー国籍のユダヤ系だから、大日本帝國の一番優秀なスパイ“榎本桃太郎(毎日新聞記者、インドで消息不明)”の妻と同じでる。また「キャパ」の生活全般を支援したのが川添浩史であり、原節子の「キャンティ」一家と云う訳だから、日本政府(=スメラノミクニ政府)の戦争は継続中なのである。国家総動員法・国民精神総動員法が日本国民の頭から抜けていないのは、個人の思考を日本政府(=スメラノミクニ政府)が“統制”しているからである。『何故?戦争に至ったのか?』を考えさせないようにしている。国連での日本名の国籍登録を、日本が愛して止まない『スメラノミクニ=スメラノ尊(ミコト)』と改称すれば良いのに。世界中で政変が発生しているのだから、日本も国名変更程度の政変を国連ですればいいさ。そして、念願の国連の常任理事国入りを果たす。その時、<日本は世界の孤児>に成って居る訳である。ニーチエ哲学の島“ガラパゴス”として、世界創造哲学(小島威彦)の勝利を叫ぶ訳だ。オウム真理教団事件の「土谷正美被告」が死刑なら、佐良直美と石井ふく子らの「渡る世間は鬼ばかり」組も全員が死刑確定されるべきである。そして、芸能人専用の教育機関「堀越学園」そこもオウム真理教学園であり、スメラクラブ(スメラ塾)だからここは絶対に廃絶すべき機関である。「巴工業」そこがオウム真理教団事件の化学兵器プラント設備と原材料を、供給した犯罪会社であり、日本製原爆製造と使用の会社であることは、既に闇世から出て太陽の光を浴びているからである。その事に気が付かないのは、当のオウム真理教団の開山 出口鉄城(東京都品川区豊町4丁目 国際参禅道場 住職、京都府の“一燈園”代表職)くらいなものである。日本の司法制度・行政制度・立法制度が存続する限りに於いては、第2、第3のオウム真理教団は幾らでも発生して、世界中に毒ガスと生物兵器と高レベル放射性物質などを散布して歩くのは当然の帰結である。誰も止められない。“ピーターパン国家症候群の日本國、即ちスメラノミクニ”である。世界各国は幾ら自国の防衛費を増額しても、“スメラニミクニ=日本國”からのテロ攻撃(遊撃隊、軍事探偵)を防ぐことは不可能である。ブータン王室などは特にテロ支援国家である。何しろ国中の女性が国王の淫売に成り下がっている訳だからね。戦中から戦後にかけて、大日本帝國國家がブータンに建設した“水力発電設備(富士電機株式会社製造)”が生み出すインド・中国への“売電”で外貨を稼いでいる始末だから、日本の典型的な領土である。ブータン王室は自分の実力だとご満悦だろ?それが、日本政府の思惑だから。ブータン國が、ゴキブリの様に近親交配を続けて最後に死滅するのは、そんなに遠くはない日である。精々ブータン王室は“酒肉池林の華”でも咲かせていれば良いのさ。世界はブータン王室の国王夫婦のためにね。日本のブータン領土化には長い時間をかけて仕込まれているから、そう簡単にはブータン王室は独立できないのである。ゴキブリの様に近親交配で死滅するまで待つ。以外と子供じゃないでしょ日本政府は?
ブータン王室から水力発電の高額な電気を、買っているインド人は、やはり騙され易いから日本の奴隷国家でしょ。未だに日本を信じている脳天壊了が『インドとブータン』でしかない。奴隷とは「日本財団の曽野綾子」は云う様に“褒め言葉”ですか?奴隷とは主人に服従を強要され、命も財産も人間の尊厳も奪われる存在を指し示す言葉であって、“褒め言葉”とは日本財団(大日本帝国国家主義者の財団法人)の勝手な戯言だ。戯言をホザクの日本人ですね。哲学的に人類を騙している。世界は日本を奴隷にして扱使えば良いのに。アメリカもイギリスもインドもブータンもロシアもインドネシア出来ないでしょ。日本から核兵器を供与されているから、何も云えない“おバカ国家”。
【ボパール化学工場毒ガス漏出事件=盧溝橋事件=2・26事件】からチェルノブイリ原発臨界事件から9・11同時多発テロから、パレスチナ問題からイスラエル建国(満洲建国)まで何でもある。これら事件の繋がりは<石原慎太郎 東京都知事と石原産業と小島威彦・仲小路 彰・福沢桃介(旧姓 渋沢)・松永安左エ門・佐藤栄作・岸信介・高嶋辰彦・星野直樹・鳩山一郎・吉田茂・田中角栄・・・等々の理化学研究所と東邦産業研究所(現電力中央研究所・東北電力)を核とし日本製原爆使用組>これらの日独伊三國防共協定同盟は現在も有効に機能している。それは、インドのノーベル平和賞受賞の聖者 女傑マザー・テレサ活動が、大東亜戦争(八紘一宇思想・百年戦争宣言思想・皇戦思想・スメラクラブ思想)の積極的な賛同者だったことに対する、裏返しの行動でしかないことでも証左できる。これが、バチカン市国の『土方(ドカタ)根性』である。何がイエス・キリストだ。何がお釈迦様だ。何が孔子だ。何がアラーの神だ。何処見て歩いて居るんだかね。世界の宗教家とか哲学者とかは?それって何の宗教、何の思想ですか?
東照寺国際参禅道場には、昔は世界中から旅館がわりに多くの欧米人が来ていた訳だが!旅館代わりだから、大して参禅の意識はない。京都当たりの姫僧林で少し座禅して、母国では禅の大家になっている。その東照寺国際参禅道場に中国人は来ていない。アメリカ系の中国人は居たが、やはり旅館代わりで中国4千年の伝統を自慢するばかりで中身は脳天壊了だ。毛沢東が中国の仏教を完全に壊したから、今の中国には“法輪功(日本のオウム真理教団)”しかない。この“法輪功”は如何見ても、日本が後ろで動かしているようにしか見えないのである。まあーどちらにしても、中国が「眠れる豚」である事に変わりはないのであるがね。日本共産党の思想と資金と武器供与の支援がなければ“中国共産党の共産主義思想”は浸透しなかった訳である。この日本共産党が、文化大革命を謀略して、今日の北京オリンピックと上海万博を表向きは成功させたのである。中国の「阿片の禍」は日本とオランダとユダヤ系銀行の謀略としか考えられない。中国人は歴史を見直すこともできない脳天壊了だ。未だに独立国家の形態ができていない。毛沢東も蒋介石も大日本帝國國家主義者(現日本政府)から武器も軍資金も提供されて権力者になれただけである。そして、中国もインドもパキスタンもベトナムもインドネシアもチベットもカンボジアもタイもフィリピンも台湾も皆大日本帝国の思想戦に負けたのである。ドイツとイタリアと日本の三国防共同盟の勝利である。そこが「小島威彦・高嶋辰彦・松永安左エ門・谷口吉郎・坂倉準三・原節子・川添浩史、梶子夫婦らのスメルクラブ(スメル塾―昭和十七年の「紀元二千六百〇二年自七月十二日 アジア復興 レオナルド・ダ・ヴィンチ展覽會)」此処が、皇戦会=百年戦争宣言の場所である。そこから戦後の「イタリアレストラン キャンティ」に引き継がれ、豊田商事事件、グリコ・森永事件と日航123便爆破墜落事件、オウム真理教事件、から“2001年9月11日の米国同時多テロ事件”から<円天・あかり研究所・株式会社エル・アンド・ジー詐欺事件>と、詐欺事件の主犯である“おバカ知事 石原慎太郎”が都税で設立した「新銀行東京の不正融資」などなど世界中を巻き込む、金融操作から世界経済の覇権目的の謀略まで何でもあるのが、大日本帝國國家主義者の貧国な國家が求め続ける【國帑(こくど)「帑」は金庫。かねぐらの意。国家の財産。国財。】ト云う思想は、「世界同時テロ」で実現できると、謀略遊撃隊教育部隊の“陸上自衛隊朝霞駐屯地―防衛省 市ヶ谷の高級将官を指導している三宝興隆会(安谷白雲の高弟”山田耕雲“が開山、東京都千代田区九段南4-8-32健康事業総合財団[東京顕微鏡院]内)”は考えている訳である。東照寺国際参禅道場(=オウム真理教団の開山=神奈川県葉山の二宮寛サッカー理事繋がり)も支援してドイツでも世界でも盛んに禅会で指導している。
それは【戦争禅】である。禅は文化と云う反論も出てきそうな日本だが、戦争中も“外見的な平和”の現在でも小島威彦や高嶋辰彦や仲小路彰らは「戦争は文化=戦争文化研究」をしていたのだから、平和も文化も日本人には「戦争」なのである。日本と云う弓なりの国土に住む人種は、徳川時代以前に死滅して、外国人しか居ない訳だ。東京都世田谷区の「宮沢さん一家惨殺事件」で警察庁が世界中から、各国の遺伝子情報を収集した訳だから、試しに菅直人夫婦の遺伝子を調べて見たら、韓国系中国人か?インド系アフリカ人の遺伝子が混じっている筈だ。それが「スメラノミコト族=シュメール民族」を証明してくれる訳だ。スメラの代表は“世界的登山家 野口健”ですね「宮沢さん一家惨殺事件」だから。
さて、本題の【巴工業】であるが、アメリカ・イギリス・ドイツ・イタリア・スペインはこの名前を聞いただけで、何を意味するのか既に日本のマスコミはご存知でしょうから、報道しないだけで、日本人の貧困で惨めで人間の屑だとは報道できないだけで、世界最悪の人種と知っている訳だから、話は比較的らくである。違いますかね?これから、図書館に云って歴史の勉強をしなおすなら、それもいいでしょう。お好きにどうぞ!外人だから。
【巴工業】の社史は存在するが、社史にしては詳細に欠けていて、素人には分り難いが、少し整理して記述すると、次の如くである。
創業者:山口四郎{明治26年(1893年)12月28日、京都府北部の丹後に生まれた。現在の舞鶴、宮津の2市と4郡からなる地。父・源之助は裁判官であり、母・うんとの間に4男4女をもうけた。四郎はその四男である。長兄・精一は後、三井物産に勤務、次兄・実は海軍に入り中将にまで昇った。すぐ上の兄の三郎も海軍の軍人で、海軍航空隊の創設者といわれた人であり、覇気に満ちた家系であったといえよう。12歳の時に、四郎は兄・実から、ヨットのセーリング技術を教わった。・・・略・・・中学時代には、「君なら大切にしてくれるだろう」と見込まれて、イギリス人からラーク型ヨットをもらった。・・・「巴工業の五十年」社史p8から転載。}
創業の因縁:シャープレスおよびU.C.C.との出会い・・・「巴工業の五十年」社史p10
大正5年(1916年)、山口四郎は23歳の時、設立準備中の高峰興業に参画した。高峰興業はタカヂアスターゼ、アドレナリンの発見で知られる高峰譲吉が、明治25年(1892年)シカゴに設立したタカミネ・ファーメントを母体にしたものであった。タカミネ・ファーメントは高峰式醸造法の実験およびタカヂアスターゼの製造に関する研究を行い、十数件の特許を獲得していた。自らは醸造せず、特許使用料を得るのを事業目的としていた。こういった性格を持つタカミネ・ファーメントが、貿易・商事部門として設立しようとしていた日本における拠点が高峰興業である。設立準備期間の後、高峰興業は大正7年(1918年)に設立された。そして3年後の10年(1921年)には、この事業を引き継ぎ、紐育高峰商事が発足している。その主たる事業は、欧米からの医薬品や機械輸入販売および輸出である。機械の輸入取り扱い品目にはシャープレスの遠心分離機、ハレル商会のハレルホモジナイザー、
U.C.C.のプロジェクター・カーボンがあった。当時電球ではまだ強い光を作れないため、映写機の光源はすべてアーク灯の時代である。プロジェクター・カーボンは世界中の映画館で光源に利用され、非常に良く売れた商品であった。なお、大正時代にあっては欧米との技術格差が歴然としており、輸出品としては国産の竹製歯ブラシぐらいのものであった。しかし、この歯ブラシはm「毛の質がよく(中国産の豚毛)、低価格なのでひんぱんに取り替えられて衛生的」と、アメリカでは好評であり、高峰は、これを日本からの輸出品として一手に取り扱っていたのである。・・・
*U.C.C.とは「ユニオンカーバイド (Union Carbide Corporation)―米国を代表する化学企業」で、インドのマッディヤ・プラデーシュ州の州都ボーパール (Bhopal)で、1984年12月2~3日に世界最大の化学工場毒ガステロ事件を起した。

歴代の社長:山口四郎(1948年~1960年)
山口良一(1960年~1963年)
山口彰夫(1963年~1982年)
中川 修(1982年~1986年)
*本間 実(    ~2009年1月)
*塩野 昇(2009年1月~2011年現在、中央大学理工学部卒、1973年入社)
*印は、サイト上から追加した氏名。その他は50年史からの転載。

発起人の氏名・住所―――昭和16年5月23日
東京市世田谷区玉川尾山台百二十五番地    山口四郎
同市目黒区柿ノ木坂三百六番地        辻 誠二
埼玉県浦和市大字本太百十八番地       川村勇太郎
東京市渋谷区代々木初台町四百九十番地    八幡 豊
同市世田谷区代田一丁目六百五十二番地二号  山口 博
兵庫県川辺郡川西寺畑字中尾十一番地ノ四   山中幸昌
東京市杉並区和泉町八百七十八番地      渋田市郎

年 表
創立前史
大正2年(1913):P.T.シャープレス、ウェストチェスターのシャープレス・セパレータ社のマネジャーとして活躍、学生時代の級友をシカゴのセールスマネジャーに。
大正4年(1915):シャープレス社が設立される。
大正5年(1916):山口四郎、輸入シャープレス社製品販売のため、設立準備中の高峰興業(株)に。
大正7年(1918):高峰興業(株)設立される。代表取締役高峰譲吉、田口一太。
大正8年(1919):P.T.シャープレス、ウェストモーランドに最初の工場を建設。

此処まで、書いてもどうせ【日本=スメラノミクニ】体質に変化はない。鳩山由紀夫も小沢一郎も菅直人も「歌舞伎役者」にでもなれば、それなりに、ミエをきれる様だから、政治家ではなくして、大根歌舞伎ヤクシャに転向すればいいのに。市川海老蔵などの歌舞伎界が、歌舞伎座で演目を公演しないで、「2010年11月25日 東京都港区西麻布と目黒区の飲食店と自宅を舞台にして、一暴れする模様を女性誌とテレビで演じている。」国民には迷惑な話である。酒井法子(堀越学園卒)の覚醒剤で疑惑劇場を路上で演じている。しかし、劇場型犯罪国家の日本では特段珍しい現象ではない。芸能人は税金で借金を返済している訳だから、借金の額の大小で劇場型犯罪の演目の出演料が違うというだけである。精々面白おかしく生きるのが芸能人でしょうから。昔日本テレビで「スター誕生」と云う番組があったが、これは、政治家らが外でつくった“非嫡出子”をテレビデビューさせる為に制作された番組でしかない。勿論、政治家の“非嫡出子”は二番煎じで、皇室関係の宮家の“非嫡出子”が第1番の目的である。テレビの出演する名目が、路上でスカウトされたでは、皇族関係と宮家の“非嫡出子”が多すぎてとても間に合わないので「スター誕生」と云うもっともらしい番組が必要になったのである。芸能人は全員が、皇室関係者の“非嫡出子”である。大会社の社長から部長までの役職員は、皇室関係者の“非嫡出子”を押し付けられて、戸籍も書き換えて、『自分の子供として養育しないと、司法機関と行政機関を総動員して会社を潰す』と脅迫されて、育てるのだが皇室関係者から自分の胤の“非嫡出子”の養育の仕方が悪いと虐められて、“非嫡出子”からは会社の売上金を持ち出され、最後には皇室と“非嫡出子”から殺されて御終いだから、会社の重役連中は“非嫡出子(戸籍上は自分の子)”を全員が『戸塚ヨットスクール』に入れて、戸塚校長に合法的に殺して貰いたがっていたが、それも叶わない様である。石原慎太郎 都知事はこの『戸塚ヨットスクール』が大のお気に入りだが、自分の子供は入学させていないのは何故?『戸塚ヨットスクール』の実体すなわち、殺しのヨット学校機関という認識があるからだし、『戸塚ヨットスクール』には大会社の重役が名を連ねていることを認識しているからでもある。
何故『ヨット』なのか?と云えば『巴工業』は日本のヨット界の重鎮だからである。そして、グリコ・森永事件と日航123便事件に関係していた「被害者のハウス食品社長 浦上郁夫」を飛行機爆破で殺害したのも『巴工業』であり、インドのボーパール(Bhopal)での「U.C.C.社の毒ガス漏出(拡散)事件」でも、『巴工業』が関与している。それは「佐良直美と石井ふく子と橋田寿賀子と皇室と京都府」の謀略の一環であった訳である。当然の事ながら、1981年(昭56)8月22日に「テレビドラマ作家 向田邦子」が搭乗した“遠東航空機”を爆破墜落させたのも「佐良直美と石井ふく子と橋田寿賀子と皇室と京都府」らである。「佐良直美は犬」だから、<2008年11月18日、元厚生事務次官の山口剛彦とその妻・美知子をさいたま市内の自宅で刺殺され、中野区では同じく元厚生事務次官の吉原健二の妻・靖子にも宅配業者を装い重傷を負わせた。と云う事件で出頭した「小泉毅被告(代理出頭としか考えられない)」の事件も『佐良直美の巴工業(遠心分離機は血液の分離にも使用されている)』と厚生労働省との繋がりを云いたい訳である。勿論、「皇室の愛犬」についてもこの事件で語っている訳である。日本國(スメラノミクニ)は“犬と鬼の国”だから、『佐良直美と石井ふく子と橋田寿賀子』ならば、スメラノクニ(或は尊・ミコト)の象徴である。象徴即ち皇室の“非嫡出子”である。だから、佐良直美には「二人の父と三人の母」が存在し、レズビアン疑惑(これは巴工業とU.C.C.社の争いを意味している)など星の数程の疑惑が存在するのである。芸能人だけに「星(スター)」である。捕鯨船ばいかる丸(バイカル丸)が極星丸に名前をかえたのは核兵器運搬船だったからである。これも「星(スター)」である。だから、日本國(スメラノミクニ)は、核兵器にご執心なのである。
皇室の“非嫡出子”なのに、「東照寺国際参禅道場 住職夫人出口由美子(旧姓 横田)」は何故?芸能界にデビューしなかったのか?当時「路上スカウト制度もスター誕生」も無かったからだけではない。出口由美子(旧姓 横田)は岡山県・山梨県・東京都・京都府・栃木県などで京浜安保共闘や全共闘から、連合赤軍の女性テロリストとしてデビューしていたら、テレビやラジオなどには出演できなかった訳である。勿論、出口鉄城(本名:充彦)とは既に同棲関係で、日本中を暴れ廻っていたのである。先頃「連合赤軍の永田洋子」が獄中死したニュースが流れたが、終わりは始まりだから、今度は形を変えた“テロ作戦”の始まりである。日本では支配階級がテロリストだから、無差別大量殺戮の嵐は暴雨風域にまで達して、更に勢力を強めて行く訳である。無軌道の限りである。出口由美子(旧姓 横田)は二人の女子(真希子・元美)を産んだ訳だが、皇室の“非嫡出子”のご多分に漏れず住職で夫の“出口鉄城”の子ではない。出口真希子は仙台市の一露庵(民家)を名乗る中川鉄巌(村越吉展ちゃん事件の主犯格)が胤で在る。出口元美は仙台市の玄光庵 住職 伊串昇頴が胤である。出口由美子は仙台市が好きだね。だから、日帰りで子作りセックスする訳だ。何故此処まで出口由美子(旧姓 横田)は行動的なのか?それは、韓国の王妃 閔妃(ミンピ)の血筋だからである。閔妃(ミンピ)は三浦梧郎らに暗殺されてはいない。明治政府に拉致されてきて、日本の皇室に入っている。その人は「昭憲皇太后」である。出口由美子(旧姓 横田)は貞明皇后と禅僧 山本玄峰の間に出来た子供である。それを、石部家(宮内庁式部職)の血筋である。石部節雄に養育を託したのである。石部節雄は岡山県都窪郡清音村大字軽部の横田家に婿養子として入り、由美子を横田の籍に入れて実子として養育で訳である。出口由美子の叔父に当たる“石部鉄雄(東京都八王子市大和田在住)”が、1993年?1月7日ごろに自殺したらしく、東照寺国際参禅道場で葬儀をした。その際、日産自動車の重役から、安田火災海上保険の重役・職員などの関係者が多数参列していた。参列者から漏れ聞こえた会話は「こんな小さな寺で何で、葬儀をするのか?」と云うものだった。大会社の重役なのだから、芝の増上寺程度の規模が妥当と云う訳である。死亡の原因が“自殺”のこともあったが、横田由美子と親族だったことは伏せられていたせいでもある。この石部鉄雄の細君は、隣家の布団店のご主人とセックス関係にあり、石部鉄雄は不倫の子供を自分の子供と信じて養育していたことが、自殺の要因の一つであり、哲学思想と戦争の問題などを抱え込んでいたフシなどもある様だ。一つだけはっきりしていることは、「出口由美子(旧姓 横田)」との哲学遊びが原因だあることは間違いないのである。「出口由美子(旧姓 横田)」が「横田姓」に成った事が、終戦にもっていけた訳でもあるが、新たなる遊撃戦争の始まりでもあったのである。それが2001年9・11の米国同時多発テロが象徴しているのである。『米軍横田基地』と云う名前の秘密は正に横田由美子から来ているのである。【宮内庁とアメリカ政府の契約】が横田姓を基地に命名したのである。地名ではなく人名から「横田基地」と決定されているのである。
【石部―横田】この繋がりが、オウム真理教団である。山梨県に在る“武田信玄の隠湯の下部温泉”にある【下部温泉―源泉館】が総ての始まりである。大東亜戦争当時の謀議の場所がここ【下部温泉―源泉館】だったのである。最重要の大本営秘密会議が行われたから、終戦時に温泉全体が火災で焼失したのである。証拠は消されたが、『出口由美子(旧姓 横田)』は残った。国民の大多数は戦禍に死んだが『出口由美子(旧姓 横田)』は残った。
山梨県【下部温泉―源泉館】の近くの曹洞宗の寺「江岸寺(本栖寺)、西八代郡上九一色村本栖318、武田信玄の祈祷寺、 本尊 阿弥陀如来。弟子“香渡機外(規外)”の法戦式を挙行した。」に住職していたし、三島の龍沢寺では山本玄峰老師の侍者をしていた訳だから、『出口由美子(旧姓 横田)』の出生の一件も知っていた訳である。そして、『出口由美子(旧姓 横田)』が弟子の中川鉄巖と伊串昇穎と無差別セックスしても、伴鉄牛老師は批判なく出口真希子と元美の女子二人を膝の上で遊ばせて、手中の玉の如くに育てたのである。だから『出口由美子(旧姓 横田)』は、二人の子共を小僧 伴鉄牛に安心して預けていたのである。実の養父の孫以上に手塩にかけて育てたから、東京女学館や慶応義塾湘南SFCの大学院まで行って卒業できたのである。それでも『出口由美子(旧姓 横田)』は伴鉄牛老師を小僧同然に扱っていたのである。
住職 出口鉄城が二人の子供に如何接していたのか?は知らない。実子ではないからね。
今でも『下部温泉の源泉館(石部尚、元東照寺国際参禅道場 同愛寮生)』には多くの著名人(政治家、芸能人、スポーツ選手、マスコミ等々)が、“武田信玄の秘湯”を求めて来ている。それは、麻原彰晃(本名:松本智津夫、池田大作の胤。)・上裕史浩(長嶋茂雄の非嫡出子)らも来ていたと云う意味でもある。オウム真理教団のヨガ宗教的な部分は、シャープ(早川電気)の令嬢“横山加奈子(よこやま かなこ:裕仁天皇と美知子皇后の子)”であり、お手伝いさん泥棒の部分は出口鉄城・由美子夫婦らに主導権である。どちらにしても“オウム真理教団事件”はスメラノミクニ=日本の戦争犯罪者達が教祖である。
“オウム真理教団事件”では、毎日新聞社本社と系列会社が深く関与している。それは、オウム真理教団の開山 出口鉄城のTwitter(東照寺国際参禅道場のサイト)で、芸能人 デーモン小暮閣下との関係を匂わせている。このデーモン小暮閣下の姉が“小暮 裕美子{こぐれ ゆみこ。TBSの元報道キャスター。TBSテレビ編成制作本部報道局取材センター外信部・次長(2006年12月現在)}”だったから、オウム真理教団の創設当時から、化学兵器使用から国松長官狙撃までの一連の事件報道が先行していたのは、当然である。“オウム真理教団事件”の主犯から情報提供を受けていたのだから。この小暮一族と出口鉄城の接点は「東京の築地=鉄鋼王 大谷一族」である。だからデーモン小暮閣下は“相撲評論家”として活躍している訳である。全ての犯罪の後ろには「出口鉄城・由美子夫婦」が指導者として暗躍しているのである。だから、国会議員に取囲まれても“屁とも思わない”訳である。中国の南京事件の主役「柳川平助将軍」でも“西郷隆盛(明治天皇として君臨)”を恐れていた位だから、<西郷隆盛―寺崎英成―池田大作―出口鉄城>と連なる西郷隆盛の胤達の無軌道な言動は世界が束になっても勝てない。この無軌道な言動が“無差別大量殺戮”である。だから、「スメラノミクニ=日本」は戦争文化の国である。それは「酒鬼薔薇聖斗」が支配する国である。「スメラノミクニ=日本」は高潔高貴をガラス張りで売りにして、実は「心の闇=精神の汚泥=神々の深き欲望」で出来ているのである。神々の住まわす国とか、黄金の国ジパングとか、口からでまかせを云うのが、日本民族(釈迦族)の精神的な特徴である。だから、<スメラノミクニが世界文化発祥の起源であるから、世界を支配するのは、日本である>と云う身勝手極まりない言動を、何の疑問も無く発言して、戦争を止めない訳である。果ては「戦争は文化創造」であるとまで云う民族は、この地球上に存在する事は許されないのである。世界中の民族と協調する気持ちはない。それなのに世界は日本との協調を模索しているのは、不可思議に映るのですがね。協調のない協調会はハバを利かす「スメラノミクニ=日本」と云う訳である。世界を手に入れても満足しない“日本民族(釈迦族)”は、今度は宇宙に船出する訳である。徳川独裁政権かの鎖国時代に徳川幕府と京都の皇族らも、大航海時代に乗り遅れた経験から、世界一を目指して映画「スターウォーズ」を現実化して、世界を宇宙から支配する為にも、アメリカの宇宙開発の後退に対して、日本政府は納得がいかないから、先月の1月9日で、ユダヤ系初の女性連邦下院議員の“ガブリエル・ギフォーズ女史”を銃撃した訳である。
<朝日新聞によると、アメリカ西部アリゾナ州トゥーソンで8日午前10時過ぎ(日本時間(UTC+9)9日午前4時過ぎ)に、同市内のスーパーマーケットの敷地内で開催されていた同州選出の女性連邦下院議員のガブリエル・ギフォーズ氏(40歳、民主党)の政治集会で銃乱射事件が発生し、集会の参加者ら6人が死亡し、13人が負傷した。>
“ガブリエル・ギフォーズ女史”の夫は、スペースシャトル・エンデバーの船長“マーク・ケリー氏”だからである。それは、2010年12月31日の第61回NHK紅白歌合戦で芸能人“桑田佳祐”が歌った 『それ行けベイビー!!』『本当は怖い愛とロマンス』の歌詞が問題なのである。男女の恋愛を日米防衛協定と通商関係に置き換えて、疎くなった日米関係を歌っているからである。それが、菅直人首相の発言「疎い」なのであるが、政治家のメッセンジャー歌手“桑田佳祐”が云いたかったことは、アメリカの宇宙開発費の60~70%は日本(釈迦族)出して上げたのに、アメリカは肘鉄を喰らわせて逃げて行くのか?つまり国際宇宙ステーションで、日本(スメラノミクニ)が主導権を握れないのは不愉快である。と声明したのにアメリカが無視するなら、<ユダヤ系初の女性連邦下院議員の“ガブリエル・ギフォーズ女史”を、公開銃殺刑にしてやる>と云って犯人を現行犯逮捕させる形で、無差別大量殺戮した事で、今回<埼玉県の若田光一が、2011年2月 第38次/第39次ISS長期滞在ミッションへ任命>と云う切符を手に入れた訳である。アメリカは日本の奴隷国家だから、日本の云うことは無条件で受入れなくてはならいのに、ご主人国である“スメラノミクニ日本”に反逆するのは二百年は早い訳である。高嶋辰彦・小島威彦・仲小路彰の『百年戦争宣言』の中で、“百年でも二百年でも世界に勝までは戦争だ”と宣戦布告された事を、アメリカも中国もロシアもイギリスも世界各国政府はもう忘れたのですかね?
そんな勉強不足の頭で良く大統領や主席や国王の職にあるのだ。もっとも“権力ボケ”だから国家の代表と呼ぶわけですがね。イタリアの映画祭で芸能人 北野武が「またイタリアと組んで世界戦争をしましょう」と舞台挨拶した時点で、世界に対して「日伊同盟」が締結されたと宣言したのに、アメリカ・イギリスの無防備さには呆れたわけです。
国際宇宙ステーションと名前だけは「国際」だが、実質は“スメラノミクニ日本”の宇宙覇権思想からの実施計画である。それは、京都府下の釈迦族(一燈園と大徳寺と比叡山と青蓮院、明仁天皇など)らが、起して巨額詐欺事件「豊田商事事件」の中核母体が“銀河計画”であることでも分るのである。漫画やアニメの世界だけではなく、宇宙から世界(地球全体)を支配する「スターウォーズ計画」を、SFの世界から一歩も二歩も既に踏み出して、世界覇権を目的とした科学技術振興にご執心なのが“スメラノミクニ日本”の姿なのである。先の【ボパール化学工場毒ガス漏出事件】で、“スメラノミクニ日本”が最終目的としたのは、インド民族のジェノサイト(民族絶滅計画)である。インド人がこの地球上から全て消滅すれば、それだけ“スメラノミクニ日本”の領土が増えて覇権地域が拡大させることが目的だったからである。しかも、アメリカ企業のU.C.C社の化学工場での事故を偽装した謀略だから、アメリカの信用も失落すると云う一石二鳥の効果がある。第1次世界大戦での敵国“ドイツ軍”の捕虜に対する手厚い保護(最恵国待遇)や、朝鮮戦争における“トルコ軍”対するこれまた手厚い保護(最恵国待遇)には、“スメラノミクニ日本”の姑息な目的があったのに、それにものの見事に引っかかった訳だ。“スメラノミクニ日本”の親切には謀略の香りがするのである。今回の「自衛隊のアフガニスタンでの医療活動」の裏にも姑息な目的が匂っている。所沢市の防衛医科大学が関与しているから、相変わらずの「所沢市」であり、隣町朝霞市の謀略機関「陸上自衛隊 朝霞駐屯地教育隊と小平学校」だ。“スメラノミクニ日本”の軍事探偵(スパイ)が日本国民を戦争に再び巻き込む訳だ。こんな腐った“スメラノミクニ日本”と世界各国政府は、従順に「協調や妥協」を、本当にする必要があるのか?戦争犯罪人達が支配する“無責任で無軌道な言動を繰り返す” スメラノ尊の司法機関・行政機関・立法機関と協調したり妥協したら、再び無差別大量殺戮のお先棒を赤紙一枚で担がされるのはもうご免だね。小泉純一郎 元首相の「ぶれない」とは、戦争指導者として東條英機の如くに「世界戦争論者=百年戦争宣言」として「ぶれない」と云うチンピラヤクザと協調して行こうという日本人の気がしれない。協調と妥協は再び日本本土が戦禍となり、アジア諸国が戦場になる事である。それが、世界中の指導者たちの望みならドイツ・イタリア・日本の勝利である。この三国同盟の復活である。ノルマンディー上陸作戦の様な無策な戦場をアメリカもイギリスも望むわけだ。
この(株)日本水工コンサルタントは、当時は埼玉県蕨市塚越5丁目にあり、木造2階建てで、会長 中村 代表取締役社長 守谷正博 役員 野口重彦 三田村 佐藤真澄・・・であったが、守谷正博は表看板の雇われ社長で、会社経営は野口重彦・緑夫婦が経営すると云うきわめて中小企業の代表選手だと思っていたが、野口重彦の前妻の長女がNHKの朝ドラマ「北の家族」のオーデションで主役は逃したが、ウェイトレス役でテレビに露出し時点で少し違うのかな?と思いだした訳である。そして、満洲帝国時代の満鉄技術者ヤマノイ氏(ダム)、アズタ氏(下水道)が居たので、如何いう履歴の人間が会社を経営しているのか?実に不可思議なのである。多くの経営者兼技術者は農林水産省の役人で構成され、愛知用水公団出身で構成されている。守谷正博は農林水産省の研究所に居たのを、引き抜いて会社の目玉にしていたくらいで、その結果、農林水産省のロックフィルダムの設計委託業務は可也良かった訳である。守谷正博は陸軍出身で農林水産省の役人と云う履歴も興味深いが、守谷正博が有給休暇で休んだ理由が「乳母の所に挨拶に行く」と云うのだから、一般庶民とは小さい頃から生活スタイルが違うのである。それは“宮様待遇”である。
高級将校なのか、時々軍人的な面が見える訳だが、将校としての教育は抜けいのである。
本社勤務の時に「東京都築地市場の雨樋」の設計があり、その一部分を手伝ったのだが、雨樋と云っても、市場だけに屋根の面積が広いから、雨樋も特注サイズになった。当時から「築地市場の移転問題と、移転先の土壌汚染問題」が取り沙汰されていたのだから、築地市場の移転は今世紀でも出来ないのに、移転を騒ぐのはやはり「鉄鋼王 大谷一族」が情報操作しているからだ。東京都から「鉄鋼王 大谷一族」は莫大な使用料を徴収している訳だから、来世紀になっても手放さない。この築地が再び登場したのが、岩手県紫波郡の「山王海農業水利事業所 葛丸ダム設計委託業務」である。岩手県の山と“東京の築地”が繋がるのか?それは「東京都中央区築地に本社のある“三幸建設株式会社(破産)”」が当時としても珍しい一社単独受注で、総ての工事を請け負った点にある。当時も今も共同企業体方式で、受注額の平均化を図っていたのに“三幸建設株式会社”だけ特別な会社と云う訳である。しかも、東京霞ヶ関の農林水産省は関与しないのである。仙台事務所の経理は、臼田所長の“本妻と妾の生活費”を遣り繰りするために帳簿が杜撰を極めていた。
この“臼田所長”の営業で中規模ダムの設計委託業務が落札できる訳が無いに、設計業務は落札され、仙台事務所の菊池○真が主任設計で行ったが、経験豊富な守谷正博に意見を求めるが、設計上で“技術士 守谷正博”が積極的に参加はしていない。設計完了後の「施行計画委託業務」はダムの施行監理経験のない仙台事務所ではできないが、施行業者の“三幸建設”の現場実務者らの手によって「ダム施行計画並びにダム建設費」が算出され、農林水産省 山王海農業水利事業所の役人の前で、三幸建設職員が(株)日本水工コンサルタントの名刺で施行計画と建設費について説明した。(株)日本水工コンサルタントは濡れ手に粟である。問題は東京都中央区築地の“三幸建設株式会社の社長”が血盟団事件の主犯「四元義隆」だった事と、葛丸ダムのバルブ方式のジェットフローゲートの設計製造が、鹿児島県が本社の「西田鉄工株式会社」であったことである。四元義隆も鹿児島県の重鎮であり、山岡鉄舟の谷中「全生庵」と山本玄峰老師の繋がりということである。四元義隆は政界の指導者で、中曽根康弘や細川護熙などの政治家を禅僧として指導し、「戦争禅」の代表格だからである。この「葛丸ダム」はダム建設なのか?政治家の道楽なのか、不可視である。そして、現在(株)日本水工コンサルタントの代表取締役に“大野聡”が成ったのは単なる偶然ではなく。成るべくして成った人事だと云う事である。つまり、(株)日本水工コンサルタントは東京都中央区築地の“大谷一族”と朝鮮総督府政務総監の“大野緑一郎の一族”と、満洲國 支那派遣軍司令 畑俊六と畑和(故埼玉県知事)が繋がっていることの証左だからである。この人事を結んでいるのは“技術士 守谷正博(軍人、農林水産省技官)”なのか?野口重彦なのか?である。“技術士 守谷正博(軍人)”は、アメリカのロックフィルダムに関する原書を読んでいたらしく、日本語の翻訳は間違いが在ると指摘していた訳でもある。(株)日本水工コンサルタントの大株主は野口重彦の後妻の実家である中村一族だが、それだけでは、NHKの朝の連続ドラマには脇役でも出演できない。“大野聡”が入社してから、湘南ボーイ系が数人入社したが、暫くして退職した。守谷正博が神奈川県藤沢市だから、「戦争遂行の湘南不良グループ」と云う訳である。榎本東州が当時、僧籍に入ったと報告し2~3回程度、会社の職員と昼食を共にした時に、“技術士 守谷正博(軍人)”から「これからが修行だぞ」と「この豊かな時代に僧侶になるとは」と「人を喰った様な話だ」と「寄付の件で行ったら、社員の一人が金の話でしょ。と発言したら、榎本は金の話をしている訳じゃないんだよ」と発言していたのは意味しんである。当時の軍人なら「戦争禅」は必衰の教科だったから、釈迦族の戦争指導を受けていたから、僧侶と云う意味あいが違っていたのかもしれない。埼玉県蕨市の沼地の上に建った木造2階建て(現在は鉄筋コンクリート造り)の、風が吹けば倒れそうな会社が、実は血盟団事件から繋がる非常に胡散臭いコンサルタントなのである。これは、現在の株式会社制度の全体に渡る構造である。それが「キャンティ物語(旧埼玉県与野市出身の芸能人 萩原健一や芸能レポーター 梨元勝と東海林のり子など)」であり、そして“スメラノミクニ日本”の思想は日本の大地から悪性の汚染物質の如くに、大地に血糊となって染み込んでいるのである。それにたいする「自覚」がないのが、“スメラノミクニ日本”民族である。何が「二度とあやまちはくり返しません」だかね?曖昧な言葉だろ。
ドイツなら「ハイル・ヒッラーの挨拶の禁止」程度で、ドイツ人の中身までは変わらないのである。ドイツの覇権主義は2011年現在も進行中である。それなら、小沢一郎君の描く計画は、「日独伊三国同盟と英米連合の戦争」と云う訳ですかね?
イタリアなら「ムッソリーニが今度台頭しても、国民が人民裁判なしで絞首刑だ」
日本なら「多分、憲法9条があれば、東條英機は台頭しないはず。天皇はヒッラーやムッ
ソリーニとは違って、国民に対しては、原爆を使用するが隣国には使用しないと思うだけ
です」そう云って“中国四川省で核兵器貯蔵施設の起爆装置を機動させて、甚大な被害を
起した”しロシアの“チェルノブイリ”やインドの“ボパール化学工場毒ガス漏出事件”
と世界中でテロ活動(謀略活動)のし放題である。日本の全ての会社は(株)日本水工コ
ンサルタントと同じ様に、“スメラノミクニ日本”で出来ているから、無差別大量殺戮は止
まらない。ドイツもイタリアも怪しい訳である。
アメリカの社会正義は“スメラノミクニ日本”の無軌道な言動を擁護する為に軍隊を派兵
して鎮圧する事にある。そうでしょ!オバマ大統領。
次に、問題事項を箇条書きで述べる。
•    民主党 小沢一郎と川端達夫文部科学大臣の「2.26事件」発言。
2010年11月―川端達夫 文部科学大臣は尖閣諸島に関する、海上保安庁の流出ビデオ問題で「2・26事件」を引き合いに出して、海上保安庁の職員を英雄視しない様にして欲しいと語った?
2011年2月11日― 民主党の小沢一郎元代表は11日、自らが主宰する「小沢一郎政治塾」の開講式であいさつし、1936年に陸軍青年将校らが起こした2・26事件に言及し、「政治家が『国民の生活が第一』という本来の任務を果たせなかった結果で、(事件は)政治家、政治の責任だ」と述べた。
•    川端達夫も小沢一郎も「2・26事件」を引き合いに出して、国民に分り難い言動を続けている。分り難いと云う事は、日本の置かれている状況について、政府が国民には伝へられない“窮状が多い”と云う解釈が成り立つ。川端達夫文部科学大臣が云う『尖閣諸島問題(2010年9月7日)』とは、尖閣諸島領海で「中国漁船と海上保安庁の船が追跡行動や追突を起こして事件で、中国漁船の船長が現行犯逮捕される。」と云う事件であるが、期を同じくして、2010年9月20日に「中国河北省内の軍事管理区域で建設会社フジタの社員(日本人4人)が、身柄を拘束され、その後最終的には30日に全員解放される。」と云う事件に連鎖して行く。この一連の「政治劇場」について、“川端達夫文部科学大臣”は、<1936年(昭11)の大日本帝国陸軍の軍事クーデター「2・26事件」>だと云う認識の根拠は一体何処から来るものなのだろうか?次は民主党の小沢一郎元代表が発言した「2・26事件」は、文部科学省の大臣官房が記者会見した様な模範的な開会式挨拶だね。流石に慶応義塾大学卒の秀才“小沢一郎”は模範的な政治家だ。京都大学大学院工学部卒の“川端達夫”とは頭の出来が違う。やはり、日本の政治は小沢一郎の“方言”発言がないと、“スメラノミクニ日本型”の不可視社会は成立しないね。
政治家の皆さんは良く歴史を勉強していること。大したもんだ!!
“小沢一郎と川端達夫”の好きな<1936年(昭11)の大日本帝国陸軍の軍事クーデター「2・26事件」>これって、本当に“小沢一郎”の認識する「政治家が『国民の生活が第一』という本来の任務を果たせなかった結果で、(事件は)政治家、政治の責任だ」と云うものなのですか?大日本帝国陸軍士官学校 第 期の“神的な天才”とも呼ばれた「大本営参謀(第4課)高嶋辰彦」が、「2・26事件」から約2~3年経過し、軍司法関係者でもない“高嶋辰彦”が軍上層部から「2・26事件の調査」を命令されているのである。作戦本部付きの大天才“神”の職務として「2・26事件の軍事法廷の調査研究」とは意外な関係である。しかし、この高嶋辰彦の証言から意外な事実が浮かび上がってくるのである。それは、岡田啓介内閣総理大臣の秘書官“迫水 久常(さこみず ひさつね)”の一言が端的に語っている【大芝居】だと。この【大芝居】だと証言しているのは、岡田啓介内閣総理大臣と同じく暗殺された内大臣の『斎藤實(さいとう まこと。海軍大将、朝鮮総督などを歴任、岩手県水沢出身で後藤新平とは赤鬼・青鬼の秀才組)』が、「2・26事件」の鍵を握っていた訳だが、中々尻尾を掴ませなかったが、此処に一人の“最強な証言者”が現れたのである。しかも、この人物
こそが、第2次世界大戦(支那事変―大東亜戦争―日本製原爆完成と使用)から、戦後の東京オリンピックー大阪万博―経済大国日本―ジャパン・アズ・ナンバーワン(Japan as Number One)―東京湾横断道路建設―インドの“ボーパール化学工場毒ガス漏出事件”から、米国9・11同時多発テロ・・・に続く『一連の現代日本史』のシナリオを計画実行した張本人なのである。それは特筆大書に値する、その名前は【スメラノミクニ日本の天皇 小島威彦】である。小島威彦の大書『百年目にあけた玉手箱 全7巻 創樹社刊』に全ての“戦争犯罪人としても供述”が語られている。余りにも“小島威彦”の供述内容が大き過ぎて、一般の市民には創造もつかないから、小島威彦が“戦争犯罪人或いは世界的な謀略家”とは読み取れないから、2011年の今日まで、“玉手箱をあけている”のに、その中身を吟味していない訳である。『百年目にあけた玉手箱 全7巻 創樹社刊』の中で、内大臣 斉藤實の護衛担当は小島威彦の義兄(姉の夫)で、同じ敷地に居住していた訳だから、義兄も姉も銃殺に成って当然だった筈だが“難を逃れた”でお仕舞、と云うのだから“不思議”な話しである。しかも、事件後ほどなくして“小島威彦”はフランスに旅行にでると云う筋書きである。2000年前後(榎本東州が県営団地に居た)の時期に、岩手県奥州市水沢に在る「斉藤實記念館」に“鈴木重信{耆那教聖典(ジャイナ教)を翻訳}”の消息と関係につて、問い合わせをした所、記念館側の職員は返答に窮して「暫く無言を呈した後電話を切る」と云った事があった。耆那教聖典の翻訳者“鈴木重信”と後藤新平と斉藤實には深い交流があったから、記念館側の職員は返答に窮していた訳である。この繋がりが世間に知れると、『2・26事件が“迫水 久常(さこみず ひさつね)”の【大芝居】だと云う』舞台裏が露見するからである。また、「2・26事件」については、過去に“がらくた百選”で述べた通り、埼玉県(畑和知事の時代)が編纂した「2・26事件と郷土兵。雪未だ降りやまず」の2・26事件にかりだされた兵卒の証言の中に、「銃殺刑に成った筈の上官が、ノモンハンで戦闘中に負傷して、野戦病院に入院していた所に見舞いに来ていた」と云う証言が在った事に記載したが、この兵卒の証言を裏づける関係が『小島威彦と斉藤實の太いパイプで結ばれていた』と云う図式である。何しろ小島威彦は斉藤實を同じ敷地内に住んでいたのに、「百年目にあけた玉手箱」では、斉藤實の消息についても、「2・26事件」についても一言も触れていないのである。それは、「2・26事件」で叛乱軍と呼ばれた将官によって銃殺(暗殺)されたとされている<予備役陸軍大佐松尾伝蔵(岡田啓介首相の義弟)、斉藤實内大臣、高橋是清蔵相、渡辺錠太郎教育総監>4名は生存していたと見るべきである。鈴木貫太郎侍従長(海軍出身)の感動的なドラマは小島威彦の“シナリオの寂(さび)”である。襲撃に参加した青年将校の死刑も演出である。NHKが制作した「ドキュメンタリー報道番組 2・26事件」は映像のトリックである。そもそも「2・26事件当時の国内の電話は、自動交換機システムではない」叛乱軍の電話盗聴は交換手で十分である。しかも「ドイツ大使館」が謀報活動の拠点だったと云う訳である。この「ドイツ大使館」が“2・26事件と云う劇場型犯罪”の共犯者である。小沢一郎が発言した<「政治家が『国民の生活が第一』という本来の任務を果たせなかった結果で、(事件は)政治家、政治の責任だ」> 叛乱軍は「貧困に喘ぐ農家出身の将兵と青年将校で構成させていた」と云うのが“2・26事件”の劇場型犯罪の骨格を成すものであるが、当時の政治家の目的は「日米英開戦と中国全土から、東アジア・東南アジア領域までの領土権の拡大にあった」のであるから、その目的を実行に移す為には<【大芝居】としての大日本帝国陸軍の叛乱軍事件としてのクーデター事件演出が不可欠だったのである。> それは、今、現在進行している「小沢一郎民主党劇場=小沢歌舞伎公演」と呼ぶべき劇場型の政治犯罪と同じ土壌から発生した同根の腐敗臭がする“十六八重表菊”である。なにが『政治の責任』だか?同じ戦争への道を諦めないのが“スメラノミクニ日本”であり、同盟国“ドイツ・イタリア”である。小沢一郎の大好き“囲碁”これも先の石原慎太郎と関係の深い「高田商会」絡みである。“スメラノミクニ日本の戦場カメラマン 渡部陽一”が再びパキスタン・インド地域に進出する訳であるが、先にも書いたベトナム戦争で“将軍と呼ばれたカメラマン岡村昭彦”やキャパと同じ様に“スメラノミクニ日本の軍事謀略”としての任務で赴くわけである。従ってインド・パキスタンでの戦闘の激化は避けられない事になる。インド・パキスタン・アフガニスタン地域での戦争状況に終戦が無いのは、実はアメリカ・イギリスなどの傭兵主義を利用している「ドイツ軍と“スメラノミクニ日本」の思惑に動かされているからに他ならないのである。小沢一郎がいう『スメラノミクニ日本の政治の責任』とは、インド・パキスタン・アフガニスタン諸国の国民への謝罪でもある訳だ。そうでしょ!民主党と自民党の國家議員の諸士方さま。旧漢字の「國」の表記が正しいでしょ。
更に、なぜ“ブータン”なのか?と云う答えは、小島威彦の『百年目にあけた玉手箱 全7巻 創樹社刊』に出てくるからである。それは<東海道新幹線で偶然にブータン国の王女様と出会った>と云う証言だが、小島威彦らしい不可視な表現である。小島威彦が“ブータン国の王女様 御一行を日本に招待して居るのに、”偶然に出会った“だと、性根が曲がっているから人間の屑らしい言い方だ。小島威彦一族が戦争の企画者である。これまた証拠である。ブータン国は現在”日本の飛地領土“だが、遠からず“スメラノミクニ日本”の完全な領土になる。“ブータン国”も、インドの「マッディヤ・プラデーシュ州のボーパール (Bhopal)国のシャー・ジャハーン王妃一族」の様な末路になる。“ブータン国”は地上から永久に消滅するのは確実である。“スメラノミクニ日本”の御接待には謀略の香りがするのに、王様王妃といつまでも持て囃されて、舞い上がっていればいいさ。絢爛豪華な祝宴を連日開いて、腑抜にしてやる。本当に“ブータンはブタ”だ。喰える様になるまで、“スメラノミクニ日本”は肥えさせているとも知らないで、脳天気で居ればいいのさ。

2、ボパール化学工場毒ガス漏出事件
【ボパール化学工場毒ガス漏出事件(マッディヤ・プラデーシュ州の州都ボーパール (Bhopal))】の事情は、フランスの“ジャック・ルネ・シラク( Jacques René Chirac)”
大統領が絶賛した書籍<ボーパール午前零時五分(II etait  minuit  cinq  a Bhopal)ドミニク・ラピエール/ハビエル・モロ共著、長谷 泰訳、河出書房新社刊、2002年11月30日初刊。>を読むと、不思議な事に“日本の化学工業系の財閥”の名称が一言も出て来ない。これなら、シラク大統領が絶賛して当然である。アルゼンチンやドイツやフランス、当然アメリカもでるが、これらの巨大化学工業の会社名は出てくるが、“スメラノミクニ日本”の日本窒素と住友化学、旭化成、三菱化学そして、「佐良直美の巴工業」はまるで無関係である。アジア最大の化学工業会社“日本窒素”が無関係ないはずがない。日本製原爆製造と完成そして使用に不可欠な会社“日本窒素(―サランラップ製造、カーバイド製造―”)が、世界の化学産業と提携しない筈がないのである。「日本窒素の社長は“野口遵(のぐち したがう)から大阪商船の中橋徳五郎(なかはし とくごろう)へ移行していく”これが何を意味するか?と云えば、小島威彦の妻が、大阪商船の娘であり、石原慎太郎の父も大阪商船繋がりと成る。詰まる所“日本国民を未曾有の戦禍に引きずり込んだ、匪賊の巣窟”と云うことである。さて、ボーパール国の王朝と、鈴木重信・斉藤實のコンビが、1984年12月に発生した「ボパール化学工場毒ガス漏出事件」の準備段階だった事が判る。ボパール化学工場毒ガス漏出事件の前段階で10月に「インディラ・ガンジー首相をシク教徒に暗殺させ」その前段階の7月頃に「悪徳高利貸し屋が、貧民階層にテレビをプレゼントして、
ガンジー暗殺を生中継して“シク教徒に対する反感を煽る”準備をしている」実に“スメラノミクニ日本”の用意周到な計略である。インドの内情を調べ尽くして、インド国内の「批判と対立と欲」を織り交ぜて、実に驚嘆すべき謀略である。ドイツも共犯者であり、アルゼンチンとオランダは良き協力者である。アルゼンチンならベトナムも巻き込まれている。太巻きでね。分る人は少ないでしょうが。太巻きが鈴木貫太郎の好物だった訳では有りません。アルゼンチンの日本大使の好物と云う意味です。
著者ドミニク・ラピエール/ハビエル・モロは、日本株式会社の社名を意図的に隠し
ている。日本とフランスは原子力産業に盟友だからね。

3、鎌倉会議と鎌倉アカデミア
2011年02月23日のニュース。
大量の人骨が発見された新宿・戸山旧陸軍軍医学校跡地で発掘作業が開始される
1989年に大量の人骨が見つかった東京都新宿区戸山の旧陸軍軍医学校跡地で、厚生労働省が今月21日、初の発掘調査を始めたそうです。
人骨の身元や埋まっていた経緯は不明のままで、人体実験をしたとされる旧日本軍「731部隊」(関東軍防疫給水部)の拠点があったため、市民団体が犠牲者の可能性があるとして調査を求めていたそうです。
新宿・戸山旧陸軍軍医学校跡地発掘始まる
調査するのは、都立戸山公園に隣接する国有地約3千平方メートル。現在の国立感染症研究所を建設工事中の1989年に偶然、100体分以上とみられる人骨が掘り出された場所の約250メートル西に当たる場所。
軍医学校で働いていた元日赤看護師の女性が2006年に「人体標本を埋めた」と証言し、川崎二郎厚労相(当時)が発掘方針を決めたそうで、厚労省は現段階で「731部隊との関連は不明」としています。調査は、敷地内の公務員宿舎が老朽化に伴い解体されたため可能になったそうで、跡地では89年7月、国立予防衛生研究所(現国立感染症研究所)の建設工事中、少なくとも62体分の人骨が発見されたそうです。新宿区や厚労省が、専門家による鑑定や軍医学校関係者へのアンケートをしたが、実態は解明されていないとのこと。

You Tubeの動画を見ると、厚生労働省のお役人サマらしき2名が、ニヤケタ顔で談笑しているから、大した結果例の如くに期待はしない。
この「731部隊の問題」で興味深いのは、石井四郎の長女“石井春海”の発言である。<731部隊の人体実験の資料と、戦犯を免責するアメリカ政府との話合いは、鎌倉で会議された>と云うものである。戦後に自由な学問を目指したと云う表看板の「鎌倉アカデミア:三枝博音(浄土真宗)」が、この鎌倉アカデミアこそ「鎌倉会議の場所」だった事になるからである。裏では謀略が日本のお家芸だ。
だから、「731部隊の問題も、広島・長崎の原子爆弾使用」も、鎌倉市を調査すべき第1候補にして、徹底てきな聴取を行うべきである。
三枝博音(国鉄の鶴見事故で死亡とされているが、死亡の根拠が軽薄、芸能人 樹木木林の父親も怪我をしたらしいが?)は、志木市の東邦産業研究所の最重要人物である。従って、この“鎌倉会議=鎌倉アカデミア”では、『731部隊の満洲帝国から東南アジアにかけて実地された生物・化学兵器の生体受験と、広島・長崎で日本海軍が行った原子爆弾の人体実験に関する製造・使用・現ABC兵器の有効性に関する資料交換会議』と云う訳である。なにが“アカデミア”なんだかね。“スメラノミクニ日本”の世界覇権主義と國家主義者の集団狂気に、世界が振回されている。マアー!オバマ大統領やライス元国務長官やクリントン現国務長官には理解不能でしょうがね。
小島威彦の“世界創造の哲学序曲”なる言葉は吐けないでしょうから。小島威彦や今東光・今日出海兄弟は、幕臣時代の流れを汲む謀略家だから、遺伝子が違うわけだ。
1974年(昭和49)に、文化庁初代長官 今日出海が埼玉会館で講演した第一声「今兄弟をいじめないで下さい」の意味は、“スメラ塾”から来ているのである。今日出海も
“スメラ塾”小島威彦の子分だった訳である。文化庁は現在でも“スメラ塾”思想の継承機関である。文部科学省は完全に解体して、整地して問題ない機関である。
“スメラ塾”の問題に行き着いた経緯は、電力の鬼 松永安左エ門が所有していた所沢市柳瀬の「柳瀬山荘(黄林閣、東京国立博物館分館)」の存在が疑問だったからである。始めに「電力の鬼」の異名と松永安左エ門が余りにも、かけ離れているからである。凡そ「電気事業」とは無縁の人間が「電力の鬼」と印象付けられたのか?疑問を解く鍵は「東邦産業研究所」だった訳である。此処に関する資料は規模が大きかった割りに絶無なのである。東邦産業研究所は「慶応義塾志木高等学校」に成り、会社の形で名残を辛うじて留めているのは「サンケン電気株式会社と株式会社シリコニット」と云う会社だけで、東邦産業研究所は現在の電力中央研究所だと云う理解できない組織形態だからである。電力事業に無縁な松永安左エ門が「電力の鬼」と云う事は、松永安左エ門は、本田宗一郎がHONDAの創業者と云う脚本(シナリオ)に酷似しているから、松永安左エ門を後ろで操っている人物を探しだせば良い訳である。それは、小林一三や福沢桃介らでもあるが、“日本製原爆の製造と完成、そして使用”と云う事から見たら不十分である。松永安左エ門・福沢桃介の関係を見て行くと、「慶応義塾」の存在が大きく成って来る。「慶應義塾と東邦産業研究所」を結ぶ人物は「谷口吉郎」しかでてこないが、「東邦産業研究所」の建物群と田中角栄元首相が繋がり、田中角栄と理化学研究所が繋がっているから、そこから「谷口吉郎」へ繋がり、ギリシア哲学繋がりを調べていくと、京都帝國大學が必ず何処にでも繋がってくる。松永安左エ門の武勇伝は「電力統制の問題」である。この「統制会」は一体何処からきたのか?それは「國家総動員法・國民精神総動員」などが出てくる。そこから「内閣府に設置された國家総力戦研究所」が戦争遂行機関なのに、1944年には消滅しているのである。官僚機構は、そう簡単に行政既得権を放棄しないものであるし、機構を創設する場合はその前段階として、小会議が開催されているのが普通である。この「國家総力戦」なる考え方は、何処からきたものなのか?と云う疑問である。日本で「國家総力戦」を具体的に形にしたのは“高嶋辰彦”と云う「神」だと判明した。この“高嶋辰彦”を調べて行くと「スメル塾」が登場してくる。この「スメル塾」は、インドネシアの南方方面の文化部隊“町田敬二”とも繋がってくる。それでは「スメル塾」と松永安左エ門に接点はみいだせるのか?と云うと出て来ないし、谷口吉郎の方にも出て来ないのである。小島威彦の書籍にも松永安左エ門との関係か書かれていない。小島威彦の書籍には、国内外の著名人の写真も名前も多数登場するが、谷口吉郎の名前は一度しか出てこないのである。小島威彦と深い繋がりのある“仲小路彰”の父親“仲小路 廉”が見つかる。この“仲小路  廉”の著作と履歴を探すと「電力事業」が出てくる。
ここから、松永安左エ門の電力事業“電力の鬼”の謎が解明されてくる訳である。
“仲小路  廉の構想した「國家電力事業計画と、世界中に水力発電所を建設する調査報告」”これを実現するのが、「慶応義塾の松永安左エ門」の仕事だった訳である。それはやがて「スメル塾」と云う形態になり、現在の【スメラノミクニ日本=日本國の天皇こそが、シュメール文明の唯一の継承者であり、シュメール文明こそが世界を支配する使命を受託されているからして、世界は日本に依ってのみ統治されるべきものである】この小島威彦らの「スメル塾思想」から始まり、現在、西尾幹二が復刻した『太平洋侵略史 全6巻 仲小路彰著』に戻り、再び戦争への坂道を転がりだそうとしている訳である。「スメル塾」の産声は、1942年(昭和17)に開催された<アジア復興 レオナルド・ダ・ヴィンチ展覽會>から本格的な思想啓蒙がなされ、現在の“スメラノミクニ日本”として更なる増殖を続けている訳である。
それでは、<アジア復興 レオナルド・ダ・ヴィンチ展覽會>に、皆様をご招待いたしましょう。

アジア復興 レオナルド・ダ・ヴィンチ展覽會  解説

主催 日本世界文化復興會
後援 情報局、陸軍省、海軍省

出品目録
*一から二〇六までの記載があるが、多くの図版が消失している。二〇〇から二〇六までの図版は、保存状態が悪かったのか消失している。特に最後の「世界歴史大壁面」とは如何なる壁面だったのか不明。バルトロメオ・コレオーニ将軍騎馬像の展示が何故必要だったのか?と云う事もある。

入場券――アジア復興 紀元二千六百〇二年自七月十二日
於 東京上野池ノ端  産業館

p1 アジア復興 レオナルド・ダ・ヴィンチ展覽會 開催趣意書
1939年、イタリア國政府はミラノに於て、國家的事業としてイタリア・ルネッサンスの基礎確立者にして、近代西歐文化の指導的建設者なるレオナルド・ダ・ヴィンチの記念展覽會を開催し、いかにレオナルドの偉大な業績が國家總力戰的に切實なる貢獻を為したるかを全面的に解明し、甚大なる文化的反響を世界に與へたり。かくて1941年、アメリカ合衆國はこの展覧會をニューヨーク萬國博覧會に於て開設し、近代文明の發展が驚異すべき程度に、レオナルドの文化的創造の中に孕まれ居たるかを遺憾なく表明するを得たり。
この世界的展覽會は、今回、日伊文化協定と日伊同盟の積極的表現のため、日本に於いて、來る7月以降開催することに決し、ここに大方の懇切なる協賛を要望する所なり。もとイタリア・ルネッサンスこそ、近代西歐文明の基礎的地盤を含むものにして、それ以前の西歐は全く狹隘なる中世紀的なローマ法王廳の限界の中にあるに過ぎざりしが、先に十回に亘る十字軍と蒙古軍の西歐進出により、始めて偉大にして豊富なる東洋アジア文化の奪取と傳播とになり、この兩洋の交通聯絡地域たるイタリアの地に、燦然たる文藝復興の開花を見たるなり。しかも、これこそ西歐の東洋に對する反撃としての戰争文化の結實にして、この中心的なる指導者として、わがレオナルド・ダ・ヴィンチの天才を見出すなり。・・・・
•    ・・・中略・・・・・この世界文化史上、最大の重要なる業蹟を眞に日本的立場にお
いて始めて十全に理解せしむるために、本展覽會を開催する目的を有するものにして、これに近代西歐文明の實體と限界を明らかにし、ここに新しいルネッサンスに對する東洋文化の傳承を示さんとするにあり。これにより近代總力戰の方向と機能とを確認せしむると與に、日本文化傳統の眞の本質を世界的に昻揚し、併せて日伊同盟文化の機能化に貢獻せんとする企圖を有するなり。

p3 アジア復興 レオナルド・ダ・ヴィンチ展覽會委員會
名誉會長  伊太利亜大使  マリオ・インデルリ
會  長  海 軍 大将  末 次 信 正
副 會 長  男    爵  三 井 高 陽
委 員 長    情 報 局 次長  奥  村  喜和男
常任委員                   坂  倉  準  三
委  員(五十音順)
伊太利亜大使館情報官  ミルコ・アルデマーニ
文部省國民精神文化研究所所長  伊 東 延 吉
外務省歐亜局長  安 東 義 良
海軍省報道部課長 海軍大佐  平 出 英 夫
陸軍省報道部課長 陸軍大佐  谷 萩 那華雄
幹  事
情報局第五部長  川 面 隆 三
顧  問(順序不同)
内閣総理大臣・陸軍大臣  東 條 英 機
外 務 大 臣    東 郷 茂 徳
内 務 大 臣   湯  澤  三千男
大 蔵 大 臣   賀  屋  興  宣
海軍大臣 海軍大将   嶋  田  繁太郎
司 法 大 臣   岩  村  通  世
文 部 大 臣   橋  田  邦  彦
農林大臣兼拓務大臣  井  野  碩  哉
商 工 大 臣  岸     信  介
逓信大臣 海軍中将  寺  島     健
鐵 道 大 臣  八  田  嘉  明
厚 生 大 臣  小  泉  親  彦
國務大臣 陸軍中将  鈴  木  貞  一
國務大臣 陸軍中将  安  藤  紀三郎
情 報 局 總 裁  谷     正 之
宗秩寮總裁 子爵  武者小路 公 共
靖國神社宮司 陸軍大将  鈴  木  孝  雄
明治神宮宮司 海軍大将  有  馬  良  橘
軍事保護院總裁 陸軍大将  本  庄      繁
陸 軍 大 将  林     銑十郎
陸 軍 大 将  阿  部  信  行
海 軍 大 将  中  村  良  三
公     爵   一 條  實  孝
陸 軍 中 将   前 田  利  爲
公     爵   井  上  三  郎
衆 議 院 議 員  白  鳥  敏  夫
参  興(五十音順)
技 術 院 總 裁  井 上  匡四郎
海軍艦政本部長 海軍中将  岩  村  清  一
立教大學總長  遠  藤  郁  三
東京朝日新聞社主筆   緒 方  竹  虎
海軍航空本部長 海軍中将   片  桐  英  吉
東京文理科大學學長   河  原  春  作
陸軍省兵器局長 陸軍中将   菅     晴  次
文 部 次 官   菊  池  豊三郎
海軍施設本部長 海軍中将   小  池  四  郎
慶応義塾大學總長   小  泉  信  三
日本放送協會會長   小  森  七  郎
法政大學總長   小  山  松  吉
東京美術學校校長   澤  田  源   一
明治大學總長   志  田  鉀   太
読売新聞社社長   正  力   松太郎
國民新聞代表取締   田  中       齋
早稲田大學總長    田  中  穂  積
東京日日新聞社會長     高  石  眞五郎
東京商科大學學長     高  瀬  荘太郎
鐵道省國際観光局局長     高  田      寛
陸軍航空總監 陸軍大将    土  肥   原賢二
外 務 次 官      西    春  彦
東京音楽學校校長     乗  杉  嘉  壽
東京帝國大学總長 海軍造船中将    平  賀      譲
都新聞社社長    福  田  英  助
日本商工會議所會頭    藤  山  愛一郎
三菱社専務    船  田  一  雄
住友本社總理事    古  田   俊之助
同盟通信社社長    古  野   伊之助
内閣書記官長    星  野  直  樹
東京府知事    松  村  光  麿
報知新聞社社長    三  木  武  吉
三井總元方理事長    向  井  忠  晴
中外商業新報社社長    村  上  幸  平
東京工業大學學長    八  木  秀   次
日本大學總長    山  岡   萬之助
逓信省航空局長官    山  田   良  秀
東 京 市 長

會 場 上野池の端 産業館
期 間 昭和十七年 夏――秋
東京市麹町區三番町四番地(伊太利亜文化會館)
委員會事務所 レオナルド・ダ・ヴィンチ展覧會事務所
電話九段(33)5025番

前 室
•    日本世界文化復興宣言(p5)
今や支那事變の必然的發展による大東亜戦争の決行は宣戦の大詔の下に、益々その世界的意義の重大なる實現を齎しつつあり、ここに支那事變の段階に於けるアジア文化復興の規模は、更に日本世界文化復興への飛躍的な發展を必須たらしめ、このため急速にその根本的企畫を整備すべきなり。乃ち本會を創設し、肇國の理念に基く「國生み」としての大東亜新秩序を創設し、眞に皇道宣布としての皇道文化復興の積極的活動の力たらしめんとするものなり。

5 モナ・リザ(巴里、ルーヴル美術館蔵)(p53)
レオナルドが此の美しいジョコンダなる婦人の微笑を通して語らんとする所は、彼の宇宙的な驚くべき全頭脳を支へる「憧れ」であった。サラセンの燦く文化、エジプトの神秘、そして更に東へのびる東方精神への憧れである。此の謎の微笑みこそ、スフインクスの表情と共に、永遠なる姿を見つめる眼ざしに他ならない。彼の無數なる幾多の面に於ける偉大なる才能も、此の「憧れ」の下に統一連関して考へられる時始めて、その理解が開けるのである。
それは優れたる時代ルネッサンスを生み出した。「ジパング」への夢、世界の象徴として仰がれる日本精神への歸一の憧憬であった。
(最も圓熟せる五十三歳の時に着手され、更に數年が捧げられた作品)

世界歴史大壁晝(p55)
1 世界創造
渾沌たる原始のよどもり、さだめなく漂ふ雲霧、無限にくらげなす動揺の中、清める天と濁り澱む地とに分れ、茫々たる時間と空間の中、天上の生命の根源、天照らす御光りは赤々と太陽の光を發現す。
宇宙の修理固成、大なる國生みの天業
此の天つ日を嗣ぎて、天壌と共に窮み無き、大理想の消ゆる無き、天つ日の本たる國土は、かくてつくり、おさめ、かため、なす。
2 上代統一文化圏
天照す御光の、清らけく、くもりなく、限りなき歓びに、祀りも政りも藝術の中に渾然と一にして天つ日嗣ぎのさかえます御代。
黒潮の流れに、大度津見の太平洋に環をなし、西は根洲(ネノクニ)、常世洲(トコヨノクニ)、夜見洲(ヨミノクニ)アジア大陸を横切り、中央アジア、南してはイラン高原を越へて、メソポタミア、エジプト、インドへと環る。
天の浮舟の葦舟の流れ動く道、母の慈しみの如き天つ御光り慕ひ仰ぎて上代は榮ゆる。
やがて、日本列島を中心に黄河流域、南海の島々には、上代日本文化圏、インダスの流れにモヘンジョダロ、ハラッパの古代インダス文化、チグリス、ユーフラテスの流れに定着せるには古代バビロニア文化、西してはナイルの沃野に古代埃及文明は構築さる。各々の地に創造されし文化は民族の闘争と移動によって拡散され始む。
3 宗教國家時代(p55)
4 教權國家時代(p56)
5 民族移動時代(p56)
6 文藝復興 ルネッサンス(p57)
7 近世日本南方建設時代(p57)
8 英蘭米植民地侵略時代(p58)
9 近代西歐文明(p58)
10明治維新 世界維新(p59)
阿片戰争を契機とする支那の植民地化、ぺルリの黑船を先頭とする米英露のアジアの四方よりの侵略は、辛くも日本の阻止に、最後の一線を劃されんとする。
尊皇攘夷、明治維新。
歐米植民地侵略に対する最後的防衛より決定的反撃へ。
スメラミクニの信念の具現は日清戰争、日露戰争へと日章旗をかざして、昴まり行く欧米植民地侵略への終止符は、彼等の内部矛盾第1次歐洲大戰を勃発せしめ、その帰結として来るものこそ、ユダヤ的國際主義。近代物質文明の欧米の没落過程は激化し、舊き世界は對立と矛盾の極みに混亂する。ここに、新なる新秩序、日独伊防共協定より三國黑軍事同盟は樹立され、明治維新以来の尊皇攘夷の世界的展開は、八紘爲宇、世界維新建設の大東亜戰の赫々たる勝利へと発展する。

•    日本世界文化復興
宣戰の大詔を奉載し大東亜争の決行は、米英ユダヤ的世界の舊秩序の根底的否定廢滅を期す。世界の根軸、皇國日本の宇宙の根源的な理念を中心とする新なる世界は、上代日本文化の復興、肇國の理念に即して、今や新なる國生みの創造期に入らんとする。

図版 p4 レオナルドの足跡
チグリス・ユーフラテスの水源地地方の地図と旅行記「レオナルドの遺録」
このメソポタミアの地にこそ上代スメル文化圏は建設されたのであり、それは遠く日本を中心とするアジア太平洋圏と相呼應するのである。
かくしてレオナルドは、古代アジア文化への憧憬の眼を放ちながら、この地に足を印して、古代スメル文化の復活運動としてルネッサンスを敢行して行ったのである。

如何でしょうか?流石、ファシズムを産んだ國の万博展示品は「武器に溢れていた訳だ」ムッソリーニやヒッラーや裕仁や李王朝が狂喜乱舞している様だ。展示品も凄いが、『展覽會委員會』に登場する大日本帝國陸海軍の名前が全部集合しているのには驚嘆したでしょ。
“スメラノミクニ日本”の万博<アジア復興 レオナルド・ダ・ヴィンチ展覽會>を御覧頂き、“スメラノミクニ日本”は再び戦争への意欲が沸いたことでしょう。特に石原慎太郎と曽野綾子(自称キリスト教徒)らは。ヨットに乗って人殺しに行こうですか?石原慎太郎一族だけで船出すれば。国民を自分達の無聊に巻き込むな。この脳天壊了の悪餓鬼。
伴 鉄牛老古佛の云いたいことが分ります。
中国全土には「スメラノ尊を象徴する無数の鳥井」を建設しておきながら、高嶋辰彦は“無い”と部下に言わせているのは、「皇戦」を叫んでいた高嶋辰日彦にとって、都合が悪かったからである。福井県からは<高嶋辰彦も坂東眞理子も原田祖岳>などの「神さま」が輩出されて良かったね。全員が神々の深き欲望に塗れて、無聊の果てに「無差別大量殺戮」しか頭にない訳だから。本当の「神」だ。気狂いの神々に振回される国民て、ナニ?。
常識のかけらも無いのが“スメラノクニ日本”と云う事が理解できましたか?

佐良直美の「遠心分離機は二人のために」
【日本製原爆製造と完成そして使用】について、日本科学振興財団が既に全容調査を終了している訳だから、どんなに勉強嫌いな国会議員でも、調査資料の漢字くらいは読める筈だ。しかも、最初に答えを教えて貰える学生でも此処まで親切にはされないでしょ。それ程、日本人は子供なんですよ。自分では物事が考えられない。云われたことしかやらない。云われたことも理解できないのが、日本人な訳だ。子供なのに「ワル知恵」だけは働くね。
さて、話は色々入り組んでいて、絡んだ糸の様ではあるが、しかし、ちゃんとした模様に仕上がっているから、その綾(アヤ)を根気強く観察していくと、一つの中心が見えて来るのである。その為に、時間の流れを現在から過去に向けて、光を照射するように紐解くことにする。始めは、芸能レポーター“梨元勝”の死亡事件からスタートする事にする。
実に良くできた【皇室御用の“劇場型犯罪のシナリオ”】である。芸能人 佐良直美の謂う“シーラカンス”が、深海から浮上してくるわけである。そうでしょ!佐良直美。お前の話をするのだから、ダダを捏ねないでくださいね。世界中がお前の名前を忘れないようにしてあげるからね。それが、佐良直美。お前の望みでもある訳だから。地球を壊したでしょ。それ位に「心の闇」を抱いている。佐良直美は出口由美子(旧姓:横田)と出口鉄城と、その子である「出口真希子・出口元美」と同じ境遇で「心の闇」に彷徨っている。
まぁー!日本人全部が【無明長夜】の世界を破り、【正覚】する気持ちがないのだから、仕方ないでしょ。内閣総理大臣 菅直人は首相の重責を「修行の行」だと発言してはいるが、それなら、霞が主食の仙人にでもなって中国四川省の“我眉山”の頂上で、核施設爆破犯として、その元凶を造った“毛沢東と蒋介石と折口信夫(おりぐち しのぶ、釈超空)”の脇で、座禅でもすれば良いのに。出来ないでしょ!首相の椅子に座りたいから、政治家に成った訳だし。出来もしない事を云うのが日本人です。そしてやる気も無いのが、日本人ですね。勿論、座禅の指導は「出口鉄城(本名:出口充彦、東京都品川区豊町4丁目 東照寺国際参禅道場 住職)」に教えて貰えばいいさ。ついでに「お手伝いさん泥棒」の手口も指南して貰えばいいさ。それなら、日本国首相として満点だ。正に「霞ヶ関」だ。しかし、霞ヶ関に住みついた「政治家・旧華族・旧皇族・名字帯刀を問題にする輩・・・・ら」は、最強欲だから鯨を四千頭食べてもまだ“食べ足りない”と絶叫している。
これを、“匪賊”と呼ぶんですよ。釈迦族と云う外人には分らないでしょうけど。
時系列を「新しいから古い」に記述して行くと。
萩原健一―交際報道
2010年11月24日――佐良直美のシングル【A面いのちの木陰・B面 銀河の子守唄
(The Shade of the Tree、Lullaby of the Milky Way etc)】リリース。レーベル ビクターエンタテインメント。作詞・作曲:山川啓介(M-1・2)、作曲:渋谷毅(M-1〜6)
海老蔵
中村団十郎―麻布で豪遊
2010年08月21日――芸能レポーター梨元勝 肺がんにて死去(満65歳)。6月6日肺がんと判明、原因不明の咳は4月半ばから。
2009年07月07日――勝野七奈美(かつの ななみ) 肺がんにて死去(29歳)
*勝野七奈美<父は俳優の勝野洋。母は芸能レポーター・女優キャシー中島(Kathy Nakajima)、本名は勝野 八千代(かつの やちよ)。病状の肺がんについては2ヵ月前に判明(5月?)。配偶者は猪田武。>
「キャンテイ物語テ」レビで放映
佐良直美レズビアン騒動 キャシー中島
佐良直美レズビアン騒動 木原美知子
佐良直美NHKからデビュー

佐良直美の履歴
1967年(昭42)11月20日号 ヤングレディ(講談社発行) p119~p121
タイトル【特報 父が二人母が三人という 佐良直美のおかしな家族関係】
*佐良直美(22歳・本名・山口直子)-さる4月『音楽の花ひらく』でデビュー、達者な司会ぶりを見せている歌手。
*NHK“音楽の花ひらく”担当・末盛憲彦ディレクターのコメント:「なんといっても、彼
女の持っているあの明るさ・・・・・作られたものではなく、生地のままの魅力を感じ
させるのですね。それに、清潔感にあふれています。近ごろ珍しい個性ではないでしょ
うか」

•    この12月28日からは、東京・草月会館ホールで、3日間のワンマンショーも開くが、
早くも切符は売り切れの声も出ている、という。

•    なるほど、ブラウン管に登場する彼女は、ボーイッシュなスタイルでもあろうが、そこ
ぬけに明るい。まるで、世界は彼女のためにあるような感じだが、いったい彼女のあかるさは、なにから生まれたものか。その秘密は、彼女・佐良直美の出生にからむ、まったくおかしな家族関係にあるようだ。「わたしには、二人の父と三人の母があります。親たちにはたっぷり恵まれてるわけね」佐良直美は、こう言う。
が、これは、彼女独特のお茶目な表現なのである。彼女のことばを借りて解説を加え
ながら、家族関係を整理するとこんな事になる。
二人の父というのは、実父・川田正雄さん(58)と義父の三浦弘詞さん(52)
三人の母というのは、感覚的な表現で、実際は
祖母・山口哥根子さん(72)、
実母・井倶子さん(49){苗字は山口姓→川田姓(昭23年に離婚が成立→山口(三浦とは内縁関係の為)}
叔母・洋堡子さん(44)
戸籍上では佐良直美(=山口直子)は、祖母・山口哥根子さんの養女となっており、
実母・井倶子さんとは姉妹ということになるのだ。
どうして、そんなおかしな関係が生まれたものか、彼女の解説によると、
「マミー(注・実母・井倶子さんの愛称)と父の川田との間にできたのがわたしなん
ですね。そのころ、父は陸軍の将校で、母もいっしょに満洲にいたけど、性格があわ
なくて、家出同様に実家に帰ってきちゃったんですって、そして、わたしが生まれた
20年の1月10日だけど、戦争中のことで、また、東京と満洲とに離れていたため、
実際は別れているのに離婚手続きがとれなかったんですね。それで、どうせ離婚する
相手の籍にわたしを入れる必要はない、とさっとパパチャマ(注・祖母のこと)が自
分の養女として入籍したそうです」

•    この家庭環境で注目されるのは「川田正雄」の名前である。「川田正雄」の父親は「川田順」である。その川田順の履歴は、<明治15年1月15日東京に生る。父は宮中顧問官文學博士川田剛。職歴:昭和和3年に住友合資會社の總務部長。昭和5年8月常務理事>である。そう成ると、<芸能人 佐良直美(=山口直子)>の生い立ちは、出口由美子(旧制 横田)と同じ家庭環境だと判る。親が嘘を教えている訳である。芸能人は100%“非嫡出子”と云う話を思い出して頂きたい。<芸能人 佐良直美(=山口直子)>の養育に3人の母がつく事は、良子皇太后(香淳皇太后)が一番可能性が高いが、世間がしてきしている「石井ふく子(“渡る世間は鬼ばかり”のプロデューサー)」が妥当な産みの母だろう。この程度の人間の屑には、お似合いだろ。京都府の祇園(朝鮮人部落)芸者の出身だから、そこ意地が悪い訳だ。人を苛めることしか頭にない。京都府下は全て“朝鮮人部落”である。野中広務元内閣官房長官(自民党)は、北朝鮮の指導者であり、オウム真理教団の北朝鮮窓口でもある。
さて、「川田の名前」が出てくると、“川田亜子(不可解な死亡報道の主)”が、中国の胡 錦濤国家主席に日本から“プレゼント”されたのは、この皇室出身と云う訳だからである。もう一人の「川田姓」は、薬害エイズ訴訟で有名な“川田龍平”の存在である。福島県の出身なら尚更、怪しい訳だ。薬害エイズの問題で英断を下したのは、現菅直人首相(当時は厚生大臣)である。薬害エイズ訴訟の厚生労働省側の防波堤は、実は訴訟団の代表“川田龍平”である。大阪・東京の薬害エイズ訴訟を妨害しているのが、“川田龍平”本人である。そうなると、現菅直人首相(当時は厚生大臣)の薬害エイズ訴訟は“政治歌舞伎”と云う舞台裏が覗ける訳である。被害者は泣き寝入りするのが、“スメラニノクニ日本”である。そして、常に加害者は“國”である。何処までいっても匪賊だから。
川田順の「老いらくの恋」これが和歌・短歌・俳句の世界である。これに多額の国費を注ぎこむのが政府機関である。勿論「文化庁」がである。政府機関が未来永劫「全廃」しても問題ないでしょ。東照寺国際参禅道場の出口鉄城・由美子夫婦だけ居れば十分でしようね。「二人のために世界はある」という聖書の世界だから。ボーパール化学工場毒ガス漏出事件で、十字架をしていた少女が死人の群れから“復活”した奇跡が、書籍の中で臆面もなく書くのがキリスト教社会である。毒ガスを浴びても「十字架が守る」バチカン政府が喜びそうな“神話”だね。法皇も毒ガスを浴びても“復活”できますかね?それは。妄想だろう。中国の作家が書いた“狂人日記”のタイトルみたいだね。

参考資料編
1、雪松 高嶋辰彦さんの思い出
発行日:昭和56年9月20日
編集・発行者:森 晴治
〒812 福岡市東区箱崎3-1-9  ℡:092-651-4116
印刷所:青柳工業株式会社
〒610 福岡県福岡市中央区渡辺通2-9-11 ℡:092-641-431

表紙見返りの写真から
人格完成    高嶋さんの筆跡
假令煙波千里遠きと
たとひ雲樹萬里微なると
風邪¥蕭々流水寒きの頃
夢轂踟蹰す鷄林辺
轂(こく)踟(ち)蹰(ちゅう)鷄(けい、ひわとり)

背表紙裏
現世12態の悪循環
①お金ほしさの商魂狂い
②広告合戦物凄い
③読んで血眼虚栄の女房
④亭主さんざんしぼられる
⑤やけの呑み過ぎ車用もテクも
⑥とうとう悲惨な交通禍
⑦役人の知恵歩道橋
⑧のぼりくだりの大空腹
⑨高いお米もよけいにたべる
⑩その上税金増すばかり
⑪飯と税とに追いつめられて
⑫何といわれようとお金がほしい
(⑫から①に戻りぐるぐる廻る)          雪松作

1、皇戦会と大雲会(正信同愛会=三菱と外務省(加瀬喜一郎、加瀬俊一)の繋がり。
裕仁の兵法を知らなかったからー孫子の兵法の大家 高嶋辰彦や安岡らの講義を受けて居た事で、裕仁自身が兵法家だった自信の表れか?
2、裕仁が高嶋辰彦のA級戦犯からの除外を米国側に要請したから、戦後の自衛隊の思想(天皇の統帥権)教官をする必要が在った訳である。
3、高嶋の思想がユダヤ人の問題とも繋がり、ドイツの虐殺とも繋がる。
4、山下泰文が云った「一族・・・」と云う言葉からして、柳川は抗戦派だったが、山下は慎重論だったとなる。

目 次

高嶋辰彦(30)[福井]明治30年1月10日~昭和53年9月24日
福井県生れ  港湾業多賀谷儀三郎の四男、陸軍中佐高嶋嘉蔵(旧11)の養子 四日市中学、名幼、中幼を経て大7・5陸士卒 7・12少尉・歩38連隊付 11・3中尉
14・11陸大卒 15・12軍務局付勤務 昭2・3大尉 3・4軍務局課員(軍事課)
11・6参本部員 11・10~12・2欧米出張 12・8中佐 12・8~13・7兼軍務局付 12・11~13・7大本営参謀 13・7参本4部11課長付 13・8兼兵務局付 13・9参本10課(戦史)兼11課長代理 14・3大佐・参本課長 14・5皇戦会常務理事 15・5兼陸大講教官 15・12台湾歩1連隊長 16・10台本営付 16・11第16軍参謀 17・4公守嶺校教官 18・3少将・公守嶺付
18・3第3軍参謀長 19・12東部軍参謀副長 20・3第12方面軍参謀長
20・11待命 20・12予備役 20・12~21・6東部復員監部総務部長 22・3~22・11戦犯拘留(シンガポール) 著書に『日本百年戦争宣言』『皇戦』(昭13)、
伝記に森晴治編『雪松 高嶋辰彦さんの思い出』(非売品、昭56)がある 高嶋資料は防研蔵

町田敬二(30)[鹿児島]明治29年8月15日~平成2年3月12日
東京生れ、*陸軍大将町田敬宇(旧9)の二男、妻ハナは知事堀口助治の女、鹿児島二中、中幼予科、中幼を経て大7・5陸士卒、7・12少尉・歩3連隊付 11・3中尉
14・5歩校付 昭2・7大尉・歩3連隊付 3・4歩3連隊中隊長 5・8教付勤務
7・8技本付勤務 8・8技本部員 10・8少佐 12・3独守歩25大隊長付 13・5歩50連隊補充大隊長 13・8歩145連隊大隊長 14・8中佐 15年第13国境守備隊歩兵隊長 16・11第16軍宣伝班長 17・12独歩29連隊隊長 18・6兵器行政本部調査部員 20・5西部軍報道部隊長 20・6大佐 20・11復員
自伝『ある軍人紙碑』(芙蓉書房、昭53)がある。  146p
日本陸海軍総合辞典 第2版 秦 郁彦 編   財団法人 東京大学出版会(代表 岡本和夫 東京都文京区本郷7-3-1 東大構内 ℡:03-3811―8814

序文的思考―雪松 高嶋辰彦さんの思い出―  町田敬二

高嶋君との出合いは市ヶ谷台。ともに陸軍中央幼年学校の本科生徒、いうなれば“同根”である。あれから70年の歳月が流れた。そして彼も既に3年前に亡くなっている。
私は編集子から『雪松・高嶋辰彦さんの思い出』の校正刷りを見せていただいた。読み進めるうちに、彼ことが走馬燈のように思い返され、その「はしがき的思考」をまさぐって、これなる雑文を書いた。アノ世に居ても友情を忘れない高嶋君は、きっと拾い読みぐらいはして、例の笑顔を見せてくれるだろう。
天才は空から降ってくる星の炎である。私は、歴史の林に彗星のごとく光芒を曳いて消えた畏敬の友の面影を偲び、敢えてこの証文(あかしぶみ)を草して巻頭にささげたい。これは精いっぱいの“高島賛歌”である。

「恩賜の品々はいかがなされましたか」という私の問いに、倉子夫人は「三つのお時計はそれぞれ三児に、軍刀はわたしが・・・・・」というお答えであった。なんと素晴らしいお形見分けだろう。高嶋君はお宮詣りの時点で奇跡がおこったといわれるほどの神童。
その彼が幼年学校から陸大を卒業するまで、始終トップでとおした話はあまりにも有名である。
明治30年、北陸の一寒村に産声をあげ高嶋君は、すでにその当時から神秘的な萌芽があった。萌芽は育って心扉を開き、陸軍の楨幹たらんことを期する。幼少の頃より穎脱著しく、軈て陸士に進み、その卒業に当り「慨子(高嶋君を指す)ハ献身殉国ノ大節アルノミ、張良タルト韓信タルト報効ニ於テ何ゾ選バンヤ」と、その所懐を賦(ふ)している。
頭脳明晰といっても彼の場合は、もはや秀才とか俊髦というよりも、磧学とか賢哲とかいった方がぴったりするようだ。むかし、ある高名な師団長が“高嶋中尉の頭脳(あたま)は国宝級だ”と激賞したという逸話もある。晩年の彼は難聴になやんだが、お脳の方は冴えに冴えて博覧強記、さながらエンサイクロペディアの観があった。
では図抜けた知能指数の高いこの人材が、陸軍畑に入ってからいかなる歴程を辿ったか。
またどんな仕事が彼を待ちうけていたか。思えば陸軍は派閥の多いところであった。
しかし、幸か不幸か、彼はその孰れにもご縁がなかった。また軍人の中には政治の好きな野心家もいたが、その仲間入りもしなかった。そんな彼は、衆愚に対して時に孤高であったかも知れない。そんなとき彼は“精神家”または“神がかり”などの異名をたてまつられ、あるいは“異端者”のごとく敬遠されたりしたこともあったが、どうしてどうして高嶋辰彦なる御仁(ごじん)は、該博な知識と円満な常識を兼ね備えた偉大な平凡人であった。誰も縦(つ)いて行けない力を持っていながら、誰にも親しめる人柄が同居していたのである。
この大才に与えられた陸軍の考科表は、おそらくデラックスで超一流だったに違いない。古えから人事的な評点として、陸軍大将たるべき必須の要点は「知徳、信仰、仁心、勇気、厳粛」の五つだそうである(旧陸軍省人事局 額田 坦氏の証言)が、私の観るところ高嶋君はその徳目を残らず備えた大器であった。私が強弁せずとも彼の将来は陸軍大将が約束されていたし、もちろん陸軍三長官のどのポストも席をあけて待っていたであろう“優等生”であった。
大才といい、大器と呼ばれる彼は、つまるところボリュームのある学殖に裏付けられてポテンシャルが高く、およそ旧軍にはその類型を見ない異質の人物だったのではないだろうか。してみれば、彼は“孤独”であった。そして自分の道をすべて“孤独”と共に歩いてきたのである。人はひとりで歩く時いちばん強い。だから彼は生涯、自分の心に負けたことがなかった。
高嶋君は30余年の軍籍時代をもったが、大器といえどもその間すべて順風であったとはいえなかった。いかんせん、彼とても旧軍の人事面では“俎上の鯉”であった。時に秋風落莫、都落ちをしたり、熱帯から北満へ飛んだりもした。言葉には出さず、腹のなかでは人事の矛盾を哄笑していた時代もあったのであろう。だが、昭和13年から15年にかけて彼は、参謀本部第4課の第10課(戦史)と第11課(国防研究)で両課長を兼任している。この命課はけだし適材適所の適例ではなかったかと、私は観る。折しも激動する内外の情勢のなかにあって、陸軍省は国家総動員法が着々と整備され、参謀本部では拡大する支那事変に対処して既に大本営も設置せられていた。その軍国日本のヒノキ舞台(?)で、わが高嶋君は何を思ったか、ここを正念場とばかりにボールテージをあげて、八面六臂、軍人ばなれ(?)した活躍をしている。
このポストで陸軍が彼に求めているものが何であったか、また彼のダイナミックな行動が、果して陸軍のエスト(流儀)に適ったものであったかどうか、私はそれを知らない。
しかし、僅か2、3年に過ぎないこの期間における彼のさまざまな行動は目を見張るものばかりで、まさに彼自身のハイライトであり、メイン・エベントであった。私はこのことを抜きにして彼を語る訳には行かない。
この頃、彼はかの『皇戦』(昭13年・12)や『日本百年戦争宣言』(昭和14・2)などを公刊し、それが新聞や雑誌に掲載されるなどして、当時のマスコミを賑わせている。この論稿は彼の持論、いうなれば高嶋ドクトリン(学説)の集大成であって、たとばそれがナルシズム(自己陶酔)という有難くない一部の批判を免れなかったとしても、それはそれなりに次元の高いものであった。(戦争は「生草(いくさ)と書いて民政の意味がある―――高嶋語録より」。『皇戦』において彼は、その意義を明らかにして、皇道に即したわが総力戦と、これに依る世界維新に関する理念の検討を行っている。これを経(たていと)とすれば『百年戦争宣言』は緯(よこいと)。日支事変の解決、東亜の再建は、歪曲甚だしい世界史の転換なくして絶対に成就しえないとして、日本に、東亜に、アジアに、そして世界に、皇道に即する新しい世界を創造すべき根本方針を決定し、これを遂行することによってのみ、最も速やかに達成しうるのであって、永遠なる皇戦の理念こそはその基本である。と興論にうったえている。『国家は最高の道徳的存在なり』を信条とする彼の所論のまさに天衣無縫である。
しかしながら、世に「時・處・位」ということがある。わが高嶋君の場合もサイクルの違いから、その高邁な思想も抱負も、惜しむらくは『象牙の塔』を抜けきらなかったのではないだろうか。あるいは陸軍のカルチャー(文化)から一歩も二歩もはみ出していたといえるかも知れない。すなわち皇戦思想によって構築された高嶋君のマクロな世界観は、あいにく時流にハーモニーせず、むしろ後世に贈る書として、その歴史的評価を高くかわれたといってよいのではないだろうか。
それでは、高嶋君のこの時点において「孤高」であった。然り、彼は「孤高の士」であった。而うして、彼は人生の究極的な本質として、その理想を実現に賭けた。すなわち高嶋君の大いなる精神は、遠い可能性を信じて静かに忍耐するのであった。大地に立って、高く空を仰ぐ者の眼は陽光にかがやき、その魂は悠遠の宇宙を貫いて天上翔ける。不運、銜(はみ)をうけず、鞍をおかれなかった千里の駒。それは高嶋辰彦君その人であった。


そのむかし軍人にはマジョリティー(多数派)の力学があったが、わが高嶋君には深化されたイメージはあっても、軍が力で押しまくるという派手さはなかった。それが高嶋君の巧まざる姿勢であった。あるいは彼の身上ともいえるかもしれない。そうしたなかで、彼ことを“高嶋先生”と呼ぶもろもろの文化グループとの交渉が、多岐にわたって行われていた。
そこで、私自身かかわりのあった範囲内においてその“証言”を述べるならば、次のようなことになる。
高嶋君はこの時期に参謀本部の別働隊として、国民精神文化研究所(小島威彦主宰)を動員して『戦争文化』なる機関誌を出して言論活動をしている。そのために「世界創造社」という出版社もつくった。(例の「皇戦会」ができたのもこの頃である)。そして仲小路 彰、小島威彦、清水宣雄、吉田三郎などの若い学者連中を中心に、末次信正海軍大将を塾頭とする『すめら学塾』を開設した。この学塾では国民精神文化のメンバーに陸海軍や情報局などの有識者を交えて講習会を開き、一時は塾生三千人と号(?)するほどの盛況を呈した。そのリーダー・シップをとったのがわが高嶋君であった。
『スメラ学塾』の思考方式は、日本を中心とする世界情勢のなかで、前記の若い学者仲間がやっていた政治的文化運動であった。戦後、連合軍からパーシ団体として指されたが、そもそもこの運動は本来の右翼はもちろん、左翼もリベラリストも現存する一切のものを否定する“新しい世界観”であり、その根本理念は、世界連邦運動と同じで、日本での萌芽ともいえるものだった。そして当面の具体案としては、近代欧米中心の世界を人類全体の世界に一日も早く変革させる、つまり“世界維新の完遂”ということにあった。それには先ずアジアの各民族を独立させる、すなわち“植民地の解放”を日本の手でやらねばならない。これこそ現代に生をうけたわれわれ日本人の最大の任務である、という決意がみなぎっていた。そこへまことにタイミングよく大東亜戦争の宣戦の詔勅が下ったのである。
ジャワ作戦に私は第十六軍宣伝班長として、大宅壮一、大木惇夫、浅野 晃などの錚々たる文化人百数十名を率いて出征するのであるが、その時『スメラ学塾』から、前掲の清水宣雄をキャップに二十数名の塾生を覆面の“特別青年隊”として、ひそかに従事せしめている。このことは今だから話せる高嶋君との秘密工作であった。
大東亜戦争で思想戦(心戦)の展開を大本営に進言したのは高嶋君であった。ジャワ派遣軍宣伝班。その使命は、近代戦の様相にかんがみ、宣伝心理学とパブリック・リレーションないしパブリックシティーを内外に展開するというねらいで、「民族の独立と植民地の解放」こそはしのスローガンであった。高嶋君のいわゆる『皇戦』の意義もそこにあったのであるが、ジャワ戡定作戦の後は、大本営の戦略思想は必ずしも「皇軍」と僣称するにふさわしいものではなかった。
しかし、皇軍意識に徹した今村 均軍司令官は、その初一念をひるがえさなかった。私は当時軍直轄の宣伝班長として、わが“文化部隊”に理解のある軍司令官をいただいたことを、こよなく嬉しいと思った。軍司令官はインドネシアに対する濃やかな愛情を、そのまま振りむけて、終始見守って下さったのである。私はその蔭に高嶋高級参謀の強力なバック・アップあったことをよく知っている。彼は蔭になり日向になりして、わが宣伝班を庇護してくれた。南十字星のきらめく白い夜、椰子の葉ずれのさやぐジャカルタの公館で、インドネシア・ムルデカ(独立)を熱っぽく語る二人のあいだには“戦争”という昂奮の火花が烈しく散っていた。
「これやこの遠征(とおゆ)く者の 前の代に曽(かっ)て無かりし 国生みの大御いくさ 栄え頒つ(はえわかつ)御(み)民のひとり かく思ば胸痛むまで ますらをの涙落ちぬる」。大木惇夫はこの詩を詠みおえると感激のあまり、隣りにいた高嶋参謀の頬っぺたにいきなり接吻(キッス)した。その時の高嶋君の複雑微妙な笑顔を私は忘れない。

思うに人間はそれぞれ歴史をつくる。その歴史における人間の存在価値を決して無視してはならない。高嶋辰彦というひとりの人間がその一生をいかに生きたか?そしてそれが陸軍あるいは社会とどんなかかわりがあったか、それをはっきりさせることは人間の探求であり、場合によっては歴史の究明にもなる。『雪松・高嶋辰彦さんの思い出』は、高嶋さんと縁(ゆかり)ある人々の執筆になる百花斉放の「証言集」である。高嶋辰彦という世にも優れた一個の人間像を、あらゆる角度からとらえて浮彫りにしている。
高嶋君の戦後はその薀蓄に加えて、図書の渉猟と、情勢分析、真理の追究に第2の人生を送り、文業に講演にその所信を披瀝しているが、どうしたものか、告白とか回想とかいった、作品と呼ぶにふさわしい「自叙伝」ふうのものがない。そこへ本書が出版された意義はまことに大きい。
話は戦前にさかのぼる。日本陸軍の伝統的戦略は「南守北進」であった。陸軍の統帥部が急拠、それを「北守南進」に切り換えたのは昭和15年(1940年)である。その年の末わが高嶋大佐は省部(陸軍部・参謀本部)のメッカ“三宅坂”を降りて、台湾歩兵第1聯隊長として海南島警備の任に就くことになる。このとき、高嶋君にとって東支那海の風は、かの漢詩(からうた)にある“易水”のごとく、蕭々兮として寒かったに違いないと思う。
しかし彼は直ちに馬上の人となって北海作戦に従事している。この作戦で高嶋聯隊長が“軍政布告”を発令して“中央”から叱られたというトピックスをあとで聞いたが、いかにも彼らしい“勇み足”のひと幕ではある。   (蕭:しょう・よもぎ、兮:けい・げい)
海南島での聯隊長生活において、彼は“学者型”から脱皮して“野戦型”となり、年とともに人間的な重厚さも加わってきて、言うなれば軍人としての生き甲斐を最高に満喫した筈である。彼は血も涙もある“武士の情”をもって、麾下(きか)三千の将兵を温かく抱き上げた。仏陀は「愛あるをもって勇なり」と説いたが、高嶋君の“武人の徳操”は、正真正銘、確かなものとしてここに証(あかし)がたてられたのである。
森 晴治さんを筆頭に台歩一の旧部下のめんめんが筆陣を揃えて、恩愛限りなき高嶋聯隊長の面影を偲んでいるが、その纏綿(てんめん)たる慕情は珠玉の文章となって綴られ、まことに圧巻である。私はそこに本書刊行の意義を再確認した。そして「ある日、天に向かって放たれた1本の矢が、ほど経て森の中の巨木にしっかりと射込まれているのを見た」というロングフェローの有名な詩をふと口ずさむのであった。
顧みて、高嶋君の行蔵(こうぞう)は日本陸軍の主流に大きく、機能することはなかったかもしれない。また、“時代”が惹起した事件のターニング・ポイントといかなるかかわり合いがあったか、あるいはなかったか、それも審らかではない。しかし終戦時、彼が東部軍管区参謀の要職にあったことは、天の配剤によるものではないだろいうか。終戦前夜、宮中事件に対処した彼ならではの明断課決ぶりは、まことにあっぱれであるが、自決された田中静壱軍司令官の遺志にこたえて彼は、血涙の筆湍(ひつたん)を飛ばして『詔勅必謹と我等の覚悟』や、『終戦の詔書と皇国の国体及び皇軍も本質』、『現代の混乱と終戦史観』などを矢継早に書き、敗戦によって精神的パニックに陥った多くの日本人の心をよみがえらせた。それは高嶋君自身の“鎮魂歌”でもあった。彼の日本民族に対する愛情と皇室崇拝の念は、心底、陸軍出仕以来の本命であったが、思えばその熱禱が祖国敗戦の日に触発して、あたかも堰を決して奔流のごとく一連の大文章を謳いあげたものだろう。
前にも触れたように、昭和25年以降、彼は驚くべきエネルギーをもっておびただしい論文を生む著作活動がなされた。兵学、哲学を始めとして、経済、外交、文化にいたるまで、その論叢の多くは諸団体の機関紙、雑誌などに発表されているが、いずれもリアルで格調の高いうねりがある。その文脉にかってのような教条的託宣はなく、平明な筆致でおのれの意志を貫ぬき、夫子自らが立派に蒸留されている。すなわち、どの文献も彼の香気ある精魂が壮大な美意識のもとに昇華されて、滋味のある生命感が書中に溢れている。その遺稿の量は必ずしも彼の著作のバロメーターにはならないが、断簡零墨(だんかんれいぼく)、遺された限りの文献では、その一つ一つがすこぶる貴重な文字に満ちている。本書の第3章はその白眉ともいうべき一斑を掲載しているが、一読再読、高嶋君の心の鼓動が聞こえてくる。まことに『文は人なり』(夏目漱石)である。
思えば、戦前の高嶋君は「世界維新」の理想を説いた一惑星であったが、戦後もまた卓抜なインフルース(説得力)を失わないユニークな存在であった。彼はどこへでも大手をふって罷り通る評論家であり、社会の木鐸(ぼくたく)をもって任じていいサムライであった。そんな彼に対する、さまざまなフース・ヒー(人物月旦)のなかで、見落としてならないというより、まさに瞻仰(せんぎょう)すべきは、高嶋君の“人間性の高さ”である。すなわち彼は、日本の道統のなかにある大事な個性(これを無くしたらもはや日本人ではなくなるという典型的な心理)を内に持った人間であった。そんな彼は、軍人である前に根源的な人間認識の問題をひどく大事にしていた。それが証拠にはつねに精神やたましいに関する第一義的な課題を衝(つ)いて、ひたむきに奉公の道を求めていたし、もう一つには1億に国民が真に活力ある日本人としてよみがえり、挙って高ぶりある社会を顕正(けんじょう)せんとする“懐かしい日本”への回帰を願っていた。この二つの人間認識は、それが終生の祈りとなるリアリストとしての彼の実践哲学であった。
人物は風土の所産である。東尋坊。ここは高嶋君の郷里、福井県三国町から北西3キロにある天下の奇勝である。そこに生い茂る松は実に美しい。雪をかぶればすなわち『雪松』である。その陣ヶ岳の脚下には巨大な輝石安山岩が美事な桂状節理を見せてそそり立ち、日本海の怒濤に洗われて勇壮そのものの景観を展開している。私は生前、高嶋君がいった言葉を想起する。「町田君、いちど東尋坊に来ないか。文学散歩にいいところだ。君の好きな三好達治(大阪幼年学校出身の詩人)の碑もある。案内するよ」というのだが、ああ、その機会はもう永遠に来ない。
牛込、薬王寺の高嶋君の書斉にあった汗牛充棟の蔵書のめぼしいものは、彼が日頃目にかけていた後輩(森松俊夫、矢代堅二、中井延次郎ら)によって撰ばれて今、防衛研究所戦史室の「高嶋コーナー」に納まっている。地上に英知と正義と徳治の天国を建設せんと夢みた高嶋君遺愛の図書がそこに眠っているのである。私はここを訪れる具眼の士によって、彼の壮大な夢がやがて開花する日の来ることを期待している。『天行は健なり』である。
高嶋君は死して惜しまれる大天才であった。しかし、誰もかれも大天才となる訳には行かない。路傍の石に腰をおろして、大天才のお通りを拍手で見送る人物も必要なのだ。軍にあっては“こぼれ星”、娑婆に出ては“遊び星”のような私が、乞われるままに、その“人物”となって『雪松・高嶋辰彦さんの思い出』の巻頭をかえりみず、この片々たる「序文的思考」を寄せたのもそのたぐいである。

昭和56年8月15日
熱禱(ねつとう)
三枝博音と 仲小路章と小島威彦と高嶋辰彦――皇戦会―長期総力戦の思想。
西谷啓治、高山岩男、高坂正顕、鈴木成高の西田哲学門下による座談会「世界史的立場と日本(中央公論)」にも反映されている。
重光葵の評で、「欠点がないのが欠点」
ジャワ作戦に私は第16軍宣伝班長として、大宅壮一、大木  浅野

p2 高嶋辰彦君を弔う    町田敬二
ぼくは君が脳軟化症で入院以来1年有余、その全快をこいねがわない日とてはなかった同期生の一人だが、遂に君の柩の前に追悼のことばを述べざるをえない最悪の日がきた。残念で堪らない。
思えば、君が陸軍出仕以来、終始、エリート・コースをトップで歩いてこられたことは余りにも有名だが、その君は攻城野戦の武勲というよりも、統帥の帳幄につらなる智謀として、国軍に千鈞の重きをなした功績は、けだし頻る大きい。
その間、君が口癖のように言っていた「皇軍」のために、もじどおり蹇蹇匪躬(けんけんひきゅう)の節を全うされたことは、君みずから充分に納得しておられると思うが、ぼくたちは君の奉公の理念の高さを景仰してやまない。そして同期生の誇りとさえしてきた。
戦後の君は、敗戦の責任を自らに問いかけ、先ず、終戦の詔勅を謹解して世に訴え、虜囚日記を短歌に綴り、「孫子」の兵法を衍義するなどして、いかにも君らしい浄らかな、しかし実りある余生を送っている。さすがに、ご立派だ。
そのうち、君が耳を患って、筆談で意思を通じあうようになったとき、ぼくは、ほんとうに心細かった。もどかしくもあったが、君がペンをおいてニンマリ笑う、あの虔ましやかなで含みのある眼差しは、そのつど、ぼくの心を強く捉えずにはおかなかった。
君は、どちらかというと“指導型”の尊敬に値する夫子であった。その君が、われわれ同期生の前から永遠に姿を消してしまったので、みんなは失意のどん底におちいった。しかし、君の死はわれわれに、軍人のあるべき一生の姿を浮彫りにして見せてくれた。だから「君は、まだ生きている」と、そう、ぼくは思っている。
残り少ない同期生も、みんな余命いくばくもないが、われわれは君の純粋なまでの生涯の足あとを、これからも追いつづけて歩くだろう。君のたましいも、われわれと共に歩きつづけて、みんなを導いてくれ給え。
ああ、しかし、君は「神」としてではなく生身に親友として、もっと生きていてもらいたかった―――というのが、ぼくたち同期生の切実な声であり、悲痛な願いでもある。
高嶋辰彦君、どうか安らかに眠っていてくれ給え!
昭和53年9月26日

帳幄(ちょうあく)
千鈞(せんきん)
蹇蹇匪躬(けんけんひきゅう)
*大修館 四字熟語辞典 田部井文雄編から。p125
意味:臣下が君主のために心を苦しめて仕えること。忠義を尽くすこと。
構成:「蹇蹇」は悩み苦しむようす。「匪躬」は、一身の利害をかえりみないこと。「匪」は「非」と同じく否定の語。「躬」は、自分の身。
出典:王臣の蹇蹇たるは、躬(み)の故に匪(あらず)<易経>
用例:斯(か)くても寝ても起きても蹇々匪躬の誠を捧げたが<矢田挿雲、江戸から東京へ>
類義語:七生報国(しちょうほうこく)・尽忠報国(じんちゅうほうこく)・擲身報国(てきしんほうこく)・報国尽忠(ほうこくじんちゅう)
*岩波四字熟語辞典  岩波書店編集部から。p195
苦労を重ねて国事や主君に尽し、自分の利害を回顧みないこと。
「王臣蹇蹇たるは躬(み)の故(こと)に匪(あらず)(『易経』蹇封(けんか))から。
王臣が苦労を重ねるのは、自分自身の身のためではない。主君のためである、の意。蹇封の彖伝(たんでん)に「蹇は、難なり」とある。つまり「蹇蹇」は、艱難を重ねる意を表す。

p16  父の映像       高嶋宏昌
この度、父の思い出集を発行してくださるとのお話を伺い、大変うれしく思っています。
私から見た父は一言で言って、ごく平凡な普通の人間であったと思います。・・・
私は防衛大学には受験せず、自分の希望校へ進みました。父は子の内一人は防衛大学の入れたかったのでしょうが、その時受験しろとは一言も言いませんでした。
大学を卒業して、当時無名な小さな会社(株)大沢商会に就職が決まった時、小さい会社を努力しておおきくする方が苦労も多いが喜びも大きいといって、非常によろこんでくれたのが印象的でした。晩年は私の家に来て、好きなコーヒーを飲みながら冗談を言っては大声で笑っている父がなつかしく思い出されます。・・・・・

p18 叔父を偲んで    多賀谷正一良
私の祖父、多賀谷儀三郎には、4人の男子がありました。長男の権之助は郷里を出て武生で本業を相続し三国で建築請負業を、四男辰彦は幼少より神童の誉れ高く、丁度三国在の相川の御出身で当時、桑名の聯隊区司令を努めて居られた高嶋嘉蔵中佐の眼にとまり、幼くして高嶋家へ養子に参り、名古屋の幼年学校に合格し、進学し、のちに叔母の倉子とめあわされました。
私は武生の権之助の長男の正一良です。武生中学、第4高等学校を卒えて京都帝大学宇学部へ進み、在学中に陸軍委託学生となり、終戦時南支野戦病院長をして戦後武生へ帰り、現在、医療法人武生精神病院の理事長として精神病院を経営して居ります。物心がついてから絶たえず叔父を目標として努力して参りましたから、戦死もせずよくぞこれまで参ったのだと思います。
叔父は終始、起居を共にしたのではないから断片的にしか申し上げられませんが、私の父権之助と叔父辰彦とは非常に仲が良く、叔父がドイツ留学中3ヶ年間、叔母倉子さんをお預りした事でもおわかりだと思います。地方幼年学校、中央幼年学校、士官学校、陸軍大学校と陛下より恩賜の品を頂きました時は、我が事のように喜んで何時も自慢して居りました。
陸軍省軍務局軍事課員の時には、武生の小学校へしばしば時局講演に招かれ、また父は国会開催中に軍事課員の叔父の案内で議会の傍聴に出掛けました。
また私が京大在学中は1ヵ月に一度、土曜日には京大学生に為に中央の名士永井柳大郎氏(後の拓務大臣、雄弁家)、中野正剛氏(東方会総裁)、平泉澄(東大教授)等を時局講演会に招聘され、京大生に深い感銘を与えましたが、叔父も招かれ、京大時計の下、法経第1教室での颯爽とした姿が今なお瞼に浮んで参ります。演題は遠い昔で忘れましたが、皆様ご存知の叔父の著書「皇戦」「日本百年戦争宣言」等の要約ではなかったかと思います。当時は夢にも敗戦になるとは考えなかった事でしょう。
私はまた父の命により、中学2年の時には叔父の奈良聯隊中隊長時代、聯隊長だった江藤源九郎大佐宅へ、そして高校2年の時には、徳島聯隊大隊長時代、聯隊長だった辻権六大佐宅へ夏季休暇1ヵ月間厄介になったものです。叔父は自分自身に律すること厳しく、表面は厳格でしたが内では慈父のようにやさしく、時には冗談を言って笑わせたりもして居りました。
終戦後は予め期して居った如く、あまり失望もせず難聴にもかかわらず、防衛研修所等に関係し、日本の将来を憂い自ら筆をとって小冊子を発行し、私達に送ってくれ、医師としての倫理等も教えてくれました。
最後に叔父の一周忌に際しては、先輩閣下、同期生の各閣下等、また部下各位、多数の方々に参列していただき、地下の叔父も嘸かし喜んでくれた事でしょう。ここに改めて御礼を申し上げ、この拙文を揚げ稿を終わります。
•    高島捨太君・・・?タ40p明治人名事典
越前福井藩士 東京英語学校 東京帝国大学選科 米国ヂポー大学英文学 文学博士
高等商業学校教授  夫人は鴻子 4男4女

p70~p75まで【高嶋さんと総力戦  間野俊夫】(全文)から。
陸士2期後輩の私たちの間で、超人的伝説の人があった高嶋さんの部下に私がなろうとは思いもかけぬことでしたが、昭和12年11月に参謀本部付となって、第2課第4班に配属せられ、班長高嶋中佐の指揮に入って直接その薫陶を受けることになったのでした。以後昭和15年12月、高嶋さんが台歩一の聯隊長として赴任せられるまでこの関係は続き、その後も、残された部外の事業に引き続き関与することによって、19年8月私が第1線部隊長として東京を去る時まで、なお直接的な繋がりをもちました。
私は色々の事情から過去の総ての記憶を失い、かつ4年前の脳卒中のため正確な記憶を喪失した半病人でありますので、高嶋さんの足跡を正しく記録的、具体的に記すことができないのは残念です。また関係のあった方々の氏名も、その時期も正確には思いだ出せません。加うるに、総てが大きく変った今の時代において、当事者の思惑も如何かと考え、それらの人々について書くことを遠慮しました。その結果、断片的な記憶――それも私自身に関する心情的な思い出を記述することになりましたことを御了承頂きたいと思います。
この第4班は、通称「戦争指導班」とも呼ばれていました。その正確な任務、権限を知ることはできませんでしたが、固定的、限定的なものではなく、相当自由なものであったようでした。激動する世界情勢、緊迫した国情の中にあって、陸軍省方面では国家動員態勢が着々整備せられ、参謀本部は拡大する支那事変に対処しつつ更に大規模な作戦準備中にあって、既に大本営も設置せられ、万全の戦争指導が求められていた最中です。
もちろん私は攻戦略の枢機に参画し得る地位にはありません。
当初与えられた研究課題は「思想戦」について考えてみようということでした。私は教育総監部にあって2年間部隊用の精神教育資料を作り、東大に派遣されて、教育、社会、心理学を聴講し、3年目の課題に進む直前になって東京陸軍軍法会議の判士の任務につき、その1年10ヵ月の間は2・26事件の背景をなした思想や世相の変転、政治情勢を考えるべき立場にありました。その経験が配属の理由ということを聞きましたが、この間の思索も思想戦の問題として把え、考究するには到っていませんでした。
暫くしてルーデンドルフの「デァ・トターレ・クリーク」を読んでみよと言われ、陸大の図書館にあった翻訳原稿も借り出して読んでみますと、訳文が難渋、意味も不鮮明でしたので、班長に申し出て、翌年正月早々から翻訳に取り掛かることになりました。その折柄、
三笠書房では図書館の翻訳出版が進行中で、原稿の校閲を頼まれた多田少佐から相談を受けました。それは軍事知識のない人によるもので、手の入れようもありません。
以上の事情から高嶋さんは三笠書房と相談せられ、出版社は公表ずみのものを私の訳文と取り換えることになり、私は翻訳の完成を急ぎ、高嶋さんは上司から出版の許可をとり、また参謀本部第2部を煩わして駐独武官室に電報し、著者未亡人から翻訳権を得て、昭和13年4月には発行にこぎつけることができたのです。その書名は一般に「全体戦争」と呼ばれていましたが、高嶋さんの御意見によって「国家総力戦」と名づけられることになりました。目次も「経済と国家総力戦」などとしましたが、文中においては単に「総力戦」と訳しました。この公刊は時宜に適したものとして識者に評価せられ、広く一般にも読まれまして、その時以来「全体戦争」に代って「総力戦」という呼称が定着していったのであります。
ルーデンドルフは、戦争の形態が変わって一国全体がこれに繋り、全国民が参加せしめられるものになったこと、それ故に一国の全分野が相互に関連しつつ武力を中核として一途に組織運用せられなければならぬことを説いています。我々仲間はその論を一応肯定しつつも、研究の進展の間に、世界の流転そのものが総力戦であるという哲学的思考にまで深められ、我々の世界観として育っていったのでした。
当時の高嶋さんの統帥独自の部内活動については窺い知ることはできませんでした。また部外の行動についても、私はその全貌を知っていたとは思いません。そもそも数人の部員全部が――秩父宮様もその一人でしたが、余り室内に居ることはありません。私は高嶋班長かた時々与えられた指令の下にあって、その活動範囲の広範、旺盛巧妙な企画実行に驚き、正直なところウロウロするばかりでした。私は生来反骨的な傾向があり、上官に盲従しない癖がありますが、高嶋さんには終始圧倒され続けていました。
暫くして部外活動として一つの研究室が出現しました。高嶋さんはかねてから、自由主義的、民主主義的風潮に対流している学者と接触されていましたが、その少壮学者の一部を専属の嘱託とし、文部省の「国民精神文化研究所」内に間借して「国防研究室」を作り、同研究所の所員とも交流して日本的な学問の研究が進められ、私はそこでの事務的な役割を担うことになりました。
またある時、高嶋さんのお伴をして銀座近くの小さなビルの一室に行ってみますと、「戦争文化研究所」の表札がかかっていました。その出版物を軍で購入するという形の資金援助も高嶋さんの手によって行われていて、それ等の系統の人々との交流も頻繁になっていきました。「戦文」の要請を受けて、高嶋さんが正味3日の短時日内にまとめあげられた「日本百年戦争宣言」は私にとって驚異そのもので、百ページにわたり欧米の世界戦略、そのアジア侵略の歴史を解明し、最後の防壁――日本の使命を熱烈に説いたものでした。
やがて大阪、東京の商工会議所の理事者に接触し、特に関西経済界から資金の提供を受けることになり、私も度々大阪などに随行しましたが、その結果「皇戦会」が生まれました。先ず東京の青山に洋館と付属家屋を購入し、ここを本拠とするとともに、国防研究室もここに移し、私は新たに皇戦会の庶務、財務をも処理することになり、専らここに通勤することになりました。監査役になった大阪商工会の理事から財務諸表の作成をも要求せられ、簿記には四苦八苦したものです。皇戦会の役員には高嶋さんの同志の軍令部の幕僚、内務省その他の官僚も名を連ね、間もなく理事長として文化的教養の深い予備役の某中将を迎えました。皇戦会を訊ねて来る人も多くなり、学者を中心として、右翼的な人々、中には左翼思想界の大物も見えました。この会の資金の使用には高嶋さんは慎重で、自らは細部に全く手を触れず、その上これらの活動には私財をも出されていたようです。
また、当時「ゲオポリティック」(地政学)を最初に取り上げて活動を起こしていた京大地理学教室とも接触をもち、その活動を支援されました。これら地方の団体との連絡、講演会にお伴することも多かったのですが、そのうちに私も単独で出かけるようになりました。最初は高嶋さんの代理として某大学の戦争研究グループの集まりに出かけることになって、クラウゼイッツやその他の戦争論を読み返すやら、総動員法、統制経済論を勉強するやら、付焼刃をして冷汗をかくなどしつつ、ルーデンドルフの総力戦論を止揚する形において、ささやかな私の日本総力戦論が育っていきましたが、これ等総ては高嶋さんの行動に牽引されていったものであることを思い出しています。
以上のような対外活動で高嶋さんが意図されたのは、日本精神の確固たる基礎の上に国民の思想を帰一強化し、欧米のアジア侵略の意図と戦略をつき、アジア解放の聖戦を強調し、思想戦の強化を計ることにあったのであります。
益々緊張する国内情勢の中において軍部の発言力は強くなるばかり。軍部内において元来高名な高嶋さんを利用しようとして近づいた人も多かったには相違さりませんが、これら多種多様の人々の中には、高嶋さんの誠実な応待、深い学識、説得力ある弁舌、威厳ある温容に接して、その人となりに引き付けられた人も多かったことを確信しています。
しかし、一連の部外活動は次第に省部特に陸軍省方面の目障りとなる面もあったようで、台歩一への転出はその結果だと思っています。高嶋さんは一言もそのようなことは言われませんでしたし、第一線で日本総力戦の理念の実践するのだと雄躍して出征されました。事実、現地での状況を躍動する筆致で時折知らせて下さいましたが、その御出発後間もなく某青年将校の起した事件に関連して、私は二度ばかり陸軍省軍事課に呼び出され、課長、課員に取り囲まれて色々聴取された際の状況から、以上のことが明瞭に察知されました。
高嶋さんは軍中枢部の軍政、統帥の帷幄に参画した知能として一般に知られ尊敬されていますが、しかしそれにも増して第一線部隊長として、また外地戦場での軍幕僚としてのご活躍には、余人をもってしては代え難いものがあったこと、それらの地位にあって聖戦の遂行を念願して総力戦を実地に展開されたことによって、私は高嶋さんに対する敬仰の念はいよいよ増していったのです。
高嶋さんが出征された翌昭和15年には、内閣に「総力戦研究所」が総理官邸横に設置せられ、各省及び商社からも課長級が所員として任命せられ、また同様方面から係長級の若手が研究生として集められ、各分野の知識の獲得と研究が1年間にわたって行われましたが、第2年度の始る17年3月に私も教育総監部付から所員に任命せられ、日本戦争論を説き、思想戦を研究しました。やがて戦局いよいよ急を告ぐるにいたって、18年12月には総力戦研究所も廃止せられたのです。
結局は敗戦に終わったあの当時のことを書くことは空しいことながら、高嶋さんを中核とする総力戦の研究、実践の輪が広がり、国民の思想、国家の施策にも少なからぬ影響を及ぼしていったことを知って頂こうとしたのですが、力及ばず、こような拙いものになってしまったことを、高嶋さんにも皆様にもお詫びします。

皇戦

皇戦会の設立と、左翼思想の大物との交流と、「自由主義的、民主主義的風潮に対流している学者と接触されていましたが、その少壮学者の一部」とは理化学研究所の仁科などを指し示すということか?ならば原爆組だ。

p74
高嶋さんが出征された翌昭和15年には、内閣に「総力戦研究所」が総理官邸横に設置せられ、各省


p147    鳥居は中国にあったか      河野 収
「鳥居は、中国にあったか」
ある時、高嶋先生が淡々とこう言われた。私はこの言葉に仰天した。私の散漫な生活態度の欠陥を、鋭利なメスで抉られた思いがしたからである。
何時頃、何という本から得た知識であるのかは覚えていないのだが、私の記憶の底に、稲荷信仰や八幡信仰が大陸伝来の文化を基礎としている、という内容があった。戦中と戦後に中国に行ったことがあるけれども、鳥居を見たという記憶は、全く無い。というよりも、現代日本文化の重要な源流の一つである中国文明と、日本の精神文化とのつながりを、鳥居という物証で確かめようとする着想が浮んだことが無かった。
高嶋先生が、どのような意図でこの質問を投げかけられたのかは承る暇はなかったが、この言葉だけで、私の心に痛撃を与えるのに十分であった。真実を探求するためには、それを解く鍵の発見がきわめて重要であることを、指摘された気がした。
昭和50年3月から小1年、毎月1回、黒田善治氏を講師としt「孫子研究会」が行われた。たまたま、防衛大学で「孫子」を講じていた私は、幸いにもこの研究会に参加する機会を得た。この研究会は、「孫子」自身を分析解明するものではなくて、「孫子」をその周辺のあらゆる角度から観察考究してゆくもので、黒田氏の該博な知識と俊敏な発想力、メンバーの熱心な討論参加により、私には、多くの貴重な研究材料が得られた。
私は、この研究会で初めて高嶋先生の謦咳に接し、ご指導を頂いた。私は、陸軍士官学校の52期生で、6年半程軍務に服した。ことに最後の1年ばかりは茨城県の沿岸守備に当たっていたので高嶋先生の御高名は承っていたけれども、第1線の部隊勤務ばかりしていたから、お眼にかかることは無かった。
戦後、高嶋先生が、陸上自衛隊幹部学校で「孫子」を講義されたことがあると聞いたが、私は陸上自衛官として勤務していた21年間も、ついに先生にお眼にかかる機会が無かった。私は、軍人の先輩として、また、孫子研究者の先達として、先生の名に一種の敬遠したくなるような畏敬と、何か求めたいという親近感との矛盾した感じを長く持ち続けていた。「孫子研究会」に参加させてもらったことは、僅か1年足らずの期間であったが、貴重な研究資料が得られただけではなく、高嶋先生に接したことで、私の人生に大きな収穫をもたらした。
収穫の一つは、事物の探求に当たっては、観察の鍵の発見がきわめて重要であることを改めて確認したことである。・・・・・

「鳥居」の語はその一例であるが、その日珍しく多弁であった高嶋先生は、「情報(先知)は、最高の権力、謀略要素、あらゆるものの基礎である」とも言われた。私も情報部長を勤めたことがあり、情報があらゆるものの基礎である、という認識は持っていたが、「最高の権力」という表現には初めて接した。また、次の御発言もあった。
「兵法・兵学は、人間が個人を守るところから発している。だから、医学者には兵法が良くわかる。日本には個人の兵法があった。だから日本の軍隊は強かった。個人主義の上に、集団の力がある」
「日本は狭く、資源も乏しい、切迫度が外国よりも強い。その必要に迫られて新しいものを取り入れ、その結果強くなった。しかし、社会的に積み上げてゆく努力が少ない」
「現在のアメリカのベトナム政策は誤りである、と言うのだが、なかなか直らない」

p6    神の申し子   稗方典彦
「高嶋は偉かったよ。同期の者が如何にがんばっても、何時も1番は高嶋だった」
と軍刀組だった参謀本部十数年のA少将が語り出せば、隣のB大佐は、「もう少し早く東京に呼びもどせば、日本も変わったろうに」と終戦直前の話。
「もう少し生きて歴史の裏面史と将来の指導書を書いてほしかった」とC大佐。
聯隊長の親友で、あの有名な桜井徳太郎少将の話では、
「30期600名中第1次6名陸大へ進んだが、高嶋は常に1番で秀才は飛びこして天才だったよ」と。陸大卒業後のことも色々話して居られた。
これは御通夜の応接間における陸士30期の人々の思い出話でした。
30期の方々は今なお130名御生存とのこと、御通夜10数名の同期の方々は80歳を越えられたとは思えぬ仲々の元気で腰の曲がった人は一人もない。
一般社会では高齢ですが、旧軍人社会では、まだ老人には入らないのでしょうか。20数年も若い我々より若く見える人々も居られた。
でも、九州関西より80歳の人々が御通夜、葬式に10数名も出席されたのには、びっくりしました。本当に仲がよかったのですね。10年前京都の30期会に同行して知っては居りましたが、代表の方の弔辞の深い深い友情には改めて感動させられました。
聯隊長の魂も喜んで居られたことでしょう。30期に比べたら参列も少なかったですが、御通夜に(森=福岡、中村=奈良、稗方=大阪)葬儀には(以上3名と共に東京の小野、関谷、中村夫婦、鳥井、重吉)が海南島時代の部下一同を代表して別れを惜しみました。
森会長の弔辞のとおりです。
本当にもう少し生きて居られたらと、でも、われら一同は聯隊長の魂を受け継いでゆくつもりです。
どうか神の国より見守り御指導下さい。
奥様はお淋しいけれども、ご令息も立派に独立され、お孫さんも大きくなられたことだし、御家族は御心配ないと思います。
どうか安心して御昇天下さい。
御親類の話では、誕生初詣での時、神前に供えた神酒が宮司さんが祝詞をあげている間に空になったとのこと、
「こんなことは初めてだ。この子は神の子だ」
と宮司さん、びっくりしていたと。どうも神の申し子であったようで、再び神の国へ召されてゆかれたのでしょう。
個人的にも本当に御指導ありがとうございました。復員後、薬王寺町の応接間で色々歓談長時間になり、遂に泊まること2回。
関西では、奈良地区5日間、30期会、自衛隊その他京都、大阪と通訳のお供度々。
よくドイツ生活の話をして居られた。大阪・梅田の喫茶店で、
「ドイツのコーヒーはこうして飲むのだ」
と微笑んで飲まれた。
天国でもコーヒーありますか?ドイツ式で、飲んで居られますか。
あの御逝去の報を聞いて新幹線で上京中、車窓に大きく独特の微笑まれた顔が現われ、約30分間。何か話したかったのでしょう。
――――でも最後まで一言もなく、富士方面へ――――「サヨーナラ」
魂は永遠に我々を指導して下さることと思います。

p83    高嶋さんと会った初めと終わり   小島威彦
高嶋さんと初めてお目にかかったのは、たしか昭和14年の春だったと思う。文部省の国民精神文化研究所(現在の国立教育研究所の前身)の会議室であった。当時参謀本部の戦史研究課長(私の不正確な記憶のため間違いかもわからないが)の高嶋辰彦中佐が間野少佐を同伴して来訪され、私たち研究員と懇談したいということであった。おそらく、日支事変後の緊迫した諸情勢に対処すべき諸問題にためからであったろうと思う。その頃研究室は今の目黒の迎賓館の裏、つまり朝香宮邸と海軍大学との裏にあたる閑静なところにあったが、その静けさとは裏腹に、日本の直面している諸問題に関する議論のたぎっているるつぼの中にいるようなものだった。
昭和12年の夏、日支事変が勃発してから満州事変後の内外の荒波にまして、日増しに日本列島に打ちつける怒濤は、何らかの決定的行為を要請していた。私は日支事変のニュースをベルリンで聞き、ナチス・ドイツが戦争準備としての総力戦的体制を着々と整えつつあった思想的運動を目前にして、帰国して間もない頃であった。2・26事件、日支事変に続く数年間は、ナチス・ドイツと日本の接近、日独伊枢軸論の展開のなかで、日本の陸軍い占めていた姿勢は異常な混沌さを呈し、陸海軍の対立、陸軍内部の諸矛盾、軍民の妥協と反目、国内における反枢軸と親枢軸、保守と革新、平和と戦争といった対立抗争の渦中に全日本が巻き込まれていった。何が生起しつつあるのか、何が真に考えるべきことなのかに対する透徹した思想は、侃々(かんかん)たる雑踏に比べて寥々たる乏しさであった。
そうした状況下で、私たちは高嶋大佐を迎えた。―――はるか後に知ったことであったが、大正時代の京都帝大のドイツ文学の異才と謳われていた助教授、成瀬無極先生(当時私は西田幾多郎門下の哲学学生だった)と、戦後慶大の独文研究室でお会いすることになったが、偶々同先生は定年後、慶大の独文主任教授であったために、日本ゲーテ協会がその研究室に仮移転していたのである。
何がきっかけで高嶋さんの話になったかは全く忘れてしまったが、成瀬さんが京大の助教授時代、つまり私の学生時代に、当時京都の伏見聯隊(たしかそう記憶しているが)に属していた高嶋さんが、ドイツ留学のためにドイツ語の陸軍委託学生として成瀬さんの指導下にあったが―――あんな秀才には、その前にも後にもお目にかかったことがないと、高嶋さんを懐かしそうに繰り返し述懐しながら「一度あってみたいな」と意っておられた。
その再会の機会を作りたいと思いながら遂に果しえなかったことは、成瀬さんに対しても高嶋さんに対しても、心残りなことになってしまった。
当時、高嶋さんと初対面の頃はそんなことは露知らず、いかめしい、しかし、麗々しい参謀肩章をつけた、秀逸な、しかし諧謔に富んだ高嶋中佐は、開口一番次ぎのようなことをにこやかに話し出した。「今日の諸問題のみではなく、日本全体の最も本質的な問題に関して、御教導いただきたいと思って参上しました。日本の根底的な考え方や文化のあり方に関して御教示を仰ぎたい」
私たちは当時軍の中枢にいる軍人と公の席で議論する機会はほとんどないばかりか、ヨーロッパ各国とは違って日本の大学には戦史の研究が皆無であっただけに一層、緊張した雰囲気のなかで、高嶋中佐を迎えたのであったが、その人物から出てくる考え方や志操に接して、やや意表をつかれた形で、一同しばらく静まりかえった。私は若輩を省みず、まず質問したいといって、次のことをお尋ねした。
「日支戦争と言わず、なぜ日支事変というのか。堂々と宣戦布告をなしえないような事変と呼ぶのは、恥ずべき戦争の奇形児か、代用品の事を呼ぶのであろうか。あるいは広大無辺な支那大陸を、猫も杓子も身に一片の防備もなく、あまりにも民主主義的に一律に動員し、古色蒼然たる鉄砲を担いで幾年も歩き回るような愚かしさを事変と呼ぶのだろうか。かつて日本の武士は、鎧兜に身を固め、名乗りをあげて戦ったのではないのでしょうか」
まるで盲人蛇に怖じずといわれるように、私は自分自身の声魂に励まされて相手構わず、ナチス・ドイツの総力戦的思考の問題や方法、あるいはビィクトリア朝のイギリスの植民地戦争における拠点連繋主義―――ちょうどギリシア・ポリス国家時代における海洋圏の都市同盟(ポリス)のごとき―――歴史的問題や形態と、日支事変における大陸無限歩渉形態(中国大陸を限りなく歩兵が鉄砲をかついで歩き回ること)との比較論などを、日本大陸軍の逸材を前にしゃべり出したことを、今改めて恥ずかしくも、また懐かしく思い出さずにはおれない。
高嶋さんは私のごとき青二才がしゃべるのを、終始にこやかに聞き終わって「あらためてゆっくり御高説を伺いたい」と言いながら他の所員たちと万遍なく話しあい、丁重な謝礼お述べて帰還された。この初対面の高嶋さんを忘れることは出来ないが、それからお目にかかるにつれ、その深い愛情と広い展望に照らされた高嶋さん独特の世界観と歴史認識の卓見にみせられていった。この昭和14年より16年の2ヵ年間の高嶋さんとの充実した係わりあいに関しては、他の機会に割愛せざるをえないが、戦争論を中心とした日本世界史論や、総力戦的動員論や戦争文化論等の討論を重ねながら、高嶋大佐を迎え、やがて大東亜戦争とともに第16軍参謀として出陣されたことを知り、そして高嶋少将として再び日本でお目にかかることとなった。
しかし私は、大東亜戦争に突入して間もなく、昭和17年春、支那事変即時撤兵論、蘭印、印度植民地解放後即時講話論を唱えて憲兵隊の逮捕に合い、警視庁の留置所から巣鴨の拘置所、それから春日町の区裁判所における3年刑並びに3年執行猶予の判決となって、あらゆる職務、研究発表から身を引き、山陰で疎開生活を送ることになった。その18年に、高嶋さんは満州の牡丹江に赴任され、山下奉文大将の下で関東軍の第3軍の要職に就かれた。私は偶々、その地の高等裁判所所長の西尾極が私の高等学校以来の親友であり、彼の招きも重なって、その年の晩夏に牡丹江を訪れた。既に太平洋戦争はその進退の時期を失い、東條対山下の決定的な不幸の瞬間を迎えようとする時期であった。私は久しぶりにお会いすることのできた高嶋参謀長と共に、山下司令官に会っ時、同大将は私の講話論にこう答えられた。
「はや雷鳴は轟き、落ちるべき時に落ちるよ」
これが、高嶋さんと戦争中にお会いできた最後であった。
その年の初秋、私は関釜連絡船で日本の土を踏み、疎開地の松江に帰ったから半年後に終戦を迎えたのであったが、牡丹江の西尾はソ連に連れ去られて殺されたという話を耳にし、痛恨堪え難かったが、高嶋さんは首都防衛の苦難の重責を果され、幸い御健在なるを知りえた。私は終戦パージに会いながら、23年に東京に舞い戻り、稀ではあったが、戦前の友人たちと共に高嶋さんを迎えて相寄る機会に恵まれた。しかし、残念なことには、高嶋さんの耳は日増しに遠くなられ、あの昔の豊かな機智に接する機会は少なくなってしまった。46年の晩秋、友人30余名、千葉の外房総御宿(おんじゅく)に相集り1泊の上、思い出や将来の談論に花を咲かすことができたのが最後となってしまった。ちょうどアメリカがキッシンジャーを国務長官に迎えたばかりの頃で、早速待望の高嶋さんのキッシンジャー政策批判を拝聴することができたが、その時もそうであったが昔から終始少しも変わらず、私より8歳年長の兄のようでもあれば、また父のようでさえあった。私の稚拙な議論にもいつも傾聴を惜しまれず、まるで自分の愛弟の成長を楽しんでいてくれるように温愛をかんぜずにはおれなかった。ところが、3年前に私が肺結核を患い、東大医科研の結核病棟に入院した後軽井沢の山で養生生活を送っていた夏の日に、高嶋さんの永眠の悲報に接してしまったのであった。なんと悲しい寂滅の感慨であろう。
近くなれば近くなるほど遠く
遠くなれば遠くなるほど近い
と詩人は教えているが、その真実を今一度深く感じながら、もはや遥かなる高嶋さんと、むしろ一入間近に語り、もはや再び相見えることのできないその風格を、今こそかえって間近にしることができる思いで一杯である。
(明星大学教授)
昭和56年1月17日    東京にて
•    注:この小島威彦の御高説の中に「古色蒼然たる鉄砲を担いで幾年も歩き回る・・・」と云う発言は、小島直記の「まかり通る 電力の鬼・松永安左エ門」にも登場する。小島直記は“慶応義塾が無謀な戦争を強行していることに、対して世論が怒っている”として、市民が慶応義塾に抗議した言葉が「古色蒼然たる鉄砲を担いで幾年も歩き回る・・・」であるから、小島威彦と小島直記は親族関係に在る訳だ。そして、小島威彦はこの追悼文の中で、当時小島威彦自身に向けられていた、批判を自分の意見にしている。小島威彦の性根が曲がっていると云う証左である。

p36    皇戦会と高嶋さん      藤田  清
最初の出会い
それは昭和11年の7月12日のことであった。その年には2月26日にいわゆる2・26事件があり、まだ東京には戒厳令がしかれていた。暑いさ中辿りついた西荻窪のお宅で、高嶋少佐から先ず聞かされたのは、今事件関係に死刑が執行されたという電話の知らせを受けたところだということであった。大津の師範学校で平穏な教師をしていたわたくしとって、それは全く衝撃であった。その日どんな話があったのか今はほとんど記憶していない。ただも本居宣長のことが話題になって、国学の研究所をつくりたいなどということをいったような気がする。しかしこの出会いが縁で、わたくしは間もなく昭和13年3月参謀本部嘱託となって上京した。
参謀本部時代
参謀本部嘱託時代には高嶋先生はすでに中佐で戦争指導の中心的な位置についていた。わたくしなどはその指揮下にある青山4丁目の国防研究室で研究に従事することとなった。何もかも新しいことばかりで全く落着く暇はなかった。
研究室は当時の中心的課題であった国家総力戦について少壮の軍人や学者を研究員として研究しており、軍の諸学校はもとより、出来れば一般の大学などでも議論できる程度の教科書をつくりたいというような話であった。
わたくしなどは研究室の議論をまとめる役を仰せつかったため、朝早くから晩遅くまで整理に追われ、肩をこらして指圧の治療院に通った程である。しかしこの研究でまとめた意見は戦時中には大きな影響を各方面に及ぼしたことであった。
高嶋先生が海南島の聯隊長に転ぜられた後、研究室はそのまま残って、わたくしどもは軍の将校養成の学校で使用する中心科目としての皇国学の要綱を作ったりした。
今考えてみると、わたくしなどその後の研究の根底はこの時期に得たもので、その多くを先生から与えられたような気がする。戦後わたくしの研究の中心となった聖徳太子に関することも、研究所で世界一体史執筆中、日本の指導者の中で典型的な総力戦指導者を求めて太子を考えるに到ったものである。
「皇国学」の要綱のごときはわれわれの研究室が高嶋先生の志をついで、これを全陸軍に及ぼしたいという念願に基づいて編集したものである。
今これらの研究作業を通して、高嶋先生を始めわたくしどもの考えたことをまとめてみると略、次のごときものであろう。先ず、一切の存在はその根底において対立し闘争するような性格を持っている。武力にしろ、政治力にしろ、経済力にしろ、それらは総力戦、政治力戦、経済力戦とでもいうべきものであるとせられる。
わたくしどもはそれら諸総力戦の中心に武力総力戦を考えた。それは、武力は直接敵の生命を指向するからに外ならない。この意見は高嶋先生がベルリン大学留学中に得た統帥権研究の結論であったが、帰朝してからまだ政府に報告してないということであった。
皇戦会
戦時中に高嶋先生について語ろうと思えば皇戦会を語らねばならないし、わたくしが先生に接触したのは主として皇戦会時代なのであるから精しく知っていた筈であるが、今あらためて考えてみるとどうもハッキリしないのである。皇戦会は国防研究室の外郭団体なのであり、皇戦会と国防研究室の関係は二にして一とでもいうべきものなのである。国防研究室の職員は参謀本部嘱託であり、直接に皇戦会に関係したのは高嶋先生と間野少佐(当時)位のものではなかったかと思う。しかし国防研究室の研究は皇戦会と極めて密接な関係があり、しばしばそのまとめ役になったような気がする。特に皇戦会と密接な関係があった中で、仲小路影先生の世界歴史研究グループ小牧實繁先生の日本地政学研究のグループとが一番印象に残っている。その外にもいろいろのグループや個人で密接な接触のあったものがあったが、わたくしは余り関係していない。中にはわたくしにはいかがわしくかんじられるものもあり、先生との接触を断とうとして却って迷惑をおかけしたこともあったようだ。
ただ皇戦会の様な組織についてそれの全体を書くことは今となっては極めて難しいことであろう。しかし余り窮屈でない、研究もし実践もする皇戦会のような組織は極めて便利な組織だったと思う。その経済面のことは関係しなかったのでよく分らない。先生が時々洩らす言葉から推察するだけであった。しかし、青山の国防研究室が皇戦会の本部でもあったため、皇戦会の理事長は元の16師団長中岡弥高中将で、よく研究室に見えられた。昼食時には会食するのを常としたが、中将はお若い時にフランスの駐在武官をせられたため、お話はヨーロッパのことが多かった。先年二度にわたってヨーロッパ旅行した際、パリで昔承ったいろいろな話を思い出した。先生には旅行記を読んでいただいたが、中岡中将にはもはやそれも叶わなかった。
終戦
昭和20年の8月初め東部軍司令部へお訪ねした時、何となく落付かぬ様子に見受けられたので、帰宅して当時わたくしの所属していた教育総監部第3課の去田元久課長に戦争終結時における軍の思想指導に関する意見書を出してから関西方面へ出張した。内容については固く口止めされていたが、出張途中原爆投下のことを知り、ついで終戦のことを知った。
出張から帰って18日東部軍に先生をお訪ねしたところ、今から東部軍の将校に出す訓示を口授するところだから聞けといわれたので承った。その内容は一々覚えてはいないが次のことは今も的確に記憶している。
「今が敗北にうちひしがれているけれども、よく考えてみれば米ソ関係はいつまでも現在の様に密接にゆく筈がない。資本主義と共産主義は遠からず対決する。その時には米国は必ずや日本を支援して軍を味方に引き入れるだろう。何となれば日本軍の力を知るものは日本軍と戦った米軍である。何れ時がたてば日本軍を高く評価するに違いない。日本の再建の時は必ず来る。その時こそ諸君に働いて貰わねばならないのである」
大体以上の様な訓示であった。今でこそ極めて当たり前の内容だが、終戦直後、宮城前で若い将校の自殺が相次ぐような時、こうした意見を聞くことができたのは今でも幸福だったと思っている。
民防の時期
戦後も先生の御指導を仰ぐことが多かった。特に四国の一隅で、講演料を稼ぎながら宗教運動を続けるわたくしにとっては、時々は東京へでて時代の転変を知る必要があった。そんな時は必ずお訪ねして御意見を承ることを常とした。また新聞で見たことで理解しがたいことなどについて御意見を仰ぐことも多かった。
そのうちわたしが十河信二先生のお世話で大阪に出て聖徳太子会を設立した時には、高松宮様にお引き合わせ下さるなどいろいろお世話になった。しかし何よりも大きく影響されたのは民防運動を教えられたことであった。
宗教運動として聖徳太子1330年御遠忌法要も終わり、運動の反省として寺院を頼っての宗教を断念して次の運動を模索している時のことであった。アメリカのシビル・デフェンスのことについてお話を承った。これならアメリカにもあることだし、むしろ援助してくれるのではないかという。わたくしも念願の愛国運動として、また聖徳太子の大和精神の実践としてこれこそそれと信じて民防運動に着手し、後には先生を顧問にお願いした。この運動には海軍の野村吉三郎大将が会長となり、木崎為之弁護士が委員長となって昭和20年期の民族運動の最も顕著なるものとなった。しかし幹部間の不和等から急速に衰えてしまった。 ただ先生は、陸上自衛隊の設立に中心的な活動をせられたところから、こうした在郷軍人的な活動にも深い関心を持たれ、度々講演会、座談会にも御出席をいただいたことであった。
四天王寺学園
幹部間に意見の相違のためわたくしは民防を去る決意をしたが、しかし生活費にも困窮する状態であったため取敢えず何らかの方法を考えねばならなかった。そのことを心配して先生が大阪に来て奔走して下さったことは今にありがたく思っている。しかし当時のわたくしは窮してはいたものの初心を貫きたい一心から、最も悪い条件のもとで四天王寺学園に就職することになった。
四天王寺学園に就職してからは先生にお目にかかる機会も少なくなったが、一度お願いして座談会を持ったことがある。その折の印象は余りハッキリしたものがない。恐らく共通の話題が乏しかったのではなかろうか。
ただ四天王寺学園に来てからのわたくしの研究も、よく考えると参謀本部時代以来先生から教えられたことによるものが多い。特に今わたくしの主張している応用仏教学のごときは、先生の皇戦を裏返しにしたもののように思われる。
例えば皇戦は戦に根底を置くが、応用仏教学は縁起観に立脚する。物には対立面と縁起面とがある。教育の場で言えば、教師と生徒とは別の存在であって対在している。しかしよく考えると教師は生徒によって教師なのであり、生徒が無ければ教師もまた無い、そこでは教師と生徒は切り離せない。お互いに縁りて起こるものである。戦前のわたくしの研究と戦後のそれとは聖徳太子を軸にしながらそこに大きく変化している。その変化はこの35年間にわたくしどもの歩んだ道程なのであろう。
終わりに
高嶋先生、わたくしはこの文を通して先生とお呼びしたが、親しく“高嶋さん”といった方がよかったかも知れない。しかしわたくしの心に残る高嶋さんは、ほとんどがわたくしが学んで来た先生としてであって、もとより高嶋閣下ではない。わたくしは戦時中はひたすらその所説に従って皇道を説いた。戦後もその所説を更に追究して今日に至った。ただその主張は必ずしも一つではない。特に戦後民防以後は大きく離れて来た。しかし耳のお悪い先生と議論するわけにもゆかず、さりとて筆談でも意を尽くさぬ。先年十河先生にお目にかかった時、
「高嶋さんはどうしているか」
と訊ねられた後、淋しそうに、
「筆談ではね」
といわれたことがあった。
この文を草した後、回顧してみればわたくしも既に73歳の老人である。冥界に会する時も亦遠くないことであろう。

p53     慈父に抱かれる思い  大熊延之
報徳会
現代の混乱と終戦史観(正義日本の勝利)   昭和50年10月5日
教育勅語現代謹解の要旨 報徳家庭の友 昭和40年10月10日号付録
内外恒久対策と教育勅語   昭和46年10月30日 勅語 発81周年記念
故佐藤堅司博士作 孫子百首  昭和39年12月15日 私学会館地球社忘年会にて
東洋兵学特に孫子とその現代的意義  昭和42年7月27日講
昭和16年3月北海作戦  陣中吟詠 18首 昭和39年7月27日

p55    皇戦について    鈴木勇寿
高嶋さんが陸軍歩兵中佐参謀本部部員時代にお書きになった。昭和13年12月5日発行の「皇戦」という246ページにわたる著作出版物について若干触れてみたい。
実は、聯隊長と私との初めての触れ合いは、昭和13年12月中旬この「皇戦」を通じてのものである。当時、私は陸軍士官学校歩兵科士官候補生として、同年12月下旬の同校卒業を前にして卒業試験や何やらの準備に多忙の最中、校内酒保の書店で「皇戦」を見つけ、早速購入してむさぼり読んだことに始まるが、当時支那事変勃発以来1年半になり、事変の意義や皇軍の使命など同書で教えられること絶大であったことを思い出している。
同書の趣旨はまことに明快で、わが国の特徴を基盤として、支那事変を経済的には「近世資本主義の特徴の一たる世界経済と、革新勢力(注・新秩序勢力――筆者)に依りて代表せらるる自給自足経済との勝敗を決すべき経済戦争である」(同書)と規定され、それに皇道総力戦体制を組み込まれたものである。
これは、昭和初頭の世界経済大恐慌から脱出策として、先進各国が自国市場圏の各ブロック拡大化をはかり、(それが第2次世界大戦の大きな原因となったと思われる――筆者)わが国の市場が次第に圧迫縮小の運命にあったのを、それを断固として排除し、東亜の自給自足圏(後の大東亜共栄圏思想につらなるが、同書にはまだこの大東亜共栄圏の字句は見えない――筆者)をつくり、東亜ブロックの共存共栄をはかることに支那事変の意義を見い出されていることで、当今流布されている中国への侵略戦争云々の見解とは全く異なった論理にたつものであったと思われるのである。そして、この事変を遂行するに当たり、わが国もまた「存亡興廃の岐路」に立たされることを予見されており、今にして思えば、まさに予言的中と感心せざるを得ないのである。
1980年代の入り口――80年代はわが国にとってあらゆる方面での大激動が予想され、わが国の特徴(国体と言うか)を踏まえての進路が改めて問われる時、われ等の敬愛してやまない高嶋聯隊長の著書「皇戦」について、まことに理解足らずの見解を発表し、御冥福を祈るとともに先輩各位の御批判を得たいと思うものである。
(元台歩一・中隊長)

p25  先輩のお人柄   福永康夫
高嶋さんは、私の陸士卒業と共に当時旅順に駐屯していた歩兵第38聯隊中隊付として、しかも営内宿舎に隣り合わせで起居を共にしてから今日まで親交を続けている1年上の大先輩である。その人格、高潔、識見高邁、誰からも敬愛されていた。・・・中略・・・
終戦後戦犯容疑者として巣鴨に収容せられたり、シンガポールまで護送されて取り調べられたが、その戦時中の行動と、理路整然たる申し開きと、当事者の人格に打たれていた外人の弁護もあって、不起訴として帰国したことも、その人柄の一端を示している。
(昭和53年9月1日故人となられた)
諧謔(かいぎやく)
寥々(りょうりょう)
編者履歴     森 晴治
本籍は長崎県彼杵。台北一中、台北医専卒業。昭和14年12月台湾歩兵第1聯隊付軍医として南支派遣、賓陽・武鳴作戦、海南島、仏印作戦、比島・ジャワ作戦、チモール島防衛、マレー半島に転戦。昭和24年以来内科開業、剣道3段、医学博士、勲4等瑞宝章。著書に歌集「玉の緒」「戦塵」第1線軍医従軍記。

2、日本百年戰爭宣言
參謀本部部員 陸軍歩兵中佐  高嶋辰彦著
戰爭文化叢書  第一輯
•    原書は右から左書きの旧字体
昭和十四年二月五日 印刷
昭和十四年二月十一日 発行
定価四拾銭
著者 高嶋辰彦
東京市麹町區有楽町壹丁目四番地
戰爭文化研究所
発行人 清水宣雄
東京市麹町區有楽町壹丁目十四番地
印刷人 中村伯三
東京市麹町區有楽町壹丁目十四番地
印刷所 株式会社 大參社
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東京市京橋區銀座西五丁目五番地
菊地ビル内
發賣所  世界創造社
電話銀座 (57)三五四六
振替東京 一一六一四二番

1新世界を創造すべき百年戰爭
夙(つと)に我れ等の豫想せし長期戰爭の段階に入った。所謂東亜の再建、アジアの復興は即ち同時に溷濁(こんだく)極むる近世を轉換して、我が皇道に即する新しき世界の創造を意味するものなることを覺悟しなければならぬ。蓋し、近世に覇たる西歐の繁榮は、アジアよりの搾取に依つて培(つちか)はれ、その世界制覇は東洋植民地侵略に依つて成ったが故である。即ち支那事變の解決は、同時に史代的世界轉換を結果するものでなければならなにぬ。これがため、萬民悉くその總てを 天皇に獻げ歸一し奉る戰こそ、筆者の力説する皇道總力戰即ち皇戰なのである。
歴史は教ふ、かかる大業の遂行には少くも一、二世紀の歳月を費すべきことを。かくして我れはここに、光輝ある皇道維新百年戰爭の征途に立つ。今こそ國の總力を擧げて、人類史上その崇高世界に類なき皇國日本の眞諦(しんてい)を究め、全世界の局面に於ける總力戰略とその機構を確立して、これが著々たる遂行に遺漏(いらう)なかしらしむべきの秋である。かくして始めて、興亜の聖業に捧げられつつある尊き諸般の努力、即ち蒋介石軍に潰滅(くわいめつ)、更生支那の建設、對ソ國力の擴充(くわくじゅう)等の業績(ぎょうせき)をして、大局的な永勝せしむることを得るのである。
抑々我が國が日露戰爭に於て全世界の豫測を裏切り、當時世界最強と號せし露國の大陸軍を粉碎したることは、顚倒(てんたう)せられたる亜歐の世界的地位を舊に復し、新しき秩序の上に創造せらるべき世界建設の端緒(たんしょ)となった。次いで起りし歐洲大戦に因る彼れ等列強の共倒れは、近代物質文明の暴威に依る世界植民地強奪に於ける矛盾悪業の自己曝露であった。この必然にして且つ皮肉なる出来事に因り、秦(たい)西近代文化は日に月にその没落的運命への歩みを速(はや)めたのである。マルキシズム、延いてコミンテルンの赤色世界革命の企圖は、近世の欺(ぎょん)瞞世界に關する深刻なる疑惑を喚起(くわんき)し、剩(あまつさ)へ狹隘(きゃうあい)なる歐洲の地より半の疆域(きょういき)と二割の人口とを拉(らつ)し去って、亜歐何れか不明なる謎の世界を成立せしむると共に、自らも亦掩(おほ)ひ難き幾多の内部矛盾のため、暗く血腥い(ちなまぐさ)きスターリン獨裁の中に、逐日その悲劇的運命を曝しつつある。
満洲國の建國、國際聯盟の離脱及支那事變1年有半の聖戰を經て、將に成らんとする更生新支那の建設は、皇道世界維新原理に基く東亜生命體構成の堂々たる歩みに外ならぬ。理念の體系整備を待つ迄もなく、肈國(てふこく)以来我れ等に課せられたる天業恢弘 (てんぎゃくくわいこう)の大使命は、今や著々として実践の歩武を進められつつあるのである。この間歐洲に起こった獨伊の新興政治原理は、辛くも歐洲文化復活のため、一道の光明を見出しつつある。ここに、我れ等は新世界創造の戰に一翼たるの同志を得て、日獨伊防共協定は結ばれ、東西相呼應する緊密にして強力なる共同戰線は張られた。然るに、歐洲はこれがために遂に一層深刻なる内的分裂、相互對立を示すに至り、その餘波は最も深刻に地中海圏に、東南歐に、アフリカに、西南アジアに、而して今や南米に及び、憐れなる近世被壓迫民族は、歐洲内訌(ないこう)の犠牲として、再びその數奇の運命を弄ばされている。かくして來るべき世界武力戰の勃發は、正に目睫(もくせう)の間に彷徨(はうくわう)せるの感すらある。ここに全世界は、更に新しく、而して最も高き原理體系に依り一日も早く救はれなければならぬ。世界の民生は皆切實にこの救世の旌旗(せいき)を憧れ望んでいるのである。
之れを歴史に尋ね、之を現實に照らし観るに、神勅に基いてこの救世の大任を負ふは、實に我が國を措いて他なきを自覺しなければならぬ。天地開闢以來窮りなき一系の 實作、
萬邦に比類なき高き傳統の理念、綿綿たる 皇統を中心とし質直なる民族に依って傳へられ、清雅(せいが)なる風物に依って培はれ來りたる偉大にして進展窮りなき文化、皇軍武力を中核とし盡くる所を知らざる總力の神秘、而して天地とその道を共にする公明正大なる實踐等、一として之れが實證たらざるはない。ここに、日本的なるものの再組織、新しき研究によってのみ、世界建設の唯一の方向は指示せられ、世界的なるものは悉く日本的把握によって、始めてその本質を明確に認識し得ることを知る。近世世界史は、今や日本を根軸(こんぢく)として輝しき轉換(てんくわん)を見んとしている。支那事變はかかる歴史的契機として必然に勃發し、境界なくして直ちに新世界創造の百年戰爭に連つたのである。

天業(てんぎょう):天のわざ。天帝の事業。転じて帝王が国家を治めるわざ。また、天皇の政治。読本―雨月物語(1776年)白峰「
恢弘(かいこう、恢宏):広く大きくすること。事業や制度、教えなどを世に広めること。恢廓。教育令制定理由(1879年)文部省上奉「世道の昭明を賛襄するは、教育を恢弘するに在り」
北原白秋の詩:天業恢弘―

二 近世アジアの荒廢
我れ等の熱愛するアジア大陸は、近代西歐の植民地侵略のため、荒廢跡なきまでに蹂躙(じうりん)せられ、嘗て世界最高の文化を創造し、外域民生の開花を導き來つた崇嚴なる往昔の姿は、偲(しの)ぶすらも由なき現状となつた。此の間の過程を歴史に求むれば、北は露國乃至赤「ソ」の北アジア侵略、南は西歐諸邦の印度支那、南洋、濠洲等の侵襲(しんしふ)等、悉く一連の血腥き迫害強奪の罪悪史である。周到(しうたう)に隠匿潰滅を努めたる此れ等文獻も、今や日を逐つて史代的黎明の光に曝されんとしている。世界何處の國民、何れの民族たるを問はず、苟くも、萬物の靈長として一面の神性を天賦(てんぷ)せられたる者は、誰かこの慘害の跡に一掬(きく)の涙を濺(そそ)ぎ、アジア復興の聖なる大業に滿身の血をたぎらさない者があらう。
アジア荒廢の現状はここに述ぶるの煩(はん)に堪へぬ。されど今、一例を支那にとれば、事變勃發直前に於ける支那大陸は啻(ただ)に政治、經濟、文化等の方面のみならず、統一せられたる武力も、更にこの總てを總括(さうくわつ)するに至りし蒋政権すらも、完全に泰西の傀儡(かいらい)となり畢(をは)つていたのである。
この間獨り毅然(きぜん)としてその皇道を堅持せし我が神國日本すら、露英兩國の植民地としてその毒牙にかけられんとしていたことは、最近逐次明となれる文獻の明證する所である。否、仔細に史實を洞觀(ごうくわん)すれば、この我が國と雖も、明治三十二年の治外法權竝に最惠國條款(さいけいこくじやうかん)の撤廢、同四十四年の關税自主權の確立を經て、始めて政治的な不平等の迫害より蝉脱し得たるに過ぎぬ。更に、西歐的侵略の最も陰険なる魔手は、特に心戰 學戰の戰略に潜入し、遂に内攻の域に迄も進み來つたのである。日本國内に於ける思想、學問、文物制度等が、我が皇道と甚だ縁遠き亜歐植民地的形態を具現しあるもの少からざるは、主として之れに因することを明察しなければならぬ。
日支幾十萬の生血と國帑(こくど)を犠牲として戰はれつつある今次事變すら、一面には支那が眞の支那を知らず、日本が眞の日本を知らず、これ等の一體が眞に東洋の文化、生命體的運命を自覺せざりしに因るものと視ることが出來る。明治維新以來の御大業を敬仰し奉る毎に、文化翼賛者の不明に因り馴到せられたる此の風潮に關し、唯々恐懼(きょうく)の外なきを反省しなければならぬ。然るに、東洋をしてかく迄に無自覺の迷夢に陥れたる眞因は何處にあるのか、是れ西歐侵略主義と同根の理念に基いて創造せられたる思想、覺問の浸潤(しんじゅん)の結果に外ならぬ。即ち所謂植民地侵略とは、決して單なる政治的、經濟部門のみにあらず。歴史の歪曲、理念の欺瞞、曲覺の流布、謀略的文化制度の移入等こそ、最も深刻にして恐るべき侵略なることに目覺むべきである。
かうして、支那四億の民衆は傀儡蒋政權に操縱せられ、或いは共産主義の魔手に眩惑せられて、自らを驅つて支那事變武戰の堝中に投入し、自殺的軍需の購入のため骨身を割(さ)きて泰西に委し、その物質的荒廢は今や將に頂點に達せんとしつつある。
更に眼を轉じて、シベリアに中央アジアに、印度に、アラビアに幾億の憐れなる民族が貪婪(どんらん)搾取の俎上(そじょう)に呻吟(しんぎん)しつつあるか。纔(わづ)かに土着住民を鏖殺(あうさつ)して罪業の證蹟を絶ち、怨恨を語らんとするも、その民既になき濠洲の一角に於てのみ、この種被壓迫の憐民(れんみん)なきを見る。我れ等は侵略者の築きたる物質的施設に依りて、その罪業を欺き隠されてはならぬ。これこそ最も完備せられたる我れ等東洋民族に對する斷頭臺なのである。
史代的黎明の暁鐘は鳴る。正しき歴史の展開によりて、アジア大陸荒廢の眞相は闡明(せんめい)せられ、西歐侵略の罪悪は、公正なる審判に附せられるべき秋は來た。嚴かなる天譴(てんけん)は將に下されんとしている。是れ正に皇道の正義に基く降魔の利劒である。されど、東洋にはその罪を悪(にく)んでその人を悪まざる傳統の美徳がある。況や皇道の寛大仁慈なるをや。假(たと)ひ在來の罪業者と雖も、速かに人類の正義に即して、東洋に於ける積悪を清算し、新世界に厚生すべく協力し來るに於ては、過去の罪業は贖(つぐな)はれ再び清明なる天下の下、各々その處を得て正しき繁榮の方途に生きることが出來るのである。

三 皮肉なる近世自由主義の鐵鎖(てつさ)
嘗て自由主義の旌旗(せいき)は、ローマ法王廳の廳の桎梏(ちつこく)非道を極めし中世末期に於て、敢然これに抗して新興の意氣燃えし國家、民族に無限の魅惑を投げかけた。教會の獨立、宗教改革、産業革命等、歐洲の諸處に起りし澎湃(ほうはい)たる自由解放の運動は、遂に文藝復興を大成し、中世期法王廳世界を轉換して、近世資本主義世界を生んだのである。かくして近世自由主義は、資本主義的文明の發達にその歴史的役割を課したのである。然れどもこの自由主義の末法的悲劇を今や世界到る所に見る。歐洲大戰に於けるかの地の搏噬(はくぜい)、「ソ」聯革命に伴ふ幾多の残虐、獨伊の擡頭に因る歐洲再分裂の現状等、皆その現はれに外ならぬ。眼を轉じて假りに東亜を観れば、此の地の諸民族が自由主義的理念の混迷の故に兄弟内に鬩ぎ(せめ)ぎ、その被害最も少かるべき我が日本すら、この近世自由主義の理念に基く文物制度、思想、學問、教育等のために、自家陶酔的鐵鎖(じかたうすいてきてつさ)に縛せられ、如何にその發達を阻止せられ國内相剋を激化しつつあるか。左に二三の例につき一瞥(べつ)を試みん。
衒學(げんがく)の虚名(きょめい)と、學校に於ける死學の教育とは、徒に純眞無垢の青少年子女をして試驗地獄、點數勉強、就職學問、俸給奴隷、官位寄生の忌はしき風潮に堕せしめた。かかる低級の苦難を通じ、何等の希望も光明もなく、唯々パンのために學び來つた學徒乃至知識人が皇道總力翼賛の材たること能はざるは當然である。教育に於ける自由主義は全く指導理念の統一を圖ることなく、教師は夫々勝手のことを諜舌(しゃべ)り、その採否を識見末だ定かならざる學徒に決せしめ、之れを以て學問を進歩せしめ個性を啓發する所以なりと誤斷し、徒らに萌え出づる若芽の如き青春の思想を混亂し、日本も歴史憧憬を紛失せしめたのである。
言論に於ける自由主義の我が國民に對する悪影響、亦右に等しく、更に國内互に相駁論(あひばくろん)して世界に對する心戰の威力を減殺し、益々自縄自縛の愚を重ね、甚しきは敵國の心戰攻撃の手先となって、自國民に向って矢を放つに至る。
醫療に於ける自由主義は、民衆に依つて以て生命を托すべき施療者をして、各自勝手の施術投薬をなすに委せ、西歐醫學か、皇漢醫學か、物理療法か、精神療法か等の裁決を、最も醫學に専門ならざる一般國民に委し、殊に重症者を繞る家族親友の選醫に迷ふ狂はしき程なる焦躁に、殆ん度無關心なるが如くである。此くの如くにして、如何に皇戰の根本要素たる健全なる日本人の増殖、國民精神及國民體位體力の向上を期することが出來ようか。
更に近世自由主義の及ぼす組織運營上の餘弊(よへい)は、各所割據、上下断絶、自縄自縛的法律、財政、經濟、政治、外交、教育の諸制度となり、可措(あたら)偉大なる天賦せられある我れ等の民族をして、最近まで退嬰萎縮(たいえいいしゅく)、國内相剋の悲境に沈淪(ちんりん)せしめたのである。
東亜諸民族の相剋も亦、此の皮肉なる鐵鎖の悪戯に因し、支那事變の勃發も亦、一面この迷夢の因つて起こったのである。乃ち國内に、東亜に、アジアに、この迷夢を破り、この鐵鎖を除去することが事變解決のため最も重要なる方策の一となる。
互に摶噬する雙方共倒れの悲運を辿つた歐洲大戰の戰果は、貪婪戰争に相應する天の應報である。然るに、東亜の諸國は之れと全く異なる方向に進みつつある。即ち支那事變を通じ、東亜諸民族は歐洲植民地侵略の眞相に目覚めて、ここに東洋的學醒の黎明を迎へたのである。かくして、ショウペンハウエルの疑惑を、ニーチエの豫言を、而してシュペングラーの警告を愈々實現化せんとするに至った。是が我が皇戰の正義の致すところ、我が神國の必然的顯現に他ならぬ。歐洲は戰に因って衰へ、アジアは戰に因って興る。正に二十世紀史上皮肉なる一對に因果應報史と謂ふべきか。
かくして、最も陰險に、而も最大規模に、我れ等を縛せし皮肉なる近世自由主義の鐵鎖は、將に解かれんとしている。統一ある眞の皇道的自由は確立せられ、東亜諸民族、就中我れ等日本民族は、陸に海に空に、軍事に政治に經濟に文化に、皇戰の理念に基く適切なる指導に依り、朝野官民各々その處を得て、今や洋々たる發展の一路を辿ることを得るに至った。徒らに猫額(べうがく)の天地に跼蹐(きょくせき)する拘束的制約、無用なる國内相剋、東亜内訌の煩は逐次過ぎし夜の悪夢と化せんとしつつある。
近世自由主義こそ、我れ等を縛りし鐵鎖であった。これが支持者は近世世界壟斷(らうだん)者のスパイと知れ。東亜諸民族、就中その根軸者たる我が國は、今やその總力を擧げてこの鐵鎖を断たねばならぬ。かくして始めて眞の東洋は甦り、眞の日本は顯る。人々よ、起て。

四 洋々たる我れ等の前途
鐵鎖の束縛を絶てる我れ等の前途は實に洋々として到る所發展の天地を有(も)つ。
世界に於て最も多様多彩なる天候季節、大地海洋、民生草木、悉く是れアジア、太平洋乃至印度洋文化圏に輳(あつま)つている。學問も、藝術も、宗教も、此の天地に於いてこそ眞に世界的創造、宇宙的大成をなし得べきである。就中日本は宇宙との要衝、世界の縮圖、アジアの中樞たる實を備ふ。
將に建設せられんとする皇學及皇戰は遥に高くアダム・スミス、カント、ヘーゲル、マルクス、クラウゼウイツツ等の群小學説に、君臨する。最も大成の可能性を天賦せられたる皇道藝術は、その高邁なる理念に於て、奔謄(ほんたう)する情熱に於いて、將た追随を許さざるその表現に於いて、普く世界を驚倒せしむるに足るのである。儒教も、道教も、仏教も、基督教も、その他回教、拜火教、猶太教の如きすら、我が皇道の靈光を浴びれば、諸宗教の統一としての絶對なる神道の下に各々その處を得て世界民生の人心を案んじ得るの糧とならう。
清高にして崇嚴なる日本文化を認識せよ。支那に於けるが如き形象を要せず、西洋に於けるが如き體系を要せざりしは、我が皇道文化に革命と外寇斷層なかりしめんがためであって、かかる所にこそ、その最高次なる絶對性を見るのである。
我が皇道文化の偉大なる歴史性と、世界性と、而して滾々(こんこん)として竭(つ)くることなき神國的なる發展性と創造性との誇りを知れ。而して高く大旆(たいはい)を掲げて之れを國内に、東洋に、而して世界に宣言せよ。
肇國の神勅を世界に宣べざるべからず。八紘一宇の大詔は二千六百年前の往昔に下された。かかる大理想は、當時東洋の如何なる民族に於いても斷じて見ることは出來なかつた。
況んや歐洲諸民族の如きは、悉く蒙昧(まうまい)なる蠻族であつたに過ぎぬ。
自國の高き文化に相應しき誇りを堅持し、堂々と之れを内外に宣(の)ぶる民族にのみ、興隆の歴史を見る。近世に於いて、我れ等はいづれの時、いづれの處に、此の日本文化の宣言をなしたか。之れをなさずして支那の排日を責め、歐洲の皇道日本理解なきを喞(かこ)つは當らぬ。是れ寧ろ自ら尚ほ盡すべきを盡さざりしの致す所にあらざるや。
天地開闢の遠きは暫く措き、神武天皇御即位以來に於ても、已に二千六百年の歳月は流れた。この間我れ等は内に鬱勃(うつぼつ)たる文化の煉冶(れんや)と實力の培養とに努め來つた。今こそ堂々たる宣言と共に皇道世界建設に發足すべき秋は來たのである。
經濟も、政治も、武力も、更にこれ等の総合勢力も、この宣言と實踐とを遂行すべき十分の實を有つ。アジアは嘗て世を擧げて憧憬の的となり、近代西歐科學促進の動機をさへ作りし世界の賨庫である。その中に、天賦せられたる民生も、資源も、交通も、而して聰明も、情熱も、勤勉も、皆之れが不動の要素である。就中我が皇道の權威の下に逐次生命體的結成を完成し行く日滿支は、正にその中原とも謂ふべし。
支那事變勃發以來來費せども使へども盡きずして、益々開發、洗練、自覺、結束の道程を辿る我れ等の無限神國總力を見よ。貧寒、小規模にして合理的推論以外に術もなき歐洲流の顰(ひそみ)に倣ひ、事變の永續と共に日支共に疲勞するならんと速斷し、煽動姑塗(こと)すればする程、東洋及歐洲新興勢力は興り、煽動者は没落の深みに進む。この興味ある皮肉を、我れ等は現在の亜歐に眺め、更に同様の史實を史代的轉換期に於ける世界史の到る所に見るのである。
我れ等の努力すべき最大の關門は經濟實力の不足にあらず。政治形態の建設難にもあらず。實に我れ等の實力と天賦とを正しく認識し、速に近世自由主義の鐵鎖を斷つて、日本を樞軸とする新世界創造の理念を確立するに在る。かくして日本全國民にその信念を徹底せしめ、アジア諸民族にその事實を體得認識せしめ、而して世界民生をしてこの歡びを享(う)けしめよ。

五 皇道世界維新理念の樹立
ここに皇道世界維新理念は樹立せらる。是れ即ち皇道維新百年戰争計畫の最高方針である。この方針に於て最初發足の動機たるものは、近世欺瞞世界の轉換であって、そは同時に最後の戰争目的たるものである。
東方世界に内攻せるマルキシズムの毒菌に因る反應と、その傀儡たり、同時にアジア侵略を宿命的慾望とする赤色ソ聯に對しては、日滿支國力の建設、軍備の充實、戰備の煉冶、共産黨の彈壓、我れ等との血液最も近きツラン文化圏におけるシベリア、蒙古被壓迫民族に對する思想指導、歐洲盟邦と東西相呼應する壓縮等に依り、實踐的にこれが覺醒を促すの段階に入れるを知る。
内的矛盾益々深刻にして尚ほ且つ漁業問題等に於いてその非道を固執(こしん)するに於ては、或は更に速決の手段に出でなければならぬ。中心的な存在もなく纔(わづ)かにその理念とするマルキシズムすら、唯物萬能の自己矛盾に滿てる空虚なる共産赤化に對しては、我れ等

皇戦主義こそ、自由言論をしばる鐵鎖なのに、自由言論が鐵鎖だとう高嶋辰彦はおかしい。
懼(く)
國帑(こくど)―「帑」は金庫。かねぐらの意。国家の財産。国財。
•    万国新話(1868)<柳河春三編>に「國帑空しきに至らず」
•    経国美談(1883-84)<矢野龍渓>後・13「國帑常に不足勝ちなる時なれば他国の戦費を給すべきの余裕ある有様ならず」
•    改正増補和英語林集成(1886)「KoKudo(コクド)ムナシクナル」
•    因みに「国度」も国語としてる。
•    それでは「事變」とは何か?
•    (273) 『キメラ 満州国の肖像』(著:山室信一。中公新書)
乱暴な比喩かもしれないが、満州国と文化大革命は似ている気がする。そこに理想、夢、ロマン、希望を託した多くの人びとがいた点が。そして、その託したもの全てが血や汚辱に塗れていった点までもが。
満州国を考えるうえで欠かせない石原莞爾を追っていく。
そもそも朝鮮半島、そしてその後背にある「満蒙」の大地は当時の日本にとってどのような位置づけをなされていたのか。「日本は国家の命運を賭して日清、日露の二つの戦争を戦い、辛くも勝利を収めた。満蒙は『十万の生霊、二十億の国帑(国庫金)』によって購(あがな)われたかけがえのない大地と目され」ていた。
そうした心情面だけでなく、機能面においても「総力戦遂行のための自給自足圏の確立」と「国防、戦略上の拠点の確保」という課題があった。石原は当初、「満蒙問題の解決策は満蒙をわが領土とする以外絶対に途なきことを肝銘するを要す」(「満蒙問題私見」)という立場に立っていた。しかも、「漢民族は自身政治能力を有せざるが故に、日本の満蒙領有は、日本の存立上の必要のみならず中国人自身の幸福である」とも主張し、また、「満蒙は漢民族の領土に非ずして、むしろその関係我国と密接するものあり」(石原「国防」)と自己正当化していた。しかし、「満蒙領有計画は満州事変勃発後わずか4日にして独立国家案へと『後退』を余儀なくされていった。
そのことは、結局石原ら関東軍参謀たちが用意した正当化論理だけをもってしては諸外国どころか~陸軍中央さえ説得できなかったことを意味する」。
「万斛の涙を呑んで独立国家案への後退を余儀なくされた」石原は、31年12月2日に至っても「『新満蒙の建設は最高支配を支那人に委(まか)しては遂に不可能~』と断言して」いたという。ところが、「独立国家建設が具体的日程にのぼってきた12月末になると~さしもの石原も満州独立国家案に転換を遂げ」た。「石原自身、この転換の理由を~中国人の政治能力に対する懐疑を一掃したためであると説明している」。
「いったん独立国家論に転じるやその方向性をひたすら突き進み、その極北まで至らざればやまずというのが石原という人物の特性でもあった」。石原は、「32年1月25日には『日支人は全く平等の地位に立つものとす』(「新国家内に於ける日本人の地位に就て」)と」述べ、「4月22日の文書では~完全な民族平等による統治方針へと転じ」そのうえに「6月に入ると石原は~関東軍による政策指導を放棄する構想を主張しはじめる」。
32年8月、石原は関東軍から陸軍中央へ転出する。
石原が再び満州国の土を踏むのは、陸軍参謀作戦部長を免ぜられ、関東軍参謀副長に任じられた37年9月のことであった。しかし、「日中戦争拡大を阻止しえずに参謀本部を追われ、今また満州国の現実に裏切られた思いの石原は、持前の激越な口調で関東軍と日系官吏が統治する満州国への批判を繰り広げ~とりわけ東条英機との確執は憎悪ともいえるほど激しくなり~満州国が日本の従属国家となってしまったことに万斛の憂憤を抱いて辞表を提出し~なければならなくなっていた」。
今度は、もう一つの要素である溥儀をみていく。「新国家の頭首として溥儀の登用が決定したのは、1931年9月22日、関東軍が満蒙占領案から一転して独立構想へと移った時であり、いかにも唐突な印象を与える」
「清朝の復活をイメージさせる溥儀擁立はあまりにも時代錯誤の企てであるとしてこれに反対」する声の多いなかで、あえて関東軍がふみきった理由がいくつかあげられているが、省略する。いずれにせよ、皇帝に復辟することしか考えていなかった溥儀と、「共和制を採る中華民国に対抗し優位性を誇示」するため立憲共和制を想定していた関東軍とはまさに同床異夢であった。皮肉なことに、34年3月1日、溥儀は満州国の康徳帝として再び「帝位」につく。しかし、それは日満の一体化、より正確には満州国が大日本帝国に完全に隷属するためには同じ国家体制をとる方が望ましいと判断されたためであった。溥儀の帝国には、最も根本となる憲法、宮殿、皇族のいずれもなく、後に「三無国家」と呼ばれたという。「しかし、孤徳の皇帝が君臨した帝国に最も必要にして欠けていたもの、それは憲法でも宮殿でも皇族でもなく、実は、なによりも皇帝を歓呼で迎える国民ではなかったのだろうか」という筆者の指摘は、あまりにも痛切である。

3、仲小路廉全集(一)(二)
大正14年1月14日 印刷
大正14年1月17日 発行
東京市麻布區廣尾町2番地
編輯兼発行者
仲小路 宣
仲小路 彰
東京市四谷區尾張町5番地
印刷者 有吉黄楊
東京市四谷區尾張町5番地
印刷所 万月堂印刷所
東京市麻布區廣尾町2番地(仲小路方)
発行所 靄 軒 會

第1巻 目次
司法官時代(明治34年迄)
慈母と我が追懐・・・・・・・・・・・・・・・・1
英米二國に於ける司法制度の現状・・・・・・・・7
辯 明 書・・・・・・・・・・・・・・・・・・46
逓信次官時代(明治39年より明治44年迄)
鐵道國有法案成立の夜・・・・・・・・・・・・・57
鐵道買収終局談・・・・・・・・・・・・・・・・66
思い出・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・68
水力電氣の調査
(明治43年5月)・・・・・・・・・・・・・・・・71
(明治43年12月)・・・・・・・・・・・・・・・・79
(明治44年4月)・・・・・・・・・・・・・・・・79
歐米所感・・・・・・・・・・・・・・・・・・・109
貴族院議員時代(明治44年より大正12年迄)
政黨と内閣に對する私見・・・・・・・・・・・・127
第36回帝國議會
(外交問題)・・・・・・・・・・・・・・・・・・139
(鐵道會計法案國債基金問題)・・・・・・・・・・168
先輩諸公への議會の状況を報告す・・・・・・・・・231
大浦問題と刑事政策・・・・・・・・・・・・・・・261
大正5,6,7年時代(農商務省)
暴利取締令公布の理由・・・・・・・・・・・・・・・273
物價價調節令の精神・・・・・・・・・・・・・・・・275
買占の警告・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・277
八幡製鉄所對東海鑛業株式會社の問題・・・・・・・・280
第40議會を顧みて・・・・・・・・・・・・・・・・・283
外米管理・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・286
政論時代(大正7年より大正13年迄)
第41議會
(食糧問題)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・289
現代に處すべき國民の覺悟・・・・・・・・・・・・・・・303
物價政策批判・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・337
第42議會
(生活問題)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・347
勞働問題と食糧・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・369
國民生活問題・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・373
第43議會
(議會解散及普選問題)・・・・・・・・・・・・・・・・・・379
(小口落問題)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・398
食糧問題・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・407
米穀國榮論・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・413
自己の力に信頼せよ・・・・・・・・・・・・・・・・・・424
貴族院と其の本領・・・・・・・・・・・・・・・・・・・427
議會の騒擾・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・436
生活の危機と低級政治・・・・・・・・・・・・・・・・・442
女性化せる資本政治・・・・・・・・・・・・・・・・・・454
豺狼途に横はる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・457
第44議會
(外交内政問題)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・465
貴族院の權限を如何・・・・・・・・・・・・・・・・・・・501
現代文化の批判・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・511
第45議會
(綱紀肅正問題)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・529
第46議會
(樞密院政府の問題)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・596
樞府と貴族院の性質に就て・・・・・・・・・・・・・・・・625
編輯後記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・629

第2巻 目次
明治時代
廉之記(戯作)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1
亡兄7回忌辰午夜之所感・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5
歐米巡遊雜記(米國之部)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・10
緒言──編者序──出發前──太平洋の航海(附布哇)──米國大陸横斷(附市俄高市)──華盛頓──米國司法省──合衆國高等院──米國に於ける裁判所の權限─華盛頓所勸───紐育市(附育府)──ボストン市(附其途上及歸路)──米國を歸辭す
附録──古昔に於ける雄辯家の特性(抄譯)・・・・・・・・・・99
歐米近情一班・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・113
緒言──旅程の大要──國運進興の基──山河に富める邦國──機械力應用の進歩──電氣事業の發達──水力の開發──交通機關の概觀──技術家功蹟の表彰とその責任──教育機關と實驗所──工場經營の概觀──國家富源の保存主義
發電水力の開發
•    歐米に於ける水力電氣事業の概況・・・・・・・・・・・・・・・・169
緒言──スカンディナビャ──伊太利──瑞西──独逸──墺太利──佛國──英國──米國──各國の水力
•    水のはなし(水力は致富の基)・・・・・・・・・・・・・・・・・・222
•    發電水力調査事業一班・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・249
大正時代
辯・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・261
社會生活の基礎としての確信・・・・・・・・・・・・・・・・・・267
革命と革進・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・275
偉人格・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・281
古今人物評論
明治天皇・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・307
豊太閤・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・320
日蓮・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・340
山鹿素行・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・350
賴山陽・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・367
乃木大將・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・384
桂公・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・396
カイゼル・ウイルヘルム2世・・・・・・・・・・・・・・・・・・410
原氏と寺内伯と自分・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・417
大隈侯と伊藤公・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・431
晩年の心
蓄音機のレコードの原文・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・443
天・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・446
不動心・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・451
天を畏れよ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・463
災後の新年・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・467
婦人の幸福は自己の運命の開拓に在る・・・・・・・・・・・・・・・473
靄軒閑話・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・481
靄軒詩集・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・478
市三遺稿・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・541
編輯後記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・557

天を畏れよ{9月1日関東大震災:附記}

第2巻米國に於ける裁判の権限p60
p60コラブションオブブラット  反逆罪
{「コラブションオブブラット」とは血液の腐敗と云へる意味にて古昔英國に於いて苟も叛逆を為したるものは上は其祖先より下は子孫に至るまで其血統は總て腐敗せりと唱へ本人は勿論其子孫に至る迄一切の權利相續の權を失ひ所有の家屋土地は總て之を官に没収し何人にも相續せしめざりし制を云う}

8、交通機關の概觀
p146  電話の自動交換
独逸の「ミュンヘン」や亜米利加でも電話自動交換機が發明され、現に實用に供していた。
独逸の「ナウエン」の無線電信所では鐵塔の高さが、百米突有効距離が五千米突という巨大なるものでありまして「カイゼル」陛下が特に完全なるものを栫らへたいといふ御希望に依り、殊更ら力を竭して建設したものであると聞及びました。

仲小路廉
山口縣徳山市
慶應2年7月3日午前4時生まれ
11歳―父が死去
12歳―5里隔てた學校に通っていたが、友達を遊びながら歸ってきて、母に激怒され夕方から、深夜にかけて友達を自宅に母と送っていった。
最初の司法省の遣外法菅として派遣された當時に、一通りに政府としての調査を終えた後に、私費で留學した時に、母から千圓の送金を受けた。尚、当時の俸給が1年間で千圓であった。{大正6年7月の時点で、母は77歳であった}
兄は浦和の裁判所の小吏時代に21歳で死去―第2巻「廉之記  戯作」から。
明治15年7月27日 家兄 仲小路市三(滿拾九年一ヶ月)玉蔵院(浦和、荒川の東)
16歳―母と11歳の弟の3人暮らしとなる。
明治27年 29歳 東京地方裁判所檢事(第1巻 表紙写真)
明治34年 36歳 逓信省官房長(第1巻 表紙写真)
明治39年 41歳 逓信次官(第1巻 表紙写真)
明治44年 46歳 第2回洋行中 伯林(第1巻 表紙写真)
大正元年 47歳 農商務大臣(第1巻 表紙写真)

明治33年5月10日より22日間 欧米司法制度の視察の為、第1回派遣された9人の遣外法官として、5月14日に東京控訴院檢事兼司法參事官として演説した。
香阪駒太郎―横濱地方裁判所檢事正
馬場愿治―大陪審の判事
の3名で明治33年4月から明治34年3月に歸朝。
辯明書を明治34年3月31日付で、東京控訴院檢事長代理 平沼騏一郎に提出。
555p-1巻:撫順炭鉱
582p-阪谷吉郎男爵
594p-上山滿ノ進
前田利定子爵
渡邊千冬子爵
江木千之
鎌田榮吉
西久保弘道

4、百年目にあけた玉手箱
著 者:小島威彦
発行所:株式会社 創樹社
〒112 東京都文京区後楽2丁目22番15号 みくにビル2階
電話―東京 5684-4001(代)
印 刷:株式会社 ミクニ印刷
製 本:常川製本

第1巻 茅渟(ちぬ)の海   発行:1995年1月25日 第1発行
第2巻 印度洋        発行:1995年1月30日 第1発行
第3巻 大西洋        発行:1995年6月  5日 第1発行
第4巻 地中海        発行:1995年8月10日 第1発行
第5巻 太平洋        発行:1995年11月10日 第1発行
第6巻 瀬戸内海       発行:1996年11月10日 第1発行
第7巻 日本海        発行:1996年11月10日 第1発行

第1巻 茅渟(ちぬ)の海:生家・日露戦争と母の死・幼時の世界・茅渟の海と六甲山他
第2巻 印度洋    :5・15事件と2・26事件・文部省国民精神文化研究所他
第3巻 大西洋    :地中海世界としての北アフリカ・ナチスドイツと人々の生活他
第4巻 地中海    :欧州のおける古典復活の空気・日本世界文化復興会他
第5巻 太平洋    :戦争の推移・様々な軍人たち・従軍した人たち他
第6巻 瀬戸内海   :日本の復興に向けて・クラブ関西とクラブ関東・建設の現場他
第7巻 日本海   :欧米大学歴訪の旅・アメリカと北大西洋・明星大学・大哲学者面談の旅・ヤスパース・・・・・・地中海とビスケー湾と日本海

第1巻 茅渟(ちぬ)の海p68,69,127~166、302~最後
第2巻 印度洋     p146、160
第3巻 大西洋     p130、154、156、158、168、170、230
第4巻 地中海     p170,234,274、286、288, 292、296、302、304、328
第5巻 太平洋     p写真、16、18、22、58、98,122、124、286、348、390
第6巻 瀬戸内海    p18、20、54、56、80、152、166、200、266,338、352、372、378、406
第7巻 日本海     p58、166、200、232、234、242

5、開館45周年記念展[Ⅱ]  建築家 坂倉準三の仕事
1997年1月4日[土]―2月2日[日]
神奈川県立近代美術館[本館]

あいさつ
坂倉準三という建築家の名前は、すなわち、通称としての「鎌倉近代美術館」の代名詞となっている感があります。それほどに、この美術館と密接な関係において、開館以後45年の歴史を刻んできたといえるし、そのことはまた、ひとりの建築家と美術館活動の運命をも示す事例として、今日しばしば世間の話題としてもとりあげられている理由ではないかと思います。戦後最初の近代美術館としてスタートした当館の建物としての経緯を振り返ってみるとき、建物の構造、デザイン、空間のもつ印象等々、実に戦後と呼ばれるその時代の特質を示していますが、しかし、ある意味では過ぎ去りし時の流れに置いてけぼりをくらったような哀感を漂わせている一面もあります。・・・・・・・(中略)・・・・・・
本展開催にあたっては、いろいろと試行を重ね、企画の内容を閲して構成しました。しかし、坂倉家の皆様、坂倉建築研究所の新旧の所員の方々のご協力とご助言がなければ、けっして実現できなかったでしょう。ここに記して感謝の意を表します。
1997年1月
神奈川県立近代美術館 館長 酒井 忠康

パリから鎌倉へ──坂倉準三の仕事     太田泰人  p10~p14

私たちの美術館が、建築家の仕事を取り上げるのは、初めてのことである。これには、世界的に建築が、美術館がテーマとすべき対象としてクローズアップされてきているということもあるが、なにより現在、この鎌倉の美術館の建物をどうするのか、という再整備の問題が持ち上がってきているという事情がる。戦後のモダニズム建築の保存問題は建築世界で大きな課題となっている。それは、建物を利用する私たちの問題でもある。だが、いったいその問題をどのように考えたらよいのか。そこから、なにはともあれ、美術家を考えるのと同じように、この建物を建てた坂倉準三とはどういう仕事をしてきたのか、彼の生きた時代とはどのような時代だったかを調べてみようということになった。しかも私たちの美術館では、この後、フランスの大建築家ル・コルビュジエの展覧会を開催する。そのル・コルビュジエのもっとも重要な日本人の弟子のひとりが、坂倉準三であった。
ル・コルビュジエの弟子にして日本近代建築のパイオニア坂倉の展覧会を開くことは、日本で開かれるル・コルビュジエ展に必ずや有意義な序章を書き加えるに違いない。そのような理由から私たちはこの展覧会を組織し、この文章を書いている。
以下において私は、このテーマを4つのセクションに分けて考えてみたい。建築史の専門家ではない私がこのような領域に乗り出すとすれば、それは、やむにやまれぬ坂倉の建物に対する愛着のなせる技である。たとえ、ぎこちない論になろうとも、そのことだけは確認させていただきたい。

1 ル・コルビュジエ入門
坂倉準三は、日本の大学の建築学科を出ていないという点で、変わり種の建築家である。岐阜県の裕福な造酒屋の家に生まれた坂倉は、一高卒業後、1932年、東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学、その在学中に最初は建築史をやろうと思い立ち、それがいつのまにか建築家になろうという志望に変わったのである。1927年、卒業の年には、級友の富永惣一(後の国立西洋美術館館長)への書簡で、パリに行きル・コルビュジエに師事する決意を語っている。だが、1920年代半ばといえば、まだル・コルビュジエもパリで活動を始めて10年にも満たない時期である。いったいどのような状況で極東の島国の美術青年に、そのル・コルビュジエの情報が伝わり、かくも重大な決意を引き出し得たのか。
このル・コルビュジエ受容に関する問題については、藤岡洋保氏の文献学的研究や都立大学大学院の豊田健太郎氏の初期の坂倉についての調査などがある。それらを参照しながら状況を推測すれば、次のように概括されよう。
第1次世界大戦後の経済成長を背景として1920年代は、日本に欧米の新しい思潮、芸術が激しく流入した時代であった。それを受けて、新興の美術運動が勃興し、建築界には分離派運動が旗揚げする。欧行する日本人の数も増した。建築家たちの関心は、まずドイツ、オランダなどの北欧の新しい建築に向いたようであるが、1923年には日本人がル・コルビュジエに会ったという記事が初めて現れる(薬師寺主計『建築世界』1923年8月号)。
美術の世界でも同じ頃からル・コルビュジエの雑誌『エスプリ・ヌーヴォー』(1920―25年刊)への関心が認められる。また、なによりこのころから海外の建築雑誌がル・コルビュジエを取り上げるようになり、それが丸善などを通して輸入され、日本に情報を伝えた。なかでも1927年のジュネーヴの国際連盟本部設計競技におけるル・コルビュジエ案の出現は、その名一躍世界的なスターダムに乗せるものとなった。こうした時代環境の中で大学入学直後から建築に関心をもった坂倉がル・コルビュジエへの崇拝を燃やしたのは意外なことではない。とくに交際連合の一件は、坂倉にとって啓示ともいうべき感動を与えた。しかも、坂倉には思い立ったらそれをためらわず実行する断固とした意志と、それを実現させる経済的な背景があった。かくて、坂倉は東大卒業の2年後の1929年に、ル・コルビュジエ師事をめざしてパリに向ったのである。坂倉はフランス到着直後に、すでにル・コルビュジエに師事していた前川國男を介してセーヴル街16番地のアトリエに紹介して貰っているが、東大卒業後、中村順平にボザール流の製図を学んでいたとはいえ、建築家としては素人である。そこでル・コルビュジエの勧めにしたがってエコール・スペシャル・トラヴォ・ピュブリックで鉄筋コンクリートの技術を2年間学んだ後、1931年に正式にル・コルビュジエの門を叩くこととなっている。パリのル・コルビュジエ財団には、この時の坂倉の手紙が残っているが、その余白にはコルの筆跡で「この若者は、贈り物である日本の画集を両手にかかえ、崇拝の念を抱き、感動に胸つめらせながら、私の前に現れた」と書き込みがって、当時の坂倉の様子を伝えている。その当時、パリのル・コルビュジエのアトリエには世界中から彼を崇拝する若い建築家たちが集まっていた。もっと正確に云えば、1936年にアンドレ・ヴォジャンスキが入るまで、シャルロット・ペリアン以外は、スタッフはすべて外国人だった。彼らはコルの掲げる旗印に引き寄せられて集まり、無給でコルの仕事に協力した。ペリアンが筆者に語ったところによれば、当時のコルのアトリエは、戦後、ヴォジャンスキーがチーフになった頃からの給料も支払われる建築事務所らしい事務所とはまったく違った同志的な雰囲気であったという。
坂倉準三は、このアトリエに1931年から36年まで在籍して、コルのもっとも忠実な日本人弟子となった。始めは、つまらない仕事もやらされたが、だんだんとアトリエのチーフ的な、なくてはならない存在となって、様々なプロジェクトに重要な貢献をしたのである。では、坂倉がかくも傾倒したル・コルビュジエとは、どのような存在であったのか。しかも、その場合、「30年代の」ル・コルビュジエとは、と限定をつけなくてはならない。というのも、すでに多くの人が指摘しているように、ル・コルビュジエは、この20年代末から30年代始めにかけて大きく変質したからであり、またこの変質、変節の転換点に同伴したことが、坂倉自身の仕事にきわめて重要な影響を及ぼしていると思われるからである。
よく知られているように1920年代にル・コルビュジエは、機械の美学を掲げてモダニズムの建築に基本的な形式と理念を与えることに成功した。しかし、1930年代になると彼は清潔なプリズムを思わせる機械美学の幾何形態を離れて、エロティックな曲線や土着的なデザイン、素材、あるいは永遠の歴史に連なる記念碑性などを打ち出すようになる。とくに1933年には、ドイツにおけるナチス政権の成立、ソビエト・ロシアの変質を確認しながら、ル・コルビュジエは「建築の擁護」を掲げて機能主義からの訣別を明白にしている。そして、この名高い記事の掲載された雑誌『アルシテクチュール・ドージュルドゥイ』(33年第10号)に、坂倉の建築家としてのおそらく最初の公的な発言が発表されたのである。
その中で坂倉は、有名な「住むための機械」という言葉が正しく理解されていないとしながら、ル・コルビュジエの新しい方向を支持して次のように語っている。そこに述べられた立場は、その後の坂倉を長いあいだ貫いて生き続けるものとなるのである。
「“住むための機械”とは、建築の道の途上にあるものである。・・・・・では“どこに建築があるのか”といえば、それは機械を越えたところにあるのだ。・・・・今日、ル・コルビュジエの建築は日本ではゆるぎない地位を占めている。若者たちは、彼の教えのおかげで、真の建築をめざし、和風建築になびく国粋主義の嵐と今も戦っている」。

2 パリ万博日本館
そのことが最も明瞭に表れているのは坂倉の仕事が、彼の華々しい出世作となった1937年のパリ万国博覧会日本館である。こ計画をめぐって、日本の建築界に既成のモダニズムとそれを超えようとする傾向の拮抗関係が初めて現れたことは、井上章一氏の刺激的な研究『アート・キッチェ・ジャパネスク』に詳しく論じられている。だが、外交史料館、
ル・コルビュジエ財団での今回調査した資料が示唆するように、そこには、早くからル・コルビュジエの影が及んでいた。とすれば、坂倉の仕事、またそれに先立つ前川國男の仕事は、パリ、日本で同時進行的に展開する状況の中で理解すべきものだろう。実際、モダニズムの建築家でパリ万博日本館建設にもっとも早くから関心を表明したのは、ル・コルビュジエその人であった。1936年2月22日の駐仏大使館佐藤から外務省への報告は、「旧知の仏国建築家」ル・コルビュジエ氏が日本館建設に助力の用意があり、若い日本人建築家を働かせて協力できる旨、申し出が在った事を伝えている(外務省資料)。4月には坂倉が帰国する。一方、それと前後して4月6日、日本国内では巴里万博協会が、日本館設計を東大教授岸田日出刀に委嘱(外務省資料)、岸田はさらに前田健二郎、前川國男、市浦健、吉田鉄郎、谷口吉郎の5名を建築委員として設計原案を作成させることとなる。4月15日にはすでに、(おそらく前川國男の手によって)最初の日本館案がまとめられている(外務省資料)。前川は、この5人の中でとくに有利な立場にあった。師の岸田の強力な後ろ盾があったばかりではない。彼にはフランスに大きなパイプがあった。同じ年36年4月、前川はパリのル・コルビュジエに宛てて、近く自分がパリ万博日本館の競技設計者に選ばれるので、そのために敷地の写真を大至急撮影して、叔父を介して日本に送ってほしい、帰国した坂倉も東京にいて大いに自分を手伝ってくれている、と書き送っている(FLC資料)。この前川の叔父が、上に触れた駐仏大使佐藤である。トロカデロの敷地写真は、5月初め、
ル・コルビュジエからたしかに佐藤大使へ、細かな助言の手紙を添えて送られた(FCL資料)。だが、残念なことにこのル・コルビュジエの助言は前川の役には立たなかった。シベリア経由、外交官ルートとはいえ、当時はパリから東京までの郵便物は1カ月はかかった。その間に日本館設計は慌ただしく進行し、思わぬ結末に至っていたのである。
6月17日コル宛の手紙で前川は、写真を受け取ったが遅かった、自分の案は予選では1位になっていたが、協会から日本的ではないと文句をつけられて落選しそうであると報告している(FCL資料)。その後に巻き起こった「日本的なもの」をめぐる激しい議論については、井上章一の本に詳しく述べられているとおりである。前川案は没になり、代わって前田健二郎が、協会の意向を汲んで伝統的な和風の形式を取り込んだ案を提出した。「塔の屋根は瓦ぶき、漆ぬり大黒柱に廻り廊下という建物で、外面は白壁に日本独特のナマコ壁仕上げを施した赤い漆塗の柱を適当にあしらったもの」である。前川國男は、この展開に納得しない。万博協会に抗議文をつきつけ、雑誌に自分の案を発表する。議論はその後、1年間にわたり日本の建築界を沸騰させた。この対立をすり抜けるようにして現れてきたのが、坂倉である。人民戦線政府の政策で現地フランスの労働者を使って日本館を建てるという条件を課された万博協会は、パリの建築事情に通じた日本人建築家として坂倉に白羽の矢を立て、前田案の実地を委託する。9月この命を受けてふたたびフランスに渡った坂倉は、トロカデロの現場に前田案が適合しないことがわかると、ル・コルビュジエのアトリエの一隅を借りて、自ら設計を始め、12月にはその案をまとめている。坂倉によるパリ万博日本館は、労働者のサボタージュなどのため、1937年6月、博覧会開会から1カ月遅れた完成した。万博協会は、古建築を模した過去の万博日本館とあまりに異なるその姿に困惑し、この建物を非難していたようである。しかしながら、世界の目は違っていた。それは各国の建築家、批評家の注目するところとなり、ついにはオーギュスト・ペレを審査委員長とする建築コンクールで、アアルトのフィンランド館、セルトのスペイン館と並んで、この無名の青年建築家の小さなパヴィリオンにグランプリが授けられたのである。その理由は、今日に目には明瞭である。周囲の樹木を上手に避けながら、その敷地と調和し博覧会建築として見事なまとまりと魅力を持つこの建築に、モダニズムの勝利も日本的な造形を見ることもともに可能である。坂倉自身が説明しているように、それは合理主義国際建築運動を超えて「世界の各国の地方性」を、つまりは日本の「地方性」を、満足せしむる新時代の建築であった。

3 戦時下日本の坂倉
1939年、このグランプリの栄光を背負って日本に帰国した坂倉は、パリ時代の婚約した西村百合(文化学院院長西村伊作の次女)と結婚、住まい兼アトリエを目黒中丸に設ける。彼のまわりには、最新のル・コルビュジエの思想を聞こうと若い建築家たちが集まりだす。中でも熱心だったのは、当時、前川事務所にいた丹下健三と浜口隆一らだった。すでにみたように坂倉の師事した30年代に入ってからのル・コルビュジエは、それまでの合理主義的な機能主義者コルのイメージとは、いささか違っていた。丹下は1939年12月の『現代建築』誌に「Michelangelo 頌」と題したル・コルビュジエ論を書いているが、その結論部分で坂倉を次のように登場させている。「不等辺六角形のあたたかい卓子を囲んで坂倉氏は私達に語り聞かせるのである。Le Corbusierは今や現代のclassicを創りつつあるのだ、と。」実際、坂倉は、記念碑的なムンダネウムを設計してタイゲに酷評されたようなル・コルビュジエの立場をはっきり肯定していた。たとえば、帰国後まもない時期に東京都の忠霊塔競技設計に参加した彼は、次のように発言しているのである。「忠霊塔設計の課題は忠霊塔が特殊な記念建築であると云うことのために、反っ若い建築家たちにとって興味ある問題となる。合理主義建築運動の高くかかぐる「功用」の標旗に眩惑されて、ともすれば建築の本質を離れ勝ちであった眼を、しっかりと建築そのものへ向けしめる機会がこれによって与えられであろう」(坂倉、現代建築、1939年9月「忠霊塔建設と建築の記念性」)坂倉の提出した案はジグラッド型、ピラミット型の塔を含むまさに記念碑的なものであった。そして坂倉の下でこの計画案を手伝った丹下は、1942年の有名な「大東亜建設記念営造計画」の競技設計において、この傾向をさらに強めた案を提出、それが一等賞をとって戦後の活躍に向けて重要な一歩を記したのである。しかしながら、戦時下の坂倉自身は、クラブ・シュメール結成に参加するなど南方進出の国家主義的政策に接近しながらも、丹下のような日本的様式の問題には深入りしなかった。その代わりに坂倉が戦時下日本の特殊な状況のなかでとくに大きな情熱をそそいで研究したのは、産業の問題、工業化の問題に対する建築家としての解決の探求であったといってよい。そして、1940-41年の商工省のシャルロット・ペリアン招聘は、その意味で坂倉にとって大きな意味を持つものとなった。1933年のブルーノ・タウトに続くペリアン招聘は、ふつうデザイン史の上での重大事件として語られてきた。パリ陥落の直前にフランスを後にしたペリアンは、1年あまりの滞在のうちに精力的に日本各地を訪れて工芸指導を行った。彼女は柳宗悦などの紹介で東北、京都などを訪れる。だが、ペリアンは柳の民芸運動とは一線を画して、地方性、伝統は、保存継承するのではなく、現代的な生活のために見直されねばならないと考えていた。そしてこれは坂倉の分かち持つ考えでもあった。しかしながら、坂倉にとって、このデザインの問題以上に大きな、そしてその後に持続的な意味を持つことになるテーマは、ペリアンがフランスから携えてきた1枚の図面、すなわちジャン・プルーヴェが彼女やピエール・ジャンヌとともに研究してきた「バティマン・ド・ラ・ゲール」と題された組立建築の図面から与えらた[ママ]。坂倉は、その意義を的確に見抜き、所員に金属を木材におきかえた組立建築の研究を命じている。こうして、坂倉とその所員たちは日本ではじめて建築の工業化の問題、つまり戦後のプレハブ住宅を先駆ける問題に取り組んだのである。

4 鎌倉の美術館
1951年に建設された鎌倉の美術館は、以上に見てきたような坂倉の戦前戦中の仕事の継承として生み出されたものである。日本的なものと近代性の融合という特質は、37年のパリ万博日本館から13年ののちに、あらためて新しい場所と新しい時代のなかで提示された。私たちは今でもそれをピロティの華奢な鉄骨を支える自然石に、中庭の大谷石の肌に、内部空間と外部空間の巧みな配合のうちに見出すことが出来る。だが、同時に鎌倉で見過ごしてはならないのは、今の目からすれば素朴なものに見えるかもしれないが、この建物のテクノロジカルな側面ではないだろか。つまりペリアンによってもたらされ、戦時下の組立建築の研究のうちに育まれたであろう工業化の思想が、そこにあると思われるのだ。金属の目地によって、鉄骨構造の上に工場生産のパネルを巧みに組み合わせた軽量な構成は、実はひとつのメッセージとなって古都鎌倉の環境と対比を形成している。それは、はるかに遡るなら、19世紀末のエッフェルからアール・ヌーヴォーの鋳鉄造形をへて、ブルーヴェ、ペリアンへと受け継がれてきた鉄と工業化という典型的な近代のイメージである。「ライト・コントラクション」が語られ、「エンジニアの時代」が見直されている今日、鎌倉の美術館には、またひとつの意味が見出されるかもしれない。
(神奈川県近代美術館学芸員)

坂倉さんと創業期  駒田知彦  p15~p21

坂倉さん設計の初めての公共建築、神奈川県立近代美術館で、「建築家坂倉準三の仕事」が開催されることは、本当に意義があり大変に喜ばしい。1937年のパリ万国博覧会で、あれほどの国際的評価をえた日本の建築家が、色々な経験を踏まえながらも13経って初めて、むしろ遅すぎると言えるような頃、公共建築での力量を発揮出来ることになり、しかもコンペであったのは更に意味が深く、またその成果である美術館が日本で戦後初めての美術館として優れた形に纏め上げられたのは大変に素晴らしいことだった。
しかも、その美術館で、回顧展形式での自らの初期の作品展が開かれることは、この上ない嬉しいことではないかと思う。そしてそのコンペの審査から建設まで、また今回の企画などに関係された方々も含めて色んな方々が、心、和まれておられるように感じると共に、私個人としても、この催しに出会えることは非常に悦しく、幸いなことである。
坂倉さんが正式に事務所を開いたのは、万博から帰国後、1940年の春だった。
当時の坂倉建築事務所は、木造、南京下見の大正式ポーチの付いた二階建ての洋館で、その玄関ホールの直ぐ右の扉から這入り、その右の奥まった所が製図室になっていた。
二階には南インドのドラヴィタ族やインドアーリア族の源となる南メソポタミアの王国スメル(Sumer)族、その東漸の終点を日本と考え、その名を「スメラクラブ」と付けた部屋があり、欧州から帰ってきた知識人、哲学者、音楽家、写真家、建築家など謂わば梁山泊だった。それは1937年日本の巴里博覧会協会が日本館漸の設計に求めたテーゼと同じ「日本文化を世界に宣揚するに足るもの」と言う、その思想や芸術を広める趣旨の組織であったが、少し気恥ずかしくて寄り付きにくい二階だった。しかし、三浦環のソプラノや原千恵子のピアノの温習(おさらい)の調べが響く事務所は、ユニークな雰囲気を持っていた。
そのような製図室の北隅の壁に窓を穿ち、木造のペリアン式戸棚の陰に板倉さん設計の洒落た扉とマルセイユ・ユニテの柱の様な足の付いた製図机の専用コーナーが存在していた。
我々の仕事は、新京南湖のボートハウスの計画で、平面が終わると立面、バースとなる訳で、平面では、窓や壁の平面寸法を次々に聞かれる。尺度の比例を暗算しているのがすぐ分り珍しい経験だった。コルにも聞かれていたのではと話し合っていた。そして、この頃はまだ、ル・コルビジュエの事務所では、モデュロールの研究前で黄金比採用が行われていただけに過ぎなかった。バースは、同僚の鱸と僕とが一枚づつインキングで仕上げ、人物や風景は、坂倉さんの画龍点晴だった。こんなことはその後行われていないと思う。坂倉さんがコルの事務所で描いた「パレ・デ・ソビィエト」のバースの中のル・コルビュジエの画龍点晴である王冠(この存在は坂倉さんに教えて貰った)とその上に立つ人物のことを思い出す。丁度その頃、商工省貿易局の招きでペリアンが来日し、小さなコーナー・スペースの中で、室を揺るがす「大きな声」で一心不乱に、議論を闘わす二人のディベイトは、切れ目なく延々と続き、まるで二人のヨーロッパが、そこにあるような気がした。
このようにペリアンに対しては激論される坂倉さんも前川さんが書かれた坂倉準三」への手紙の中で「ただし君を識って50年に近い年月の間、どういうわけか『建築』について話し合ったり議論したりしたことは殆ど僕の記憶にない」と言っておられように、僕等に対してあまり理論めいた話はされなかったし、僕達も敢えて求めなかった。
ただ記憶に残るものの一つは、ル・コルビジュジエの「住宅は住むための機械である」の意味は「住む」に重みがあり機械には重みはないとこと[ママ]を何回も繰り返されたことだった。ペリアンは機械について、宮殿も住宅も同じ精密さが必要であるとの意味だと言っていたが明快さは感じられなかった。これは飯箸邸(現今泉邸)の設計のときだったように思う。そのペリアンと坂倉さんとは、「選択、伝統、創造」と言うペリアンが日本に指導に来て作った作品展を準備中で、二人の議論はそのテーマの解説の表現法に有り、「真の伝統を生かすということは忠実に模倣をすることではない。伝統の永遠の法則に従って新しく創造することである。創造は即ち伝統の一部をなすものである。」に纏まった。造形的伝統からの決別を宣言したル・コルビジュジエの理論と二人が格闘した結論だと思う。
飯箸邸は平面を西沢がほぼ纏め、立面断面が小生に回ってきた。坂倉さんは自由に設計させてくれて折置き式小屋で棟を片寄にした3寸勾配の切妻屋根、尾州瓦葺に設計してもなにも言われなかった。機械とはかけ離れた木造の伝統構法であったが、そのままで完成した。和小屋は学校で習ったとはいえ初めてのことで大蔵省の同僚、東と苦心惨憺、纏めあげ組み上げたのは思い出に残る。立面にはペリアン設計のアルプス山小屋の大扉を持参の雑誌の中から拾いだし、居間の中央に取り付けた。建具断面は坂倉式扉である。この大扉は50年近くなるがびくともしないのは、ペリアン説明の精密さとも言えるが、日本の伝統職人の気骨だという気がする。この南面のファサードの画龍点晴は妻壁上部の蝶型換気窓の形で、工事進行中に現場で木摺り下地の状況を見ながらの坂倉さんの発想で決まった。白壁の仕上げは中途で住み込みのまま、一年据置き、壁の状況を見た上で仕上塗をしている。ル・コルビジュジエがヴォークレッソンの住宅の窓の形に苦しんだ話は有名で、ヴィデオの中でコル自身も述べている。1922年のその苦しみは蝶型換気窓で完了した。我々はチャップリンの「モダン・タイムズ」を、見ていて、機械に興味を持つ理科系人間であり、重みが「住む」にあると言う「建築の質の問題」からでは、その意味が曖昧だった。
しかし「住宅は住むための機械である」との表明自身は大変、興味深く感じていた。
後日、ル・コルビジュジエが来日し、茶室や料亭に目を向けなかった話は、説明法や時間の取り方が不適切だったと思う。日本家屋の本質は自然の中に住むことにあり、昔から古い住宅は自然の続きだった。これはコルの「ドミノ」の軀体床が土地の変形、土地の続きと考え二層三層の土地と考えるのに相当する。日本に開け放しの座敷や書院で庭の中にいる感覚に浸れるのは、ピロチや屋敷が庭の一部として計算されるのと同じ感覚ではなかろうか。例えば、犬山有楽宛の旧正伝院書院は、開け放たれて庭の一部になっており、「住宅は住むための機械である」との感覚からすれば、機械の部分としての書院や座敷は、放熱器か熱交換機に当たり、茶室「如庵」は、思考の中心、原動機のエンジン。勝手はボイラー。厠や雪隠も補助エンジンとして動いている。エンジンとは、思考専念の場である。
このような飛躍的な思考が、住宅は機械であるの論争当時の状態だったのだろうか。近未来の宇宙スペース・ステーションの中での住宅群は、完全に機械群になっている。
ル・コルビジュジエは、矢張り、サブリミナルな感覚で先を見据えて、絵を描きながら色々な現象を見ていたと思う。後年に始めた彫刻は、彼の機械ではなかったかと思ったりする。
ル・コルビジュジエが、若き日にラスキンから学んだ伝統と決別したのは、捨てた訳ではない。近代建築の理論を明解にするために思考の外に外しただけで、伝統や理論の純粋性を求めただけである。それでコルは手の芸術としての絵を、描き続けざるを得なくなり、彼の絵は決別した伝統へのレクイエムであり、純粋性に徹している。これをオーザンファンはピューリズムと名付けた。ペリアンと坂倉さんの合意の伝統論は、ル・コルビジュジエの流れを読み取った純粋な結論であったと言って良いだろう。マルセイユのユニテやロンシャンを依頼される頃のダイナミックなコルの造形は、鋼器時代から新しい造形へと広がり、木彫の外注は鋳鉄の外注であり機械との決別であった。彼の彫刻は機械へのレクイエムである。美術館の設計の前、事務所の旅行会で坂倉さんも一緒に大谷村から益子へと周り、浜田庄司の登り窯を尋ねた折、移築された農家の素晴らしい大黒柱のある囲炉裏辺を囲んで、浜田さんにその農家の移築の話を伺った。「取壊しの前日、農家の主は大黒柱に凭れながらちびりちびりと徳利を傾け一晩中、永年の伝承を持つ今まで住んだ家との別れをしんみりと惜しんでいた」との話は、家への愛着の深さや広さを伝え、住む家とは住宅であるなどと単純には語れない何者かが宿っているのを切実に感じたことだった。また、鎌倉美術館の現場で坂倉さんと共に鉄骨柱の色を決めかねているときに、「困ったときには、こんなとき『ル・コルビジュジエはどう考えるだろうか』と考える」と言われ、つづいて、「パリ万博日本館の玄関庇の形を考えていて困っていると、ル・コルビジュジエがやってきて、あのような形を描いてくれた」と、なにげなく話されたことが思い出される。その日本館入口のあの反り返ったポーチの庇の形が、日本の形になりきっているのを記憶の方も多いと思う。私は、坂倉さんの後期の作品の中で、例えば、羽島市庁舎、東洋レーヨン基礎研究所、枚岡市庁舎などの屋根の形の中に、その現象が現れているのではないかと、今、思い出したりしている。前川さんは、コルの事務所を出発するまえ、卒論で「ル・コルビジュジエ論」を書いて、外務省の諸々の手続きのもと出発しており、坂倉さんは「ゴシック建築に関する研究」を書いて、謂わば本能的に出発している。ル・コルビジュジエが、ゴシックの平面、断面以外の造形は好きではなかったことはまだ知られていない。しかしフランスに着いたばかりの坂倉さんにとっては、思いも付かないいろいろなことが幸いしていたような気がする。ル・コルビジュジエが、正式にフランス市民権を取得したばかりであること。コルの事務所が順調になってきて9年も待ったイヴォンヌとの正式結婚のすぐ後であったこと。同年配のペリアンがいたこと。ル・コルビジュジエ作品集「第1巻」が出たばかりであったこと。エコール・スペシャル・デ・トラヴォー・ビュブリックに直ぐ入学出来たこと。前川さんの言う「連帯感」が得られたこと。コルのアトリエでは、人種差別が全く無いこと。日本から初めての二人の青年、建築教育を日本で完了した真摯で、理論的な判断の持ち主、この二人に対するル・コルビジュジエの愛着は夫々違ったかたちで表されていたように思う。ル・コルビジュジエは、バウハウスの形式主義を嫌っており、柔軟性のある方法論を評価している。特に坂倉さんの芯のある柔軟性には目を掛けていたのではなかったろうか。ル・コルビジュジエのヴィデオによればピューリズムと言う名称も嫌っており、あれはオーザンファンが付けた名前だ、イズムは嫌いだ、仕事をすることに意味が有ると強調している。ヴィシーに属していた時ファッシストとの関係でも拒否しなかった、この柔軟性はル・コルビジュジエが人間にために仕事をしている強い信念と意志によることに気がつく。彼の心にはヒューマン・スケールは有るが、狭小なヒューマニズムは無いことに注意したい。パリ出発前の佐野利器からのアドヴァイスは、坂倉さんには幸福な長期滞在の原因だった気がしている。帰朝後パリ万博日本館建築のための再渡仏のときの団伊能教授との出会い。現地調査後の樹木による設計変更。そしてコルのアトリエにおける実地案の作成。西欧では珍しい構造と壁面構成、樹木を活かした環境に対して充分に考慮した新しい伝統の日本館の成功について審査委員長のペレーもグランプリを充分納得したことと思われる。直感的執念で運命的行動の結論が、色んな形で運を運んで来た恵まれた人だった。ペリアンは、来日に際して坂倉さんの要請で、いろいろなフランスにおける情報を持参している。その一つに、ル・コルビジュジエとジャン・プルヴェ・ペリアンの共同制作の組立建築、バチマン・ド・ラ・ゲール(戦争からの避難者の為の建物)の設計図がある。図面のバースには、例によって、コルの人物スケッチがあり、コルの1934年の農村復興計画を発展成熟させたもので、住居だけでなく学校、食堂、レクリエーション施設などを含む総合的な住居区を完成させるための新しい鉄骨構造による組立て式の設計図であった。その一部の多目的住棟を木造により海軍施設用に試作をすることになった。マッチ箱方式の形状保持理論を用いた単純明快な組立構法として補強金物は十分に使えたので、事務所裏の広場で試作し完成したが、南方作戦に適するとの結論が出たまま発展しなかった。そのような建築部品などの運送は、もうそんなに簡単な問題ではなかったと思う。1942年のレオナルド・ダ・ヴィンチ展覧会では、坂倉さんのパリにおける万博会場の経験を活かした方法論、日本館の木造詳細やペリアンの万博の農林省統計展示の手法が使われた。ダ・ヴィンチ展の後に、その終了後の廃材を利用して国内用の住宅施設に使うために、バチマン・ド・ラ・ゲール(当時戦争組立建築と呼んでいた)の日本的手法による試作研究を始めた。これには全然金物を用いないで箱根細工式に組立ててゆく日本独特の木組手法により洋式生活も考慮した豊かで面白い設計であったが休眠してしまった。これはそのあと、組立建築標準となり、村田担当の最小限住宅、加納邸として発展する。その頃、鱸は入隊していた。小生も陸軍文化工作班先遣部員として一人フィリピンへ、続いて坂倉さん、その後西沢、柳グループが続き、マニラ日本文化会館設営に従事する。そのあと坂倉事務所の仕事としてC型に土盛りされた直径30mの掩蓋用基礎の上に、戦闘機遮蔽用竹籠式ドームを比島の建築家と台湾の若い工人と一緒に造ったことを思い出すが、日本での留守中の仕事は上述の組立建築の標準化とその実地ということであった。1944年坂倉さんは組立建築再編のため帰国。西沢、駒田はパナイ島イロイロ造船所のスリップウエイ建設の為南下、連合軍の上陸で山中に逃避、戦後45年暮、西沢、柳、駒田らは不帰の所員に思いを残しつつ放心の帰国をする。鱸はすでに、三菱地所に移籍していた。戦後の坂倉事務所は、坂倉準三建築研究所と改名し、戦後の苦難の時代を迎える。東京ではGHQ委嘱の設計が主体で、木造の学校や商店、小住宅等を作っていた。大阪では支所(支店長西沢)を造り、デパートの増改築、木造の百貨店、大阪スタジアム、戦災復興住宅など、またペリアン式の坂倉家具の制作も始め、坂倉研究所を中心とした総合的な新しい組織で再出発する雰囲気が出来ていた。東京事務所も玄関の古いポーチの屋根庇を取壊し、コルの1937年パリ万博の新時代館(ル・パヴィヨン・デ・タン・ヌーヴォ)の入口庇を摸したエンタシスの付いた木造で新しい庇を作りあげるなど、所員の内容も充実してきた。1950年には、神奈川県立近代美術館の指名競技設計が行われることになる。既に、坂倉建築事務所が開かれて10年目、建築の作り方をよいやく覚え初めた頃、でもまだ未熟だった。幸いなペリアンが持参した図面は、新しい刺激をもたらしてくれたことだった。プルヴェとの共同作業の農村復興計画図面を見て、その原案であるコルの作品集第2巻も見直していた。それで坂倉さんの美術館外観のイメージが見付けられた。そのイメージは、計画案の工場生産式農家のピロチ住居を基本としている。吉村、山西、小室、北村などの若い連中の集りで夢中だったから立派にやり終えたのだと考える。其の頃は未だ構造コンサルタント組織の存在が少なく、構造計算事務所という依頼先の内部で、応募設計案の重複する混乱を避けたいため、又、坂倉案の建築形態が単純明快な造形であったので、構造を外注することも無く事務所内で纏め上げるという方針に決まった。私が技術留学した当時(1960年)のフランスでは、建築家の仕事は既に分業化し、ボザール(Ecole Nationale Superieure des Beaux-Arts:1968年閉鎖)を卒業して政府からのアーキテクト称号(DPLG)を受けた建築家協会に入会すると、クライアントから設計の受注が出来る。実地のときに、ビューロ・デ・ゼチュード(PolytechniqueやPonts et chausses出身のエンジニア・グループ)と言う構造コンサルタントに依頼し実地設計を進めるのが一般的で、その組織は構造問題のほか一般詳細も纏めてくれる状況だった。日本の建築家は1877年来日したジョサイヤ・コンドル(1852年~1920年)の指導で総合的技術を学んでおり、ヴィラール・ド・オヌクール以来、ヴィオレ・ル・デュックに至るフランスの建築家が工学的技術も行っていた時と同じ状況が続いている。フランスでは今、総合的に工学技術も見てゆく伝統復帰への機運が、再び高まって来ているようである。
日本ではフランス的だと言われ、フランスでは日本的だと思われる建築家・坂倉さん設計の神奈川県立近代美術館は、ハードの意匠だけは見ることが出来る。しかし竣工当時の最初の立面は改修工事の時に、コンクリート造を印象されるディテールに変わり当初の金属板による微妙な表現が失われたのは残念である。更に、見えない隠れたソフトの構造的思考も見るだけでは理解することが出来にくい。そこでソフトの内容を記憶だけではなく書き留めておくことは、坂倉さんの近代美術館の記録として必然的に必要になるものと考え、またジョサイヤ・コンドル指導の総合的な立場への伝統復帰を求める気持ちもあるので、手元に残っている資料を参考にして構造ソフトの説明をしておくことにした。
当時の構造計算基準は改定になり、新しい基準が出来、それに合致しないところが起きたとして安全性について、尚、現状のままでもなんら差し支え無いと思う。
建物自体の総重量は、見積用の材料拾いから、1200tと略算される。
井桁基礎の総重量は、同様に、240t。(長期用120t、短期用240t)
(杭に伝わる荷重は、長期には1/2、半分は直接、地盤に荷重を伝えている。)
杭の耐力は、当時の計算での本数は、114本。長期:12t、1360t。
短期:24t、2720t。
井桁基礎を含めた杭に掛かる総重量は、   長期:1320t<1360t。
短期:1440t<2720t。
杭の耐力の公式:Ra=(0.20Wh・H)/(S+0.02)、単位Wh=t
数値:Wh=0.5t、H=4m、S=0.01m、    H=m
隊錘の重量、落差、   最終貫入量        S=m
耐力:Ra=13t(長期)(但し、他の公式を用いると15tぐらいになる)
以上は現況の基礎関係の旧計算の状態であり直下型の地震のことはいない。若し、直下型の地震が来たときを考えると、1440tがもろに衝撃となって杭の荷重となるのは明らかである。しかし杭断面自身の許容応力度は、60t近くあり60t×114本=6840tになり、貫入量が増えるだけで凌げると思う。
現在、井桁基礎と土丹の間が約5mあり114本の杭がその間に挟まっている。杭の回りが、水の飽和状態の泥土だとせれば(前述条件の貫入量0.5mの記憶)建物の荷重と井桁基礎の荷重を加えたもの、1440tは地盤の急激な横揺れに対して、制震的に反応する筈である。緩やかな横揺れに対しても、免震的に反応する筈と思っている。泥土の状態については調査により確認が必要で、状況に変わりが無ければ美術館の安全性は充分確保されると考える。これは前に腐食試験で、20年ぐらいは大丈夫とされている。
さらに、この美術館の構法は、外被的なものは全て、取替可能であり、内包は手を加えることで、より機能精度を上げることが出来る工夫の構造になっている。この様に考えるのはサステナブルな建築は、出来るだけサステインすべきだと考えるからに外ならない。この構造についての記憶は、資料として残しておきたいと言う意味もある。
坂倉さんとル・コルビュジエとの信頼関係は、師弟のそれ以上の感謝の心で結ばれていた。サンパウロ・ビエンナーレ国際美術展における建築大賞の贈呈。ル・コルビュジェ、レジエ、ペリアン3人展。国際西洋美術館建設や国際巡回展「ル・コルビュジエ」日本展開催における協力。また東急文化会館パンテオン劇場のル・コルビュジエの大緞帳制作の依頼など。これは、ル・コルビュジエが。彼の師であるレプラトニエ先生にたいする純情とまで感じる敬愛の心や若き日に学んだラスキンへの思慕の感情も矢張り、坂倉さんへも伝わり、常に同じように自分に対する正直さが働いているように思われる。このようなことは並々ならぬ普段の努力や勤勉さが必要であるし、それに加えて、常に本質を見出すことが必要なことである。これらの感謝、正直、勤勉、の心は、福井県大野生まれの物理学者竹内均が自分の座右の銘にしているもので、関西流の商人道に近い伝統ではないかと述べている。しかし一言では、坂倉さんにとってのル・コルビュジエは、哲学者中村雄二郎の言う、20世紀のデミウルゴス、プラトニッシャンの言う造物の神、崇敬の最高の存在だった。坂倉準三建築研究所は、この美術館の後、1953年:東京銀行丸子クラブ、1954年:関西電力丸山発電所、東急会館、1955年国際文化会館と仕事は続き、1956年:東急文化会館では、前述のル・コルビュジエの緞帳が出来上る訳であるが、この辺りになると創業から凡そ15年も経過しており、10年ぐらい迄を創業期とすれば、外れ過ぎの気配も有り、また創業期についても駆け足ぎみに述べてきて、省略したものも多く、心残りではあるが、この辺りで筆を置くことにしよう。
(駒田知彦総合計画事務所にて、1996.11.30記)

坂倉準三と家具デザイン   長 大作  p22
私が坂倉準三研究所に入所した頃(1947年)は事務所では大して大きな建築の仕事もない中で家具のデザインは既に始っていました。坂倉さん(私が居た頃は坂倉先生と呼ばずに坂倉さんと呼ぶ習慣でした)の実家は岐阜の大きな造り酒屋ですが、その工場で使わなくなった酒樽の厚い杉板を使って大きな飾り戸棚とか、卓子、我々が使う製図台などが作られていました。そして普段建築の話をする時にはいつもル・コルビュジエの話をされるのに、家具のことになるとペリアンの名前が屢々出てくるのでした。・・・・・以下省略

•    レオナルド・ダ・ヴィンチ展会場  p46~p47
「アジア復興レオナルド・ダ・ヴィンチ展覧会」は1942年7月から10月まで上野池之端のあった産業館で開催された。主催は、日本世界文化復興会。情報局、陸軍省、海軍省、が後援した。展覧会の中身は、1939年ミラノで組織されたもので、1941年ニューヨーク万国博覧会に展示された後、「日伊文化協定、日伊同盟の積極的表現」として開催された。クラブ・シュメールの小島威彦が、この組織に深く関与していたこともあって、坂倉がその展示会場を設計することとなったようである。構成は、パリの日本館のスロープを木造で再現したといってよいもので、中庭には木造の建物がしつらえられて、その2階のバルコニーで歌を聴かせるようになっていた。「新しさを盛り上げるために内の床を砂利とブロックと間仕切とランプでアレンジし建物内部はうすいブルー一色で塗り込めて建物を感じさせないように心掛けると同時に、ランプと中庭の木造建物とブロック敷石と、玄関ポーチを強く現代的に扱うことにより通路と展示物以外のものは感じさせないようにという努力」(西澤文隆)がおこなわれた。展覧会は、万能の天才としてのレオナルドを浮かび上がらせると同時に、アジアを統一するにはレオナルドのような多才な人間を必要とすることを感じさせるという意図で構成され、南方進出を宣伝するための手段として使おうという類のものであった。
写真――雑誌「新建築」レオナルド展特別号表紙 1942年8月号 p46
写真――レオナルド展会場、入口立面図(40)、平面図(41)、断面図(42) p46
写真――レオナルド展。李王家一行と坂倉準三(右端)1942 p47
写真――レオナルド展。東京池之端 産業館 1942 p47

坂倉準三略年譜
•    岐阜県に生まれる。生家は裕福な造酒屋
•    第1高等学校文科入学
•    東京帝国大学美学美術史学科入学。同級生に富永惣一、今泉篤男などがいた。
はじめはルネッサンス絵画に関心を持っていたが、やがて建築に傾倒、建築史の講義などを受けている。
•    東京帝国大学卒業。卒業論文はゴシック建築論。卒業間近、富永惣一への手紙で
パリに行きル・コルビュジエに師事する決意を表す。フランスから帰国したばかりの建築家中村順平にボザール風の製図を学ぶ。
1928年 自作の長椅子に横になるペリアンの写真―p42(ピェール・ジャンヌレ撮影か?)
•    佐藤敬、富永惣一に見送られて横浜港より出発。9月半ば、フランスの前川國男と
初めて出会い、ル・コルビュジエへの紹介を依頼。エコール・スペシャル・デ・トラヴォ・ビュブリックに学ぶ。
•    ル・コルビュジエ/ピエール・ジャンヌのセーヴル街のアトリエに入る(-1936
年)。モンマルトルに居を構える。ソヴェトパレス案を最初に担当。
1932年 ヴェネツィアに遊ぶ:坂倉準三と富永惣一。p25に写真あり。
1935年 スキーをするペリアンと坂倉。p25に写真あり。
1936年 日本に帰国するが、まもなくパリ万国博覧会の日本館建設の施工管理を委託されてふたたび渡仏。
•    パリ万国博覧会日本館を完成。建築部門グランプリを受賞。CIAM国際常任委員
となる。ル・コルビュジエの都市計画に協力するためパリに残る。
•     フランスより帰国。目黒中丸にアトリエを開設。文化学院院長西村伊作の次女百
合と結婚。渡満。新京南湖住宅地計画をてがける。
•     クラブ・シュメール結成に参加。西澤文隆、駒田知彦、鱸恒治らが相次いで入所、
アトリエを赤坂桧町に移転。坂倉建築事務所を開設。新京南湖ボートハウス。コルビュジェ、アトリエを閉鎖。商工省貿易局の委嘱によりル・コルビュジエのアトリエの同僚であったデザイナー、シャルロット・ペリアンを貿易局輸出工芸指導官として招聘。
等々力飯箸邸{團伊能(1937年巴里博覧会の理事)の依頼。その後、今泉篤男(東大同窓、美術評論家)邸―当時は海軍関係しか使えなかったチーク材を、居間の床に使用し、床暖房になっている}
•     東京、大阪の高島屋でのペリアンの「選択・伝統・創造展」開催。坂倉はその会
場設営に協力し、カタログを共同執筆。等々力飯箸邸。組立建築を始める。
ペリアンと柳宗理が、食事をする写真―p42
•     レオナルド・ダ・ヴィンチ展開催に協力。国土建設戦争組立建築研究所を設立。
•     五反田池田山の西村伊作邸に居を移す。
•     組立建築の全国巡回展開催。
{宝塚龍村邸
•     空襲で住居、事務所焼失、広尾の仲小路彰邸に居を移す。
•     坂倉建築事務所を坂倉建築研究所と改称。
•     竹製家具の研究開発のために三保建築工芸株式会社を設立。
•     大阪支所開設(支店長 西澤文隆)。ローコストファーニチュア国際競技設計。
•     神奈川県立近代美術館の指名競技設計で実地案として採用される。
•     鎌倉稲村ヶ崎に西田幾多郎碑設計。神奈川県近代美術館、東京日仏学院竣工。
サンパウロ・ビエンナーレ建築審査委員としてル・コルビュジエ建築大賞を贈る。
•    渋谷駅、東急会館完成。
•    ル・コルビュジエ・レジェ・ペリアン3人展<芸術の総合への提案―パリ1955年>を東京で開催。銀座松屋にグッドデザインコーナー開設。国立西洋美術館計画のため来日したル・コルビュジエを東京、京都、鎌倉などに案内する。
西宮塩野邸(塩野義製薬社長)
{1950年代の住宅―松本幸四郎邸、岡本太郎邸、藤山愛一郎邸(1957年)等}
•    渋谷の東急文化会館(緞帳ル・コルビュジエ)。
1958年 ル・コルビュジエの国立西洋美術館の実地設計監理に前川國男、吉坂隆正とともに協力。
1960年 世界デザイン会議開催に尽力。
1964年 日本建築家協会会長に就任。
1966~67年 新宿駅、西口広場、西口ビル、小田急百貨店。
1969年 心筋こうそくにため死亡、享年68歳。
謝辞
本展を開催するにあたり、多くの方々からご指導、ご協力をいただきました。記して感謝申し上げます。とりわけ、坂倉家の皆様、坂倉建築研究所、坂倉インターナショナルの新旧スタッフの皆様には、多大なご尽力を賜りました。また、東京都立大学大学院の豊田健太郎氏には、資料の調査・整理・模型製作を始め、様々な面でご協力をいただきました。
坂倉ユリ、坂倉竹之助、木田三保、小島威彦、柳宗理、岸田衿子、井上清一、吉川逸治、坂田誠造、足田圭介、山本寛、駒田知彦、北村脩一、八巻朗、長大作、藤木忠善、藤木隆男、豊田健太郎、松隈洋、畑由起子、斉藤祐子、若林芳房、田村善次郎、高田立子、遠藤正淑、松永和夫、吉田信之、橋本純。
外務省外交資料館、武蔵野美術大学美術資料図書館、山形県立博物館、通産省、神奈川大学工学部建築科白浜研究室、東京都立大学工学部建築学科藤木研究室、新建築社。
Madame Charlotte Perriand,Paris
Madame Pernette Barsac,Paris
Fondation Le Cordusier,Paris
開館45周年記念展[Ⅱ]  建築家 坂倉準三の仕事
編集:神奈川県立近代美術館
発行:神奈川県立近代美術館
制作:大塚巧藝社
写真:Documentation Charlotte Perriand,Paris
Kollar,Paris
レトリア:高瀬良夫
坂倉建築研究所
坂倉ユリ
新建築社
彰国社、村沢文雄

6、現代日本建築家全集 11  坂倉準三・山口文象とRIA
1971年12月31日 第1版第1刷発行
1976年11月30日 第1版第3刷発行
編集著作者:栗田 勇
スタッフ:現代思想研究所
山鹿文雄、峰尾雅彦(担当)、黒住泰子、大江 茂、児島愛美子。
発行者:竹村 一
発行所:三一書房
東京都千代田区神田駿河台2-9
電 話:東京(291)3131

月 報――坂倉準三の思い出  富永惣一 ――――
坂倉がこの世を去ってからもう2年半にもなる。それは思いも寄らぬ早い死だった。・・・
•    ・・3ヶ年経って、いよいよ卒業期になって、始めて坂倉は「ゴティック建築」を卒業
論文のテーマにすると言った。それでも建築家になる気配は少しもなかった。その年坂倉は腸チブスに罹った。かなり思い症状だったので卒業論文は断念しなければならなかったばかりでなく、3ヶ月も養生に明け暮れした。そのため、私は1年先に卒業してしまったので、その頃から暫くは坂倉と会う機会がなかった。翌年大学を卒業する間近になって、坂倉に会うといきなり、卒業したらフランスにゆくと言った。不意を突かれて、私は戸惑ったが、話を聞くと、パリに行って建築を勉強するというので、また驚いたのである。建築のことは一切語らなかった坂倉が突如として建築家になると言い出したからである。
ともかく、こうして坂倉はその年の春だったか、何でも夜明け間近い午前4時頃、横浜の波止場を発った。フランス語も出来ないのにフランス船に乗って、大海に去った。見送るのは私ひとりでまだ明けやらぬ薄光のかなたに消えゆく船と青年坂倉の姿が今も目に浮ぶ。
何故建築家を志したのか、何故俄かにフランス行を決意したのか――それは解らない。ついに聞かずじまいになったが、今になって考えて見れば、この様な飛躍的な考え方が坂倉にはあった。次元を飛び越えて彼方に向う勇敢な志向がった。そしてひとたび思いつめると何が何でもひたむきに立ち向かう猪突の風もどこかに在していた。恐らく、腸チブスで寝ていた間に思いつき、思い立ったのであろう。しかし、建築家になるなら、思い切っていきなりフランスに行って革新の建築家ル・コルビュジェのアトリエへ飛び込もうと決心したのであろう。そうなれば、フランス語は知らなくても。これまたいきなりフランス船に飛び乗ろうということになったのであろう。私は当時は何のことかよく解らなかったが、やはりこの辺から坂倉の本領が出始めたのであった。やるからには、当時はまだあまり日本で取り沙汰されていなかったル・コルビュジェを目ざし、世界の第1線へ向うことを願った坂倉の真意は無謀に近いものだったが、素晴らしい青年の意気込みだったのである。
山口文象とRIA作品年譜
•    ウクライナ国立劇場(計画)
•    朝日新聞社本社
•    築地小劇場
•    大連映画劇場
•    黒部川第2発電所・ダム
•    関東学院グレセット記念講堂
1964年 石原慎太郎邸  神奈川県逗子市

川端達夫も小沢一郎も「2・26事件」に取り付かれているようだから、本日は、此処までとしますか?イギリスの首相公邸で「猫を飼う」様なので、少し気がかりですがね。
2011年2月26日  榎本東州 記

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