真珠湾攻撃から所沢市「芙蓉会 富士見産婦人科病院事件」まで パート18

真珠湾攻撃から所沢市「芙蓉会 富士見産婦人科病院事件」まで パート18

目 次
第32章 石原純と原阿佐緒・三ヵ島葭子・中川一政

 戦後、「館山市」に仮住まいしていたと云う“広津桃子”であるが、此所から道が二つに別れる。第1経路「甲」は“広津桃子・和郎”であり、第2経路「乙」は“石原純/原阿佐緒/三ヶ島葭子・寛二/中川一政/高橋玄洋”ということであるが。これは説明の便宜上「甲」「乙」に分けるものであって、甲乙は表裏一つものである。それは、大日本帝国国家主義を煽動した日本文化人らの闇社会に再び合流する事になる。訳である。戦争中に文化人は言論を封鎖或は、弾圧されたと云うのが、文部科学省推奨の「教科書(小中高大)」に書かれた“絵に描いた餅”の空虚な字面である。実は【文化人らが文化人の言論を特高(思想)警察を動かして弾圧し、言論封鎖を繰返した】と云う構図が炙(あぶ)り出されるのである。戦争中に国民に向かって政府が声だかに叫んだ『鬼畜米英/死んで護国の鬼となり、死して靖国神社で会う/欲しがりません勝つまでは/神(天皇)の大義(正義)/アジアの解放/シュメール文化圏の復興=レオナルド・ダヴィンチ展=スメラ学塾 等々』であるが、歴史上云われている「真珠湾攻撃の最後通牒ー野村大使」の問題については、前ににも述べた様に、大日本帝国海軍は、米国に在った日本大使館(野村全権大使=海軍軍人)を出て、アメリカ国内に別室の帝国海軍専用の活動拠点を設置し、そこで、日米英海軍の同盟関係を樹立した上で、連合艦隊は真珠湾攻撃に望んだ訳であるから、米国政府が「真珠湾攻撃を宣戦布告なき騙し討ち」と連呼するのは、アメリカ全国民に対するアメリカ政府の歴史を歪曲した“詭弁”である。それは、又、黒船のペリー来航と云う日米合作による「政治歌舞伎」にも共通しているのである。徳川幕府は自身の政治権力機構を堅持する目的で、浦賀にペリー艦隊を招待しておきながら、当時の江戸市民を利用して「開国」を演出し、徳川幕閣が主導権を握っていたから、幕府総出で「咸臨丸(オランダ製)」に乗ってアメリカへ観光旅行する事が出来た訳である。薩摩/長州/土佐は、流刑者“西郷隆盛”に騙されて、倒幕ダ!倒幕ダ!と日本中で暴れ回って実に無意味な内戦に明け暮れた結果が、韓国・満州・東南アジアへの戦争拡大となり、今日の世界政治における日本製原爆を核とした似非日米同盟の構図と成っている訳である。それは、西郷隆盛を胤とした次の者「寺崎英成(外交官)・飯田トウ隠(原田祖岳の弟子)→池田大作(創価学会SGI会長/協調会)→出口鉄城(東照寺国際参禅道場)・黒田大鵬{本名:黒田房之、神戸の酒鬼薔薇聖斗の元で働いた実行犯人の胤で、卵子は常陸宮華子。富士見産婦人科病院事件の関係者で、所沢市山口で沖電気(株)の社員寮を経営す。ゴルフ禅を提唱。所沢市山口の単立“来迎寺”安谷白雲(三宝興隆会)の侍者。}が、今日も連綿と世界覇権のテロ(遊撃)を継続しているのである。さて、話しを出発点の千葉県「館山市・鋸南町)」に戻すと、合流地点は核兵器を世界中に販売する観光の古都「京都府(日本共産党本部)」が、オバマ大統領に送付した“志位書簡”で云うところの【世界で唯一の被爆国である日本の「広島・長崎」】となる事は、毎度同じである。複数の専門分野の異なる人物を調べているが、いつも必ず同じ様に「日本製爆弾の製造と完成、そして使用」に辿り着く訳である。それは、戦時体制「国家総力戦・国家総動員法・国民精神総動員法・日蓮宗主義・禅と戦争・キリスト教団・救世軍・日本キリスト教婦人矯風会・文学主義」だからである。これらの問題の元兇が、天皇制を頂点とした「完全な縦型階級社会構造=日本・南北朝鮮結合双生児国家」であり、それは常に北朝鮮を動かす戦時体制社会と云う事だからある。千葉県館山市の第1経路「甲」を“広津桃子”とすれば、館山市の第2経路「乙」は“石原純・原阿佐緒・三ヵ島葭子(所沢)・中川一政=高橋玄洋(所沢)”である。第1経路“広津桃子”については、先に少し触れたので、此所では、第2経路の“石原純・原阿佐緒・三ヵ島葭子(所沢)・中川一政=高橋玄洋(所沢)”について述べる事にする。「石原純(いしはら じゅん)」とは、大日本帝国にアインシュタイン理論を紹介し、歌人“原阿佐緒”と恋愛問題(事件)を起こし、スキャンダルで有名に成ってしまった日本の理論物理学の嚆矢(こうし)である。石原純は、戦中に「明治期以前の日本には科学は無かった」と発言して物議をかもした訳である。それは、国家総動員法時代では「国威昂揚/戦意昂揚」に水をさす言動だったし日清・日露・満州事変・支那事変以来の“勝利”は、「菊之紋章=天皇制」の威光ではない。と云う歴史観となり、「現人神國=天皇制(皇国史観)は、科学的に見て嘘」と云う事になるからである。その事について、戦争中に過激なまでに「国家総動員運動を宣伝し、1945年8月15日の昼過ぎには平和主義者に早変わりし、戦争賛美(推進論)者を、弾圧する行為は、“差別”だ。」云い出した、過激な戦争指導者で差別文学の嚆矢(こうし)「住井すゑ(橋のない川)」が、此所でも登場する訳である。戦前・戦中は国民に向かって、だれ彼の見境なく「非国民/国賊」を連呼し、戦争指導体制を強力に推進しておきながら、戦後は、一転して、戦争指導者を弾劾するのは「部落差別」だと叫んでいた“住井すゑ”が、天才理論物理学者“石原純”の死去について、次の様に述べている。
最初は、『科学ジャーナリズムの先駆者ー評伝 石原 純ー』(西尾成子著、岩波書店刊)の文献と注からとし、次に、この出典の原文である『住井すゑ作品集 第8巻ー「時に聴く」』(新潮社 1999年)を掲載する。
1、『科学ジャーナリズムの先駆者ー評伝 石原 純ー』(西尾成子著、岩波書店刊、2011年9月28日発行)の“文献と注 p60で、次の様に書かれている。《なかには、住井すゑのように、自動車事
   故だといわれているが、何らかの組織に殺されたのではないか、と疑っている人もいる。彼女はその組織は進駐軍というより、別の組織を疑っていたようだ。すぐあとに石原の理論を煮詰めて
   いくと天皇制批判になる、と語っている。:住井すゑ・寿岳文章(対談)「時に聴く」『住井すゑ作品集 第8巻』(新潮社 1999年)》と書かれている。
2、『住井すゑ作品集 第8巻 ー住井すゑ・寿岳文章(対談)「時に聴く」ー』{株式会社新潮社刊、1999年8月10日発行。住井すゑと寿岳文章との対談の時期は、1988年5月頃で、対談集の刊行
   1989年9月である。
   *寿岳文章(じゅがく ぶんしょう)1900年3月28日~1992年1月16日、浄土真宗僧侶、本名:規矩王麻呂、姉の婚家の養子となる。
   *住井すゑ(本名:犬田すゑ、1902年(明治35)1月7日~1997年(平成9)6月16日午後10時10分、奈良県出身。}
  住井すゑと寿岳の対談の原文では、次の様に書かれている。
  《住井:歌人の原阿佐緒さんとしばらく千葉に住んでおいででした。私がうかがったのは原阿佐緒さんと別れられた直後だったでしょう。元の奥さんと杉並の東
  田町の、なかなか立派なお屋敷にお住いでした。私みたいな子供背負った、まるで物貰いみたいなかっこうした者を、よくまア書斎に上げてくだすったと今でも不思議に思います。もうなんてこ
  ともなしに書斎に上がんなさい、って。そして私のわからないことを教えてくだすったわけです。それからしばらくして私は夫の郷里に帰りました。石原先生は戦後のどさくさの中で、自動車事
  故に遭われ、しばらくして亡くなられたと記憶してます。自動車事故だっていうけれど、私あれは何かの組織に殺されたんじゃないかと疑いたくなるんです。
  寿岳:戦後は、奇々怪々な事件が次から次へと起こりましたものね。
  住井:自動車事故で、そんなことで先生が亡くなるわけない気がするんですよねえ。あの時期に、石原先生の死、今でも私、疑問に思っているんです。殺されたんじゃないのか、と。先生の理論
  を煮詰めていきますと、世襲の天皇制は宇宙の法則にはずれることになりましょうから―――。菊のタブー》
と、書かれている。西尾成子教授は誌面の関係からか『天皇制批判になる』と書いているのかも知れないが、住井すゑ本人は『世襲の天皇制は宇宙の法則にはずれることになりましょうから』と語っている。次の章で、住井すゑは「菊のタブー」について語っている訳だから、西尾成子教授が書き換えた『天皇制批判になる』でも意味は通じるのかもしれないが、西尾成子教授は『科学ジャーナリズム』の中では、石原純が提唱しているのは、田辺元の『科学的精神』だと云うのだから、話しの筋道から云えば、住井すゑの『世襲の天皇制は宇宙の法則にはずれることになりましょうから』という考え方の方が、『科学的精神』である。これを前言の田辺元/石原純の思想に当てはめて云えば『世襲の天皇制は科学的精神(宇宙の法則)にはずれることになりましょうから』となり、西尾成子教授の『天皇制批判になる』と云う思想よりも一歩踏み込んでいる訳である。しかし、西尾成子教授は、1934年(大正9)~1936年(大正11)頃の「日本の科学教育」の状況について、次の様に述べている。《p248~p250 田辺(元)に刺戟されて、小倉金之助(図42)も、気迫を込めて論説「自然科学者の任務」を『中央公論』1936年12月号に書いた。小倉はすでに大正時代から初等・中学の数学・科学教育の目的は「科学的精神」を養うことにあると主張していた。1934年に松田文部大臣によって知育偏重論がでたとき、早速この立場から反論を加え、また同じころナチスで「ドイツ科学」が唱えられたのに対しても、科学的精神によってはげしい批判を加えていた。そして小倉は田辺による自然科学者への非難をうけて、日本の科学者のそのような科学的精神の欠如は日本の科学の封建的特質に根源があると論じ、いまこそ自然科学者はそのような欠陥を克服して、反科学主義に対して科学を擁護するために立ち上がるべきだと主張したのである。石原は、『科学』1937年(大正12)1月号の巻頭言「1937への警告」で、田辺、小倉の論文に賛意を現し、科学擁護の必要を強調した。そして「社会事情と科学的精神」と題する論説を『科学ペン』1937年3月号に寄稿し、ファシズムの危険を避ける唯一の道は科学的精神を徹底することであると主張した。このなかで印象的な文章を引用する。・・・中略・・・さらにファシズムが進行し、総力戦体制の強化を急ぐ支配層が技術を発展させる必要に迫られて、その限りにおいて科学研究の拡充、研究体制の合理化を要求する1940年頃からは、科学的精神の強化は政府のスローガンとなり、ここにおいて、従来、科学的精神をよりどころとして批判的な言論を展開していた科学者たちは、いまや 科学的精神の強調 において、政府を声援する立場に回ることになった。》と云うのである。つまり<当初「科学的精神の強調」で在った筈のものが、大日本帝国政府の政策決定機関「大原社会問題研究所・協調会」に組み込まれ「科学的精神の社会的協調精神」即ち国民精神総動員法の科学的施行>に成って行くと云う訳の様だ、それが、朝永振一郎の「繰り込み理論」でもあるまいにね!今でも昔でも「理化学研究所」だけが『自由の楽園』で政府の法律の外にあり、無法な言動と、研究と称して金銭を湯水の如くに浪費している訳だから、石原純らが提唱していた「科学的精神の強調」が《科学主義工業の精神即ち「科学を戦争目的とす=戦争をもって科学主義工業が発展する」》であった事に変わりはないのである。それが、現在2013年5月6日のニュースとして配信された<文部科学省は来年度から、理化学研究所のスーパーコンピューター「京(けい)」の約100倍の性能を持つ「エクサ(100京)級スパコン」の開発に着手する方針を固めた。:読売新聞 5月6日(月)14時58分配信>と繋がる予算を度外視して文部科学省の官僚政治である。この「エクサ(100京)級のスパコン」の空調設備から建物全体を含む消費電力量が、福島原発の発電量級なら無意味だし、「エクサ(100京)級のスパコン」の使用目的が不明だ。宇宙の拡散とか?臨界前核実験の核分裂モデルの予測とか?地球誕生期の予測モデルとか?ブラックホール理論の検証とか?iPSモデルの演算処理とか?科学者らの知的欲望が、再び戦争科学に成ることは歴史が証明しているのに、暴走する科学主義がやがてSF小説が警告する地球の自然環境を破壊し尽してしまう訳である。それが、「理研の原爆(核兵器)主義」である。
さて、話しを<岩波茂雄ー石原純ー原阿佐緒ー三ヵ島葭子ー中川一政(怪獣一家)ー高橋玄洋・・・等>の問題に戻すと、歌壇『アララギ』にしても、平塚雷鳥の『青鞜』にしても、一般で云う「不純異性交渉/姦通罪/W不倫」の関係ばかりである。夫々の当事者を略年表にして見ると、原阿佐緒と三ヵ島葭子の関係は家庭が在りながら,何か同性愛的に見える。又、岩波茂雄と石原純は生年月日も死亡時期も“ほぼ一緒”と云うことが、不思議に思える。それは、岩波茂雄なくして、石原純は存在しないし、石原純なくして、岩波茂雄も存在しないと云う関係である。一体誰を中心(核)に据えて、何故?日本が「世界覇権の全方向的戦争(軍事的戦闘ー非軍事的戦争ー文化戦争ー平和戦争)」を始めたのか?その思想的言動は何処が出発点なのか?を探っていけるのか?と云う問題が最初に来る。そこで、仮基準点(仮定の核)として、歌人「原阿佐緒」を核に据えて考えて見ると、次の様な人間関係の繋がりが出来る。
〼原阿佐緒ー与謝野晶子ー鉄幹
〼原阿佐緒ー三ヵ島葭子ー倉片寛一中川一政
〼原阿佐緒ー三ヵ島葭子ー若山牧水(所沢)
〼原阿佐緒ー小原要逸ー古泉千樫ー庄子勇
〼原阿佐緒ー斎藤茂吉ー石原純
〼原阿佐緒ー石原純ー岩波茂雄(岩波書店)
〼原阿佐緒ー三ヵ島葭子ー今井邦子(徳島)ー岩波香代子
〼原阿佐緒ー下中弥三郎(平凡社)ー犬田卯(しげる。水平社)ー住井すゑ(犬田すゑ)
〼原阿佐緒ー三ヶ島葭子の妹千代子
〼原阿佐緒ー宮城県の遠藤家
〼原阿佐緒ー中川一政と親族関係ー杉並区永福寺
〼原阿佐緒ー縁戚(えんせき)の四条派の画家遠藤速雄
〼原阿佐緒ー海老名弾正の教会へ通う
〼原阿佐緒ー数寄屋橋畔に酒場「蕭々(しょうしょう)園阿佐緒の家」の常連客
〼原阿佐緒ー大阪、酒場「ニューヨークサロン」。梅田阪急終点東北側に酒場「あさおの家」の常連客
以上、15項目の人間関係が抽出される。それは、原阿佐緒と云う「太陽に照らされた月の楽園=太陽の鏡」とも呼べるものである。この15項目に繰り広げられる世界は「色恋ざた」とも見えるが、それは海面の波だと考えれば、その海水面の下の深海から、波を発生させている思想集団が存在する筈である。それを解く鍵は、15項目に関連する物とは何か?と云う事である。それは、前章で述べた「キリスト教団」の存在である。石原純・石原謙兄妹もキリスト教徒であり、「アララギ」などの歌人もキリスト教に関係している訳である。明治期から、幕臣の多くが「基督教(耶蘇教)」に入信し、洗礼を受けたり、キリスト教の信仰から改宗したりしている。そこに「神道」が跋扈して、麻生太郎副首相の護国社「靖国神社」の『皇国の歴史観=今泉定介「世界皇国」化』に到っている訳である。この『世界皇国』思想とキリスト教は矛盾するかに見えるが、同じ根っこだから、矛盾せずに共闘してる訳である。キリスト教の神と、神道の神は同じ「現神人=天皇」思想だからである。唯一神として崇めているのに、日本のキリスト教徒は「嘆きの壁」の前ではキリストを妄想し、靖国神社(明治神宮/出雲大社/伊勢神宮/氷川神社・・・)では、皇居(徳川幕府の居城)の「現神人=天皇」を念じている。国家主義者の笹川良一・頭山満・四元義隆などの関係者もキリスト教徒である。だから“曽野綾子”が笹川財団(日本船舶振興財団=日本・東京財団)のトップに納まり、国民に向かって「奴隷とは褒め言葉よ!国民は奴隷よ!ホホホ」とテレビの教養番組で叫ぶ訳である。インドのお釈迦さんの「仏教」を信仰している日本人は誰一人として存在しないし、仏教の能書きを垂れている大学教授や自称「仏教研究所」だけが繁盛しているだけである。それを、外国人は有り難がっているし、母国で自分の地位獲得に利用しているだけである。インドを見ればお釈迦さんが誕生したことすら怪しい訳である。インドの物欲主義が精神文化を育成できるとは考えられない。マニ教(拝火教)やオウム真理教団の「シバ神」の信仰ならあるのかもしれない。
さて、西尾成子教授の「石原純の自伝」には、彦坂忠義との関係が一切出てこない理由が理解できない。彦坂忠義の「核モデル」が、世界第1号(1番でなければダメ)の「日本製原子爆弾製造」の成功に貢献しているのだから、当然、石原純も関係していた訳である。だから、オウム真理教団の村井秀夫の様に、殺害されたと考えれば、住井すゑの発言は的を得ている訳であるし、住井すゑ自身も石原純謀殺の共同謀議に参加していたと見るべきである。
石原純は、自身は主宰している<新短歌誌『新短歌』第6巻第4号(1939年4月)>に掲載された、石原の作品「数理の謎」の3小節の一つで、次の様に語っている。
【むづかしげな数式がならんでいる。原子核がふしぎな分裂を見せて、精神病者を哭かしてしまった。】(科学ジャーナリズムの先駆者ー評伝石原純ー p262) 
と云う訳で、間接的ながら、日本が世界第1号の原子爆弾の製造と使用に成功した事に対する告白をしていると読める訳である。
因みに、石原純の自動車事故に関する新聞記事は次のように報道している。
*1947年(昭和22)1月21日 讀賣新聞【石原純博士死去】
 <石原純博士(東北帝大教授 理博)れき(原字不明)車事故で療養中のところ19日午後5時50分千葉県安房郡保田町本郷の自宅で死去、享年67、博士はアインシュタイン相対性原理を初めて日本 
 に紹介した人で同時にアララギ派の歌人として知られ、原阿佐緒女史との恋愛事件は有名。(原文は旧字体)
 尚、朝日新聞では「脳溢血(のういっけつ)」で死亡。鬲瓦(れき)か?
*鬲瓦=鬲に同じ:かなへの一種。瓦製と金属製との二種あり。鼎(かなえ)に似て3足、足は中空で曲り、その間隔がひろい。食物を煮るに用ひられる。くびきー車軛{車の轅(ながえ)の端につ
 けて、牛馬の後頸にかける横木、自由を束縛するもの。軛を争う(互いにはりあって勝負を争う)ー轢死の轢ならば、轢車となるが、車/車と成ってしまうので、轢死の櫟ではない可能性が高い。
鬲の“くびき”なら、車のバンパー(bumper)なら、石原純の事故状況にもあてはまる訳である。それなら、「鼎」の3足と云う意味は、3人の理論物理学者が広島・長崎の原子爆弾使用に関係していたと暗示している事になる。それならば、その3人の名前は『石原純・彦坂忠義・湯川秀樹(=仁科芳雄)』となる訳である。理研の存在が問題なのである。

識者の便宜の為に、浅学非才ではあるが、次に“石原純”の略歴と、その関係人物の略歴を交えて掲載すると、以下の通りである。
尚、参考書籍は、<「科学ジャーナリズムの先駆者ー評伝 石原純ー」西尾成子著、岩波書店>を主とし、1980年(昭和55)11月3日 千葉県鋸南町文化祭「展示目録 石原純・原阿佐緒の資料」も参考としたが、この「展示品目録」とインターネット上では、石原純の父量(ひとし)氏の死亡年度が、『1903年(明治36)』と成っている物が多い。しかし、西尾成子教授の資料では、石原純の日記が掲載されており、それを根拠とし、石原量氏の死亡年度を『1904年(明治37』とした。

科学ジャーナリズムの先駆者
ー評伝 石原 純ー
2011年9月28日 第1刷発行
著 者:西尾成子
発行者:山口昭男
発行所:株式会社 岩波書店
〒101ー8002
東京都千代田区一ツ橋2-5-5
電話案内:03-5210-4000
印 刷:三秀舎
製 本:松岳社
ISBN 978ー4ー00ー005213ー9
*西尾成子(にしお しげこ)
1935年東京生まれ、お茶の水女子大学理学部物理学科卒業。
日本科学情報センター所員、日本大学理工学部教授などを経て、現在、日本大学名誉教授(理学博士)。
*本書は、2005年11月から2010年11月までの5年間、岩波『科学』に、31回連載されたものとの事である。

1875年(明治8)石原量(いしはら ひとし)・母しんを伴って上京す。上京後、間もなく東京市京橋區築地の新栄教会で宣教師タムスンの洗礼を受けた。(ちなみに、初期プロテスタント入信者のほとんどは、旧幕府側藩の武士であったという)量は本郷區本郷4番地39番地に土地と家屋を買い求めそこを住まいとし、日本基督教会派の本郷教会の設立に尽力した。 
  [石原量1849~1904年、三河西端(にしばた)藩士。西端藩は現在の愛知県碧南(へきなん)市湖西(こせい)町周辺。藩の石高1万500石。]
1876年(明治9)石原量・本郷日本基督教会(本郷區春木町2丁目29番地)の長老となる。
1879年(明治12)9月石原量・青木千勢結婚す。
  [母 千勢(ちせ)、1861~1887年。本郷の生まれ。彼女の母・青木澄子も1879年に築地の新栄教会で量と同様に宣教師タムスンの洗礼を受けた。その影響で同じ年、千勢も入信し、その年の   
   春ごろから本郷教会に通いはじめ、9月量と結婚した。]
1881年(明治14)
 1月15日 父・石原量 30歳と母・千勢 18歳(旧姓青木、戸籍では“ち勢”)の長男として東京市本郷区に生まれる。
  [1882年8月 弟・謙(のちに高名なキリスト教史学者)生まれる。]
  [1885年6月 妹・露(戸籍ではつゆ)生まれる。]
 ◇8月27日 岩波茂雄 父義質(よしもと)、母うたの長男として長野県諏訪郡中洲村金子(現諏訪市、1955年4月1日編入)に生まれる。
       {母うたは下諏訪の井上善次郎の妹で、善次郎は製糸場を設けて一時かなり手広くやっていたが、失敗して東京神田で薪炭商を営んだいた。:岩波茂雄伝 安倍能成著p4}
1883年(明治)石原量・牧師となる。
1887年(明治20)、6歳
 9月 本郷区立本郷小学校入学、12月 母・千勢没。
 長岡半太郎ー東京帝国大学卒業ス。
1894年(明治27)、13歳
 3月 同校卒業、4月 私立郁文館中学入学。
    父 石原量・牧師を辞職し、教会とは無縁の人となる。
1895年(明治28)、14歳
 田丸卓郎ー東京帝国大学卒業ス。
1896年(明治29)、15歳
1897年(明治30)、16歳
 本多光太郎ー東京帝国大学卒業ス。
1898年(明治31)、17歳
 3月 同校卒業、
1899年(明治32)、18歳
 9月 第1高等学校(理科)入学。
 桑木彧雄ー東京帝国大学物理学科を卒業ス。
▽1901年(明治34)、20歳 6月4日東京帝大総長“菊池大麓”が文部大臣に就任。東京帝大総長には、“山川健次郎”が就任。
1902年(明治35)、21歳
 7月 同校卒業、
 9月 東京帝国大学理科大学理論物理学科入学、石原阿都志(いしはら あつし)の名前で作歌を始める。
(新聞『日本』に作品を投稿し始める。03年『馬酔木(あしび) 』が創刊されると、同誌に投稿。伊藤左千夫を訪れる。以後、短歌の師と仰ぐ。1908年創刊の『アララギ』同人)
<彦坂忠彦ー1902年(明治35)12月25日、彦坂貞次と妻ひろ(旧姓 坂倉)の第8子(4男)として、愛知県渥美郡老津村に生れる。父貞次は、医師鈴木玄拙の次男、福沢塾で英学を修め海外雄飛
 の志を抱いたが、長兄が早世したため郷里に呼びもどされ、次代に夢を託しながら村の青少年の教育に無報酬であたった。母ひろは、渡辺華山とともに田原藩の三山と称された鈴木春山の孫。>
1903年(明治36)、22歳
 寺田寅彦ー東京帝国大学実験物理学科を卒業ス。
1904年(明治37)、23歳ー大学留年
 11月21日 父・量没 54歳。弟謙は回復し12月25日退院したが、この時まで父の死を知らされてなかった。両人の病名は腸チフス。
    弟・謙 東京帝国大学文科史学科に入学。1905年同大学哲学科に転科す。尚、文科では岩波茂雄(後の岩波書店社長)とも同級だった。
▽1905年(明治38)、24歳 友人“佐野貞衛(会津の人)”が小笠原父島で肋膜炎の養寮中に死去。
▽1905年(明治38)、岩波茂雄ー東京帝大文学部哲学科選科に入る。神田区北神保町16 赤石ヨシ方に下宿、翌年ヨシと婚約(ヨシは北海道石狩町生れ、実父母は岩手県出身。当時、共立女子職業学校へ在学中で、養祖母とともに住居)
1906年(明治39)、25歳
 7月 同学卒業、同学大学院入学(長岡半太郎研究室)
?月 妹 露(つゆ) 陸軍歩兵大尉・伊藤政之助と結婚し、牛込区北山伏町に転居。
   純と謙は、祖母・青木澄子の家を出て、小石川区小日向茗荷谷町56に転居。
1907年(明治40)26歳
 早稲田大学(清国留学生部予科/理化学大意)・東洋商業専門学校・海城中学・錦城中学で講師。
 1月1日 友人“田丸節郎(田丸卓郎の弟)”の自宅で夜まで話す。[晩餐の御馳走になった。牛の舌といふもの始て味ふ柔くて旨いものである。瓦斯論のこと、ラヂウムのこと、瀬戸物膨脹のこと、
 室内温度保持のことなど研学上の雑談をなす]
 7月 橋元逸子(天文学者 橋元昌矣の姉)と結婚。
 この年の後半に、アインシュタインの相対論文を談話会で報告した時期か?
 桑木彧雄(くわき いくお。1899年物理卒、哲学者 桑木厳翼くわき げんよくの弟)「電子ノ形状二就テ」と題する解説の中で、日本で最初にアインシュタインの相対論を紹介す。
 天野三祐ー実驗物理学科を卒業。
1908年(明治41)27歳
 4月 陸軍砲工学校教授
 9月 『美しき光波』(東京弘道館)
 10月13日 『アララギ』創刊号刊行(山武郡睦岡村 埴谷蕨真の宅から)以後、アララギ同人として長塚節、島木赤彦、平福百穂、古泉千樫、釈超空(折口信夫)、斎藤茂吉等と活躍、精進をつづ
       ける。
1909年(明治42)28歳
 『アララギ』編輯出版所を伊藤左千夫の許に移す。(本所深川)
▽1910年(明治43)11月 アインシュタインが、共同研究者のラウプ宛の手紙に次のように書いている。
 [最近、ある日本人(石原純?)から相対論関係論文をいくつか受け取った。そのうちの一つは動電力(elek-tromotorische Kraft)に関するもので、これまでこの問題に関して書かれたうちで疑
  わしい点のない唯一のものだと私は思う。εとμの値が一定の物質についてならば、彼の結論は正しいと思う]
1911年(明治44)30歳
 5月 東北帝国大学理科大学助教授、仙台市北3番町36に住む。
1912年(明治45)31歳
 3月末 外国(ヨーロッパ)留学を命ぜらる。
 3月22日金曜日 夜、東京帝国大学理科大学の物理教室談話会に出席ー寺田寅彦の日記から。
 3月24日 伊藤左千夫の許で「アララギ」主催の壮行会開かれる。
      {仙台の留守宅には妻・逸子、幼子2人、長女・雅代、長男・紘を残していた。}
 3月31日 午后6時30分新橋を発して欧州留学の途につく。
 4月01日 朝5時35分、米原着。
     7時40分発 敦賀行きの汽車に乗る。敦賀では旅順工科学堂(のちの旅順工科大学)教授の十時と同行、露団義勇艦隊汽船に乗る。
     午後5時半出航。
 4月03日 8時ウラジオストック着港。白根と云う周旋人が来て万事(税関手続き、市内案内)を扱う。
      午後2時40分発の汽車に乗る。同行4人の日本人、十時と神戸川崎造船所の2人、稲野と大和、同室。
      夜9時ポグニチーナヤに着く。
 4月04日 12時前ハルピン着(40分停車)午後6時前チチハル。
 4月05日 7時過ぎマンチュリア、午後3時オロヴィアンナイア、6時アドリアノフスク、9時チタ。
 4月06日 10時頃ウェルニーヂンスク駅を過ぎ、バイカルに着く。イルクーツ市で列車を乗り換える。
 4月07日 停車場で外に出る。一面の雪景色。三菱造船の山口と職工4人も同乗して、日本人は全部で9人。
 4月08日 エニセイ河ーチューリン河ーポゴトルに着く、次にマーリンスク駅ータイガ駅。
 4月09日 昼過ぎオムスクに着く。オビ河の支流イルチッシュ河を渡る。
 4月10日 朝9時半チエリアビンスク着、シベリア第1の大きな駅。
 4月11日 9時頃サマラ駅。
 4月12日 朝5時過ぎに起き、下車の準備。9時半モスコー・クールスク停車場に着く。
      副領事・花岡止郎の名刺をもった案内人が来た。花岡は東京帝国大学法科大学1906年卒業。分官高等試験1907年合格、石原と同学年の旧友。風邪気味。花岡と市中見物。
 4月13日 10時回復。クレムリン見物。2時(モスコー時間)に出る。国際列車の切符が入手できず国内列車に乗る。
 4月14日 11時ブカレストに停まるや、20分の停車時間に食事をとる。3時ワルサウ・コーベル停車場に着く。馬車でブレスト停車場へ。4時半に発車。
      “凡てが野蛮的な露国式から文明的な独逸式に近づいたやうな気がする”夜10時アレキサンドロヴオ着。11時独逸トールン着。
 4月15日 午前6時シュレージッシェ・ストラーセ停車場に停まり、同15分フリードリッヒ・ストラーセに到着。Motz,stu,21の日本料理屋“松下”に行く。
      小林巌、小出、川口徳三、そして、田丸節郎が来た。5人で夜12時近くまで話し合う。
 4月24日(水) 朝10時半発の急行列車でベルリンを発って、8時34分ミュンヘン着。
        後輩の木下正雄が迎えた。アンハルトペンシオン(Schraudolphstr,1)部屋代、食事付き120マルク。ベルリッツ学校へ行って語学の授業を申し込む。
 10月08日(火)山田耕筰来訪。
     ミュンヘンのゾンマーフェルト、ベルリンのブランク、チューリヒのアインシュタインのもとで、それぞれ半年間学ぶ。
 10月にロンドンへ渡り、
▽(大正元)4月、倉片寛一、友人中川一政と共に、船堀村を訪ねた折に、三ヵ島葭子(よし)と出合う。
1914年(大正2)32歳
 3月 パリを経由してベルリンを再び訪る。
 5月 帰国。
1914年(大正3)33歳
 5月 東北帝国大学教授
▽岩波茂雄ーこの年の暮れ、年末から翌年にかけて台湾総督府図書館(太田為三郎先生)から、1万円の図書納入を一手に託される。(当時、店の1日の売り上げが10円~20円の時代だった>
1915年(大正4)34歳
▽岩波茂雄ー2月1日岩波書店に“堤常”が入店。
▽岩波書店ー『アララギ』発売所となる。

1916年(大正5)35歳
1917年(大正6)36歳
1918年(大正7)37歳

1919年(大正8)38歳
 5月 相対論および量子論の研究により帝国学士院恩賜賞受賞。
  <彦坂忠義ー1920年(大正9)第二高等学校(旧制、在仙台市)に入学。>
1920年(大正9)39歳
 夏 信濃木崎夏季大学
 11月 京都帝国大学文学部の依嘱により、約1ヵ月間同学で物理学理論を講じた。
1921年(大正10)40歳 
▽岩波茂雄ー7月石原純の東北大学辞職後の生活安定をはかり助力す。(岩波茂雄伝:)
 8月 アララギ派歌人・原阿佐緒との恋愛が新聞に取り沙汰され、東北帝国大学理学部教授休職(2年後辞職)。
    信濃へ
 11月 千葉県安房郡保田町(現千葉県安房郡鋸南町保田)に、原阿佐緒と住む(靉日山荘=「紫花山房」)
 12月 『アインスタインと相対性理論』(改造社)、『相対性原理』(科学叢書第1編、岩波書店)、
    『エーテルと相対性原理の話』(通俗科学叢書第1編、岩波書店)
    『アララギ』を離れる。
▽岩波茂雄ー寺田寅彦、石原純編集『科学叢書』『通俗科学叢書』刊行。
1922年(大正11)41歳
 5月 最初の歌集『靉日』
 11~12月 アインシュタイン来日、アインシュタインに同行して、講演の通訳、解説を務める。
 11月 「アインシュタイン全集 第1巻』(改造社、第2巻1923年5月、第3巻1924年4月、第4巻1923年8月)
1923年(大正12)42歳
 2月 『アインシュタイン教授講演録』(改造社)
 4月 『物理学の基礎的諸問題 第1輯』(岩波書店)
 5月 『人間愛』(一元社)不定型自由律の、いわゆる新短歌を提唱。
<彦坂忠義ー1923年(大正12)東北帝国大学理学部物理学科に入学。{山岳部に属し、ハイゼンベルグの強磁性論を手がけ、関係論文一篇を仕上げた後、実験データーだけが山積していた原子核構造論をとり上げ、その成果を携え颯爽と学会に登場した。・・・広根徳太郎p25}>
1924年(大正13)43歳
 7月 『現代の自然科学』(通俗科学叢書第2編、岩波書店)
 7月 満鉄の招きで桑木厳翼とともに奉天(現在の瀋陽)、大連などで講演。
1925年(大正14)45歳
 1月 『科学と人生』(興学会出版部)
 4月 『物理学の基礎的諸問題 第2輯』(岩波書店)
1926年(大正15)46歳
▽岩波書店ー会計制度を確定し、複式簿記を採用。当時第1銀行重役だった岩波の友人明石照男の推薦した、同行員曽志崎誠二(後同行重役、現第1信託銀行社長)の指導により、岩波書店の会計責任者の堤常・久子夫婦の経理関係相談役となる。
  <彦坂忠義ー1926年(大正15)卒業。以後、1939(昭和14)年まで、高橋ゆたか(月に半)教授のもとで副手、助手をつとめる。といっても、1933(昭和8)年に有給助手にしてもらうまではずっと無給。そのかわり独立した研究室に陣取って自由に研究に打ちこむことができた。>
1928年(昭和3)47歳
 4月 『子供の実驗室』(日本児童文庫51、アルス)
 9月 原阿佐緒、千葉県安房郡保田町を去る。(現千葉県安房郡鋸南町保田)
1929年(昭和4)48歳
 2月 『自然科学概論』(科学叢書第6編 岩波書店)
 3月 東京に転居
 6月 『岩波書店 物理学及び化学』(~31年5月)編輯と執筆
1930年(昭和5)49歳
 9月 『現代短歌全集13 古泉千樫、釈超空、石原純集』(改造社)
1931年(昭和6)50歳
 1月26日 夜 岩波書店で科学雑誌刊行につき相談会 石原、岡田、藤原、関口、柴田雄次、小泉丹(まこと)氏会合、会芳桜に行く。
 2月18日 “理研”へ「科学」創刊の件で行く。 
 3月6日 岩波書店の「科学」編輯相談会へ出る。表紙のDesign選定。
 3月11日 岩波君来たり、「科学」編輯の名前を出す事の相談。石原が紙の質にもこだわりをみせた。
 4月 『科学』(岩波書店)創刊、編輯主任。
▽彦坂忠彦ー阿刀田京(第二高等学校の名物校長 阿刀田令造の長女)と結婚。
1932年(昭和7)51歳
  この頃、原阿佐緒さんと別れられた直後だったでしょう。杉並区東田町に元の奥さんとなかなか立派なお屋敷にお住まいでした。ー住井すゑの証言(時に聴く p471)。
 12月 『西洋人名事典』(岩波書店)、編輯と執筆
1932年(昭和8)52歳
1934年(昭和9)53歳
▽彦坂忠義ー原子核の構造について独自の殻構造論を展開。長女、ひろみ誕生(水谷ひろみ、医師、1990年12月膵臓がんにて死去)
1935年(昭和10)54歳
 4月 『理化学辞典』(岩波書店)、編輯と執筆
▽岩波茂雄ー4月27日欧米旅行の旅に出発、靖国丸にて横浜出帆。5月4日門司出帆に際し、外遊挨拶状を出す。
 12月 『現代物理学』(唯物論全書15、三笠書房)
▽岩波茂雄ー12月13日欧米旅行より帰る。浅間丸にて横浜入港。
 12月31日午後0時28分 寺田寅彦(ペンネーム:吉村冬彦) 死去(9月より転位骨腫瘍で療養中だった)。
1936年(昭和11)55歳
 この当時の石原純の住所は「東京市目黒区上目黒7ー1、118号」とある。
 5月 『世界の謎』(日本少国民文庫9、新潮社)
1937年(昭和12)56歳
 9月 『短歌文学全集 石原純篇』(第1書房)
 12月 『人間はどれだけのことをして来たか(二)』(日本少国民文庫2、新潮社)
 12月 『科学と社会文化』(岩波書店)
1938年(昭和13)57歳
 3月 『自然科学的世界像』(岩波書店)
 11月 『科学と思想』(河出書房)
1939年(昭和14)58歳
 10月 アインシュタインーインフェルト『物理学はいかにつくられたか 上』(岩波新書)、下巻は1940年1月
 12月 『科学教育論』(玉川学園出版部)
1940年(昭和15)59歳
 夏 満洲国 民生部門文化局の仕事で、満洲における科学教科書の調査の為、2回目の渡満をした。
1941年(昭和16)60歳
 1月 『私達の日常科学』(新日本少年少女文庫6、新潮社)
 1月 『科学のために』(科学工業主義社)
 3月 千葉県安房郡保田町に戻る。(現千葉県安房郡鋸南町保田)
 3月 『理論物理学』(現代学芸全書95、三笠書房)
 6月 『地球の生い立ち』(新日本児童文庫4、アルス)
1942年(昭和17)61歳
 7月 『世界のなぞ』(改訂日本少国民文庫7、新潮社)
 8月 『科学史』(実は岡邦雄著、現代日本文明史13、東洋経済新潮社)
 10月 『偉い科学者』(実業之日本社)
 11月 『人間はどれだけのことをして来たか』(改訂日本少国民文庫2、新潮社)
 12月 『思索の手套』(婦女界社)
1943年(昭和18)62歳
 3月 『現代物理学の基礎理論』(国民学術選書、中央公論社)
 7月 『随筆 夾竹桃』(文明社)
 8月 『僕らの実験室』(新日本児童文庫31、アルス)
1944年(昭和19)63歳
 1月 『科学を志す少年のために』(現実処)
1945年(昭和20)64歳
 12月 交通事故により重傷を負う。
  鈴木伊三郎「石原純先生御他界の前後ー書簡の形式による」から引用。
  《その当時先生は毎週木曜日東京の岩波書店へ雑誌「科学」の編集に上京されていました。昭和20年12月中旬の木曜に上京され、金曜に帰られず岩波に照会すると「お帰りになりました」とのこと。思案にあまってそうさく願いを出しました。後でいろいろ綜合してみますと、終戦直後の交通の混乱から東京の道路でジープにはねられたらしく右腕骨折全身打撲傷でほうり出されたまま街路上に意識を失っておられ、警察では身許が分らないまま留置場に置いて保護しておったとのこと。石原謙(当時女子大の学長)が弟だということがわかり慶応病院へ入院、約3ヶ月そこのおられたわけです。ひどい負傷で頭もすっかりやられ過去のことが殆どわからなくなりました。右腕切断ということでしたが、右手のことなので腰から上、右手のつけ根までギブスをはめて右腕を支えて手先だけは何とか動かせるように処置されました。昭和22年1月19日に死去(67歳)されるまでの堀内[耐子]氏の努力は涙ぐましいほどでした。[中略]先生の体を抱いて棺に入れたのは、松音旅館の主人(故昼田昇)と私だけです。私が仰向けの先生の両腕下へ腕を入れ背中を支え昼田さんが腕から足を抱かれました。[中略]棺の中へは水仙の花をいっぱい埋めてあげました。》
ここに、“ジープにはねられたらしく”とあるが、当時車といえば進駐軍のジープが多かったのでそう思われてもおかしくない。車がジープであるか否か、またそれが単なる事故であったか否か、確かなことはわからない。
1946年(昭和21)65歳
▽2月11日、岩波茂雄 文化勲章授与さる。(警視総監、枢密顧問官 伊沢多喜男を推薦によるとされる)
▽4月25日、岩波茂雄 伊豆山(熱海)惜櫟荘(せきれきそう)にて3回目の脳出血(脳溢血)の為、死去す。享年64年8ヵ月。
▽4月26日、岩波茂雄遺骸を鎌倉へ運び27日店員の告別。
▽4月28日、荼毘に附す。
▽4月30日、文部大臣安倍能成(あべ よししげ)を葬儀委員長とする葬儀が東京築地西本願寺にて行なわれた。法名、文猷院剛堂宗茂居士。(別法号:独善院他力本願居士)北鎌倉東慶寺の墓地に埋葬。
▽5月18日、郷里、長野県諏訪郡中洲村にて葬儀。菩提寺小泉寺墓地に分骨埋葬。
1947年(昭和22)66歳
 1月19日 死去。
   最後をみとった8人の人々、鈴木伊三郎(保田小学校、石原・原に歌の指導を受けた)、昼田昇・愛夫婦(旅館 松音楼主人)、堀内耐子、大河原よつ子(家事手伝い)、弟 石原謙、妹夫婦 
   伊藤露、岩波書店専務 堤常。
*なかには、住井すゑのように、自動車事故だといわれているが、何らかの組織に殺されたのではないか、と疑っている人もいる。彼女はその組織は進駐軍というより、別の組織を疑っていたよう
 だ。すぐあとに石原の理論を煮詰めていくと天皇制批判になる、と語っている。:住井すゑ・寿岳文章(対談)「時に聴く」『住井すゑ作品集 第8巻』(新潮社 1999年)
 確認できれば、まったくの奇遇としかいいようのないことがある。石原が運び込まれたときの慶応病院での担当医が、斎藤茂吉の次男・茂太であった可能性がある。茂太から石原 ・喜美子夫婦へ
 の手紙(1988年1月12日付)に、“敗戦後の昭和20年10月に軍隊より復員し、再び慶応病院の医局に復帰しましたと、ある日、多分車にはねられたのか記憶喪失の方が緊急入院、小生が担当医にな
 りましたが、その方が石原純先生ではなかったかと思っておりますが、後年医局に当時のカルテを探してくれと頼んだところ、戦後の混乱期でカルテの所在が不明とのことで残念な思いをしたこと
 がございます”とある。
*1947年(昭和22)1月21日 讀賣新聞【石原純博士死去】
 <石原純博士(東北帝大教授 理博)れき(原字不明)車事故で療養中のところ19日午後5時50分千葉県安房郡保田町本郷の自宅で死去、享年67、博士はアインシュタイン相対性原理を初めて日本 
 に紹介した人で同時にアララギ派の歌人として知られ、原阿佐緒女史との恋愛事件は有名。(原文は旧字体)
 尚、朝日新聞では「脳溢血(のういっけつ)」で死亡。鬲瓦(れき)か?
*鬲瓦=鬲に同じ:かなへの一種。瓦製と金属製との二種あり。鼎(かなえ)に似て3足、足は中空で曲り、その間隔がひろい。食物を煮るに用ひられる。くびきー車軛{車の轅(ながえ)の端につ
 けて、牛馬の後頸にかける横木、自由を束縛するもの。軛を争う(互いにはりあって勝負を争う)ー轢死の轢ならば、轢車となるが、車/車と成ってしまうので、轢ではない可能性が高い。
*1980年(昭和55)11月3日 千葉県鋸南町文化祭「展示目録 石原純・原阿佐緒の資料」
以上の年表は、【科学ジャーナリズムの先駆者 ー評伝 石原 純ー】(西尾成子著。岩波書店刊、2011年9月28日第1刷発行)から引用させて頂きました、尚、表記の一部を変更致しました。
◆表記の変更
1、書籍では、年号を<1947(昭和22)年>と云う表記に成っておりますが、これを<1947年(昭和22)>と変更しました。
2、書籍では単に<保田>と記載されている部分を<千葉県安房郡保田町(現千葉県安房郡鋸南町保田)>としました。
3、書籍には「石原量・千勢」の年譜はありませんが、石原純の履歴の冒頭部分に「石原量・千勢」の関係の一部追加表記してあります。
4、書籍には【讀賣新聞の死亡記事】は、在りませんが、此所では追加表記いたしました。

展示品目録(石原純・原阿佐緒の資料)
 昭和55年11月3日 鋸南町文化祭
○石原純の著書
 歌集「靉日(あいじつ)」、夾竹桃(きょうちくとう)、偉い科学者、現代随筆大観、現代随筆全集(第2巻)、ボグベン市民の科学、わが師わが友、僕らの実験室。
○原阿佐緒の著書
 歌集「死をみつめて」
○原稿
 (石原純の自筆)
 故桜井錠二博士を悼む、国家と科学、暖国のいで湯に浸りて。
○油絵
 石原純の肖像 原阿佐緒筆
 布 良    石原 純筆
 保田の海   石原 純筆
○石原純の執筆一覧(現物保管)
 新聞、雑誌等に掲載された現物をそのまま切抜き袋入のまま展示
 アイシンシュタイン教授講演
  特殊及び一般相対原理に就て 理学博士石原純通訳
 大正11、11/17、アインシュタイン夫婦来日
 大正11、12/29、帰国
  右の間 東京、仙台、名古屋、京都、大阪、神戸、福岡 でご講演
  その新聞切抜き全部
 電燈発明50周年記念 昭4、11/21 新愛知新聞
 当面の課題 発展の相としての日本精神 昭和13年7月15・16日 都新聞
 科学と技術との交流 科学主義工業 昭和16年1月
 原子核理論の現状と湯川粒子「知性」昭和14年7月
 個性の尊重「芸能科研究」昭和15年12月
 科学的精神の問題「教育思潮」昭和14年12月
 科学時評「学習指導」昭和15年4月
 現代の理想「科学主義工業」10月号
 原子核の研究「中外商業新報」昭和15年1月
 本年の科学界への回想「東京朝日新聞」昭和14年12月6・7日
 形式と現実「文芸春秋」昭和15年1月
 非常時風俗に就いて「文芸春秋」昭和14年9月
 自然現象の必然及び偶然性「思想」大正14年9月
 国策と科学研究「帝国大学新聞」昭和13年5月9日
 現代の理想「科学主義工業」昭和13年10月1日
 現実の構想「東京日日新聞」昭和12年10月23日
 流線形「東京朝日新聞」昭和12年12月20日
 百年の大計「東京朝日新聞」昭和12年11月3日
 二つの反文化性「東京朝日新聞」昭和12年11月24日
 戦争と科学「東京朝日新聞」昭和12年9月14日
 恋愛哲学傍語「経済往来」昭和8年3月
 跛行(はこう)状態の匡正(きょうせい)「科学主義工業」昭和14年10月
 学術書の飜訳権「東京朝日新聞」昭和13年12月7日
 紙の話「少女の友」昭和15年4月
 水の話「子供の科学」
 条件「東京朝日新聞」昭和11年4月19日
 科学界の現状と動向「中外商業新聞」昭和13年1月7~9日
 得難き名著(田丸卓郎博士の力学」「読売新聞」昭和13年1月18日
 今年の夏「科学のぺん」昭和13年8月
 空間の概念と実在「新愛知」昭和5年8月4日
 盲人の杖「文芸春秋」昭和13年7月
 1930年への待望(科学界)
 新春の哲学(新短歌5首)昭和14年1月
 比較の基準「新愛知」昭和13年6月23日
 戦争と科学思想「日本読書新聞」昭和12年11月5日
 単に名称の問題「短歌新聞」昭和11年8月15日
 科学振興調査会の提唱「東京日日新聞」昭和13年7月3日
 科学国策の実行「現代」昭和14年5月号
 私の日記妙「婦女界」昭和13年11月
 科学振興について「世界週刊」昭和13年12月3日
 僕の頁「科学のペン」昭和12年 9~11~12月号
 物理学界の業績「朝日新聞」昭和14年1月6日~7日
 女性と数学「婦女界」昭和14年2月号
 科学政策を具現化せよ「中央公論」昭和14年2月号
 河合氏の休職理由「文芸春秋」昭和14年3月号
 学者の待遇 牧野博士の「教壇を去る」について「東京日日新聞」昭和14年6月14日
 科学者の面影「アインシュタイン」「帝大新聞」昭和15年1月15日
 現時局と純正科学の問題
 生きた教育「東洋経済新聞」昭和15年4月20日
 技術者の道「大阪朝日新聞」昭和13年3月16日
 原子核の研究「中外商業新聞」昭和14年1月20日~24日
 経済機構の根本問題「東洋経済」昭和15年6月
 経済統制の諸問題「北海道帝国大学新聞」昭和13年12月20日
 事変下の夏「グラフィック」昭和13年9月15日
 物理学問答「実業の日本」昭和16年1月
 風景美論「科学画報」昭和2年8月
 海洋と山岳「科学画報」昭和2年7月
 放送随筆「放送」昭和10年7月
 科学政策の矛盾について「東京日日新聞」昭和12年5月18日~19日
 自然科学の客観性について
 ゾンマフェルト教授への思い出「岩波講座物理学月報第3号」昭和14年2月
 予言の性格「読売新聞」昭和13年4月24日
 文学をやる頭と数学をやる頭「大阪毎日新聞」昭和8年3月
 科学時評「改造」昭和13年8月~9月~10月号
 満洲国 石原純・岸田国士・三木清・鼎談「改造」昭和15年11月号
 本と末「実験治療」昭和14年9月
 日常生活と思想「都新聞」昭和13年1月(1日~4日)
 速やかに専門教育を大学教授の責任について「帝国大学新聞」昭和13年1月24日
 著しき進歩の跛行「報知新聞」昭和13年1月13日
 理想主義の虚構性「報知新聞」昭和13年1月15日
 政治理論の脆弱性「報知新聞」昭和13年1月16日
 世相の裏表て「文芸春秋」昭和15年6月
 実質と形式「科学主義工業」昭和17年1月
 科学炉辺ものがたり「女性改造」大正13年2月
 学界の独自性「東京朝日新聞」昭和13年11月18日
 科学的教養「東京朝日新聞」昭和13年12月5日
 事変処理「東京朝日新聞」昭和14年9月14日
 徳と得「読売新聞」昭和14年9月2日
 縦と横「東京朝日新聞」昭和14年2月22日
 学術論文の用語「東京朝日新聞」昭和14年2月20日
 文学の眼「帝国大学新聞」昭和10年3月13日
 就職割当「東京日日新聞」昭和14年2月1日
 水のはたらき「小学3年生」昭和13年10月
 風船はナゼ上がるか「小学4年生」昭和13年1月
 水のはたらき「小学3年生」昭和13年11月
 地球について「小学3年生」昭和13年12月
 石油のお話「小学3年生」昭和14年1月
 たこと飛行機「小学3年生」昭和14年2月
 風の力「小学4年生」昭和14年5月
 月の世界「小学3年生」昭和14年8月
 科学的に観た男女の相性「婦人日本」昭和9年9月
 燃料の話「4年生」昭和13年12月
 物質と生命「科学知識」昭和13年11月
 ヤキ芋時代「読書と人生」昭和14年5月
 除雪と砕氷「小学3年生」昭和13年7月
 風はなぜ吹くか「小学3年生」昭和13年8月
 15夜の月「3年生」昭和13年9月
 アインシュタインの新学説について「理科教育」昭和4年8月
 水の科学「4年生」
 お月さま「小学3年生」昭和13年6月
 ニジのハナシ「小学1年生」昭和14年7月
 面白イ火山ノ話「小学2年生」昭和13年9月
 燃料の話「小学4年生」昭和13年2月
 海の話「小学4年生」昭和14年8月
 萌える草木「小学4年生」昭和14年3月
 事変感想「改造夏期特大号」昭和13年7月
 科学研究の合理化「東洋経済」昭和14年11月
 物はなぜ落ちるか「小学3年生」昭和13年9月
 秋の渡り鳥「小学3年生」昭和12年10月
 活動写真では物がなぜ動いて見えるか「小学3年生」昭和12年11月
 科学及び技術に於ける根本問題「科学技術」昭和17年1月
 高句麗の遺蹟「満洲日日新聞」昭和16年2月21日
 科学的精神について「紀元2千6百年」昭和13年12月
 風俗時評(地方の実情)「化学主義工業」昭和17年2月
 精神の尊重「東京朝日新聞」昭和14年3月3日
 歌壇警語「玄土」大正10年10月
 蚕どきの家(短歌連作)「玄土」大正10年10月
 アララギ創業時代の思い出「アララギ25周年記念号」昭和8年1月
 わが生活「新風土」昭和17年1月
 短歌の新形式を論ず「日光創刊号」大正13年4月
 短唱数篇「日光創刊号」大正13年4月
 深い心のあらはれに就いて「日光5月号」大正13年5月
 我歌「日光5月号」大正13年5月
 空の斑点「日光6月号」大正13年6月
 現代語歌研究「日光6月号」大正13年6月
 枇杷山行「日光8月号」大正13年8月
 日光室「日光8月号」大正13年8月
○遺 品
 半 切(掛軸)   石原 純
 色 紙(3枚)   原阿佐緒
 手 紙      石原 純
 葉 書      石原 純
 三味線      原阿佐緒
 写 真      石原 純
 中国堆朱(銘々皿)石原 純
 杓 子      石原 純
 植物採集ブック  石原 純
 額入植物標本   石原 純 
○参考品
 靉日荘写真、旅館松音楼写真(旧館)、旅館松音楼主人写真(故昼田昇)、
 旅館松音楼主人故昼田昇の妻愛の写真、金森南耕写真、金森南耕色紙、
 金森南耕葉書、金森南耕絵、保田文化記念室の印鑑(南斉光彫)、
 大川原よつ子の写真、鈴木伊三郎の写真、近代日本の女性史、
 小説新潮、ちばぎん、安房歌人会年刊歌集、房総展望、
 現代文学に現れたるわが郷土、古泉千樫短冊、アララギ(25周年記念号)、
 歌集林澗りんかん(蕨真)、原阿佐緒の生涯。
  アララギの創刊号は山武郡睦岡村埴谷の蕨真の家から刊行された。このことを除外しては、アララギの重鎮であった石原純を論ずるわけにはいかない。

原阿佐緒を中心とした年譜(石原純・三ヶ島葭子・中川一政)
年譜の出典は、{「原阿佐緒の生涯 ●その恋と歌」小野勝美著、古川書房刊、1974年(昭和49)11月20日発行}を主とし、鋸南町歴史民俗資料館所蔵の「展示目録 石原純・原阿佐緒の資料」等も参考とした。

1879年(明治12)
 △4月16日 小原要逸 父聞一、母タミの長男として山口県玖珂郡岩国町大字錦見第527番屋敷(現岩国市大字錦見第1910番地)に生まれる。
1880年(明治13)
1881年(明治14)
 †1月15日 石原純 父・石原量 30歳と母・千勢 18歳(旧姓青木、戸籍では“ち勢”)の長男として東京市本郷区に生まれる。
 ◇8月27日 岩波茂雄 父義質(よしもと)、母うたの長男として長野県諏訪郡中洲村金子(現諏訪市、1955年4月1日編入)に生まれる。
       {母うたは下諏訪の井上善次郎の妹で、善次郎は製糸場を設けて一時かなり手広くやっていたが、失敗して東京神田で薪炭商を営んだいた。:岩波茂雄伝 安倍能成著p4}
1882年(明治15)
1883年(明治16)
1884年(明治17)
1885年(明治18)
1886年(明治19)
 ‡8月7日、三ヶ島葭子(本名:よし)、三ヶ島寛太郎(31歳。三ヶ島村氷川神社の神職)とさわ(24歳。岩走神社社家)の長女として生れる。
  {結婚後は、“倉片よし”。ペンネームは「芳子」など2~3変ったのもあるが、明治43年より本名「三ヶ島よし」又は「三ヶ島葭子」の名がほぼ定着している。}
1887年(明治20)
1888年(明治21)1歳
 6月1日(戸籍に従う)宮城県黒川郡宮床村宮床45番地(現大和町宮床字八坊原)に生まれる。
 父幸松、母しげの一人娘である。
 原家は代々、宮床の分家伊達氏(宗房が分家)の家臣で、塩や麹の販売を業とし「塩屋」と号した。
<6月21日 宮城県黒川郡宮床村宮床45に生れる。(父幸松、母しげ)>
1889年(明治22)
1890年(明治23)
1891年(明治24)
1892年(明治25)
 ‡三ヶ島葭子(6歳)ー4月14日、母さわ肋膜炎にて死去。
1893年(明治26)
 ‡三ヶ島葭子(7歳)ー父が小暮のぶと再婚により、葭子は継母を迎える。
 ⁂中川一政ー2月24日、東京本郷に生れる。
1894年(明治27)
1895年(明治28)8歳
 4月、宮床村尋常小学校に入学。
 <宮床村尋常小学校に入学>
1896年(明治29)9歳
 2月6日、母しげの実家方 遠藤信道・ゑんの3男真剣、原家の養嗣子(ようしし)となる。
 4月、当時、黒川郡々視学であった土屋鉱蔵に父幸松が依頼し、主として家庭的な教育をうけるため同郷吉岡尋常小学校に転校した。
 阿佐緒は土屋宅に起居して、通学した。(鉱は旧字体の金に廣)
1897年(明治30)10歳
 4月、土屋鉱蔵は宮城県伊具郡角田町(現、角田市)の角田中学(現角田高等学校)へ英語と博物の教師として転任することになったため、これに伴い、阿佐緒も角田尋常小学校へ転校した。
 12月24日、祖母きわ死去。このため阿佐緒は同月17日、叔父佐藤寅松(漢詩人。号青年)の迎えを受け宮床へ帰る。翌年1月10日、再び角田に戻る。
1898年(明治31)11歳
 この年、学校から品行方正学術優等をもって模範生として表彰された。
 7月19日、土屋鉱蔵はこの日をもって角田中学を辞し、香川県へ転任となる。
 <学校から品行方正学術優等をもって模範生として表彰される。>
1899年(明治32)12歳
 土屋鉱蔵(鉱は旧字体の金に廣)の香川県への転任のため、また女学校へ進む準備のため再び吉岡尋常高等小学校へ転校。
 当時、母しげの実家遠藤家(黒川郡今村337番地ノ1)では、祖母つね(しげの母)、又しげの父弥兵衛の長男勘助が共に死去しており、親身になって世話をしてくれる者はなかったようである
 が、弥兵衛や勘内(勘助の長男)に世話を受け、通学した。
1900年(明治33)13歳
 4月5日、晩年には全く盲目となった父幸松死去。享年35歳。
 4月23日、養嗣子真剣、家督相続す。
 10月22日、祖父忠見死去。
 △小原要逸ー7月、山口高等学校大学予科卒業後、東京帝国大学に進む。卒業後は母の郷里新潟へ赴き、教鞭をとっていたらしいが詳らかではない。
 ‡三ヶ島葭子(14歳)ー児玉町小学校高等科を卒業する。東京麻布森元町(飯倉)の叔父三ヶ島橘次郎かたより、一時青山女学校や四ッ谷教会に通学す。
  又、この頃から古今集・新古今集・狂歌集などを読む。
 ◇寿岳文章ー生まれる。
 <父死去(晩年は盲目であった)享年35歳。>
1901年(明治34)14歳
 4月、仙台の宮城県立高等女学校(現、県立第1女子高等学校)に入学。
 いまだ、寄宿舎は建設されておらず、「T先(作法の先生)生の家での上級同級生6~7人の郡居生活ー原文のママ」(「無題原稿(1)」)であった。
 この頃から頻(しき)りに文学書を渉猟(しょうりょう)する。
 △9月9日、小原要逸ー笠原タチと結婚(タチは明治18年3月21日、父永昌、母マスの長女として新潟県南浦原郡加茂町大字狭口村に生まれる。)
   <宮城県立高等女学校に入学。>
1902年(明治35)15歳
 ‡三ヶ島葭子ー8月父小鹿野小学校を休職となる。
 ◇1月7日 住井すゑ 奈良に生まれる。
1903年(明治36)16歳
  この年、肋膜を患って、高等女学校3年で中退。
  郷里宮床における病気療養期間中、『源氏物語』や『和歌八重垣』また黒岩涙香の翻訳物等を読みあさる。中でも、村井弦斎の美人物にひかれ、女の恋は真実愛する者とは結ばれず、あくまでも 
  じっと耐えていつまでも思慕しているものであるという恋愛観をもつに至る。
  この頃から縁戚(えんせき)の四条派の画家遠藤速雄のもとで日本画を習い始める。
 ‡三ヶ島葭子(18歳)ーこの年父一家は東京府下南葛飾郡船堀村に転任し、父 船堀村第8代小学校長となり、官舎に住む(現江戸川区船堀2ー22ー22)
  <肋膜炎の為、高等女学校3年で中退。>
1904年(明治37)17歳
  3月、母しげの希望に従って日本画修得のため母を伴に上京。
  4月、跡見女学校の高等科に入学を希望したが、「普通科の2年」になら入学を許可すると言われ断念、個人的に同校の某教師宅へ通って日本画を学ぶ。
  当時、臺岐坂下の「荒物屋の小さな家」(「わが青春記」)に下宿し、日曜日には海老名弾正の教会へ通う。
  数ヶ月後、駒込林町に転居。まもなく、同郷の友人庄子勇の配慮をえて、芝公園内にあった日本美術学校へ入学。同校には下中弥三郎(故、平凡社社長)が教鞭をとっており、和歌の手ほどきを 
  受けた。また、同校の英語と美術史の教師小原要逸(翻訳家。号無絃)と知る。[*下中弥三郎と住井すゑ(犬田すゑ)の夫犬田卯(いぬた しげる)は懇意だった。又、5・15事件のクーデー
  幹部将校は、下中弥三郎の関係者だったと云われている。]
  2月26日、母しげの父遠藤弥兵衛死去。
  <母と上京、日本美術学校へ入学。>
1905年(明治38)18歳
  7月7日、養嗣子真剣、肺結核のため、宮城高等師範学校在学半ばにして死去。享年19歳。
  7月25日、阿佐緒、家督相続す。
  小原要逸ー明治38、39年頃、上京し板橋に住んだ。そして、日本女子美術学校に教鞭をとるかたわら、号を無絃と称し「明星」や「中学世界」などに訳詩を発表していた。
  <家督を相続する。>
1906年(明治39)19歳
  この年の初め、牛込区若松町72番地に転居。(明治41年4月まで住む)、殆ど同時に、奎文女子美術学校に転じ、翌年春卒業。これは、小原要逸との間に恋愛問題が起ったためである。
  この頃、「明星」等を耽読(たんどく)、短歌へ興味をもつ。「明星」誌上では、特に金子薫園の歌集『伶人』の合評(8月号)が心に残ったともいう。
  <奎文(けいぶん)女子美術学校に転じ、翌年春卒業。>
1907年(明治40)20歳
  4月仙台において「東北文芸」(隔月)創刊され、これに参加。同人は、柴田量平、山中波泉、渡辺亮輔、高橋愁雨、井沢花影、小川真清、尾知山静波等。
  7月16日、妊娠した阿佐緒は、小原要逸に妻子あることを知り、自殺を計ったが果たされなかった。
 12月15日、長男千秋誕生。
 △小原要逸ー妻タチ、菊夫・馨・万古刀(まこと)の3児あり。当時妻タチは姑タミと折り合いが悪く、実家へ帰されていた。
  <自殺を図ったが果さず、長男千秋誕生。>
1908年(明治41)21歳
 △4月、小原要逸、長男千秋、母しげと伴に帰郷。かたちばかりの結婚披露宴が開かれた。が、小原とは間もなく離別。
  この頃から、次第に作歌に熱中する。
 ‡三ヶ島葭子23歳ー2月頃麻布笄(こうがい)町の今泉定介邸に住み込み、間もなく芝城山町の青木大三郎邸(日本漁業会社長)に住込む。6月27日生母の実家の世話で、東京府下西多摩郡小宮村
  尋常小学校(五日市町→現あきる野市へ)代用教員になって赴任する。
  <小原要逸と結婚、幾許も経ずして離婚。>
1909年(明治42)22歳
  4月、「女子文壇」に投書した1首が与謝野晶子に認められ、天賞を受ける。これに勇気づいて益々作歌に励み、郷土の歌人山中波泉の慫慂(しょうよう)をうけ、この年「新詩社」に入社。
  4月から翌年6月まで、宮城学院女学校において国語の教鞭をとる。
  2月、「東北文芸」廃刊。
  <4月「女子文壇」で与謝野晶子に認められて天賞を受ける。>
1910年(明治43)23歳
  3月、「スバル」誌上に2首掲載さる。
     「スバル」は大正2年12月まで発表、総歌数は487首。尚、「スバル」誌上には「原白百合」の雅号もみられるが、雅号の使用は明治40年4月以後から同45年5月までである。
  <6月迄宮城学院女学校で国語の教鞭をとる。>
1911年(明治44)24歳
  2月、「女子文壇」(第1増刊「婦人ノート」)に原白百合の名で5首発表。
  5月、石原純、東北帝国大学理科大学助教授となり、仙台市北3番丁36番地に住む。
 ‡10月、「青鞜」創立、平塚雷鳥
  <「女子文壇」に原白百合の名で5首発表。白百合の雅名は以後使用せず。5月 石原純東北大学教授となり仙台に住む。>
1912年(明治45ー大正元)25歳
 ‡1月、三ヶ島葭子「青鞜」に入会す。
  11月、仙台の聖公会牧師“早坂掬紫(救世軍兵士)”が中心となって、文芸誌「シャルル」創刊。
     顧問は山村暮鳥、前田夕暮、賛助員には若山牧水、斎藤茂吉、土岐哀果、古泉千樫、原阿佐緒らが名をつらねている。
     この年、アララギ派の歌人古泉千樫(チガシ)を知る。
  <古泉千樫を知る。>
1913年(大正2)26歳
  1月、「青鞜」にはじめて「あまき縛め」29首掲載さる。「青鞜」には大正5年1月まで発表、総歌数118首。
  3月、「アララギ」入社。「氷雨ふる朝」8首発表。大正10年4月まで、総歌数729首発表。
  5月、処女歌集『涙痕』を東雲堂書店から上梓(じょうし)。序文与謝野晶子。序歌吉井勇。
  9月、「青鞜」に歌物語「涙」を発表。
  12月頃、古泉千樫(妻子あり)と肉体関係を持つ。
  12月頃、庄子勇(東京美術学校=現東京芸術大学→山口県の中学校の図画教師)と再会す。
   <アララギ同人として加入、第1歌集「涙痕」刊行。>
1914年(大正3)27歳
  1月、庄子勇と古泉千樫との関係(かたよらず二様にうごく心をば泣きぬほとほとさばきいがたく:原阿佐緒の生涯 p212)
  4月、庄子勇と結婚。
  9月下旬、夫と共に上京、内藤新宿大字番衆町31番地に住む。
  10月、はじめて三ヵ島葭子を神田猿楽町19番地に訪ねる。
  この年、石原純、東北帝国大学理科大学教授となる。
  <庄子勇と結婚。夫とともに上京、内藤新宿に住む。神田猿楽町に住む三ヵ島葭子を訪ねる。>
1915年(大正4)28歳
  1月28日、次男保美誕生。その後間もなく帰郷し、2年程上京することなく夫庄子勇と離れて住む生活が続いた。
  ‡10月、三ヶ島葭子30歳:夫倉片寛一 大日本水産会(赤坂溜池三会堂内)に就職し、雑誌「水産界」を編輯する。
   <次男保美生れる。>
1916年(大正5)29歳
  9月、病弱の故をもって、東北帝国大学医科大学付属医院西1号第9番に入院。退院後、三ヶ島葭子宮床を訪れ、40日程滞在する。
  11月、第2歌集「白木槿」を東雲堂書店から上梓。
  この年、斎藤茂吉に師事する。秋に、「詩歌」の同人熊谷武雄と知る。
   <三ヵ島葭子 宮床を訪れ40日滞在。第2歌集「白木槿」刊行、斎藤茂吉に師事。>
1917年(大正6)30歳
  2月、上京し、本郷の克誠堂書店の事務員となる。それから半年後、夫庄子勇のもとへ帰る。
  4月、小説「疑惑」を「ピアトリス」に発表。
  7月2日、三ヶ島葭子と共に若山牧水夫婦を訪う。
  9月、異常妊娠のため帰郷、東北帝国大学医科大学付属医院東2号第14番に入院。この手術がもとで不妊の身となる。
  12月、石原純と相知る。
  この年、島木赤彦に師事。又、原三郎等の文芸誌「嬰児」に短歌を発表す。
    <異常妊娠のため北大附属病院入院、その為不妊となる。>
1918年(大正7)31歳
  1月、退院し宮床へ帰る。
  7月27日、三ヶ島葭子宮床訪問。
    <三ヵ島葭子宮床へ来る。>
1919年(大正8)32歳
  4月、長男千秋、中学校入学にあたり、仙台に出て共に大学病院前の本田屋旅館に借家住いす。
  7月、庄子勇と協議離婚。
  8月、三ヶ島葭子三たび宮床来訪。
    <長男千秋中学入学の為、仙台に借家住いする。庄子勇と協議離婚。三ヶ島葭子来る。>
1920年(大正9)33歳
  3月、石原純との問題が進み、三ヶ島葭子四たび宮床へ招請さる。
  8月、仙台において石原純が中心となり文芸誌「玄土(くろつち)」創刊。
  10月21日、長男千秋を畏友(いゆう)早坂掬紫(玄質)(注)に預け、単身上京、麻布谷町50番地の三ヵ島葭子を訪い、翌10年5月初めまで同居生活をする。
    22日、石原講演のため上京。
    23日、三ヶ島宅を訪れ、三ヶ島夫婦と阿佐緒と浅草を見物。
    24日、石原と逗子へ旅行。
    26日、石原と共に仙台に帰ったが10日程で再上京。
  12月初め、石原京都帝国大学文学部の依嘱(いしょく)により、1ヶ月間物理学理論を講ずるべく上京、阿佐緒はこれを違えて行かず。葭子帯同のもとにやむなく京都へ赴(おもむ)く。
  市内東三本木の信楽に逗留(とうりゅう)し、翌年元旦に共に上京。
    <石原純を知る。(石原純仙台で短歌誌「玄土」創刊号発刊)石原純との間が進み、三ヵ島葭子4度宮床に招請さる。千秋を友人に依頼、単身上京麻布の三ヵ島葭子を訪ね、
     翌10年5月迄同居生活する。>
1921年(大正10)34歳
  2月末、石原再上京、阿佐緒と共に三ヶ島宅に同居生活を始める。
      「アララギ」の同人島木赤彦、斎藤茂吉、中村憲吉等説得のため訪れる。
  5月8日から6月1日まで石原と共に伊豆伊東に遊ぶ。
  6月2日共に帰省。
  7月30日、各新聞は一斉に石原純と原阿佐緒の恋愛問題を報ずる。
  8月、石原、病気の故をもって大学を辞職す。その後間もなく石原と共に信濃富士見へ赴き(注12日)、9月半ばまで滞在。
  9月、「婦人公論」及び「新家庭」は2人の問題を特集す。
  10月、石原と共に千葉県安房郡鋸南町保田へ赴き、松音旅館に投宿す。
  同月、第3歌集『死をみつめて』玄文社詩歌部から上梓。
     <5月石原純講演の為上京。三ヶ島を訪ずれ逗子へ阿佐緒と旅行。アララギの島木赤彦、斎藤茂吉、中村憲吉説得の為訪れる。石原純と信濃富士に行き9月半ば迄滞在。
      7月30日各新聞一斉に両人の恋愛問題を掲載する。10月第3歌集「死をみつめて」刊行。10月両人の逃避行。保田旅館松音楼に投宿。>
1922年(大正11)35歳
  3月、三ヶ島葭子 千葉県安房郡鋸南町保田を訪れる。
  5月、新居「靉日(あいじつ)荘」(阿佐緒は「紫花山房」と呼んでいる)が、保田小学校裏山の保田町本郷776に完成。(注)
  11月、石原純、アインシュタイン来日に伴い、その講演の通訳者として、東京、名古屋、京都、大阪、福岡へ赴く。
     <3月三ヶ島葭子、保田を訪れる。5月新居「靉日荘」竣功。ここに両人同居生活となる。>
1923年(大正12)36歳
 ⁂中川一政(30歳)伊藤 子と結婚す。
 ◇7月 早坂掬紫(掬紫早坂亥質)死去(自殺)
1924年(大正13)37歳
  4月、「日光」創刊、同人となる。
  4月4日上京し。
  4月5日に帰郷し数日宮床に滞在す。
  6月、鎌田敬正、萩原羅月房州富浦に遊び、その帰途印旛沼の吉植庄亮を訪う。
     <「日光」創刊されその同人となる。帰郷し宮床に数日滞在。>
1925年(大正14)38歳
  3月、「アララギ」の同人結城哀草果、保田を訪れる。
     <アララギの同人結城哀草果、靉日荘に来る。>
1926年(大正15ー昭和元)39歳
1927年(昭和2)40歳
  3月26日、親友 三ヶ島葭子死去、事情により27日夜ようやく三ヶ島宅を訪れる。荼毘に付された後であった。(事情とは、石原純との関係に亀裂が入り、箪笥などに鍵がかかり、金銭が渡されなかったと云う)
  8月11日、長年の親交のあった古泉千樫死去。
  この年、1月から12月(11月は除く)11回にわたり、「黒い絵具――小さやかなる自伝に代えて――」を「婦人公論」に連載す。
     <三ヶ島葭子死去。8月11日 長年親交のあった古泉千樫死去。>
1928年(昭和3)41歳
  7月半ば、茂吉に精神鑑定を依頼したが断われる。すでに、石原純との生活に破綻が生じていた。
  9月25日、石原純に無断で保田を去り、27日上野をたち、28日帰郷。
  10月、第3歌集『うす雲』を不二書房かた上梓。石原純の『うす雲』に序す」の一文を収載。
  11月、上京、四谷の井出病院(井出茂代女医)に静養にため入院。
     <9月25日 無断で靉日荘を去り、宮床の生家に帰る。10月第4歌集「うす雲」上梓。>
1929年(昭和4)42歳
  2月、阿佐ヶ谷に三ヶ島葭子の妹千代子の世話をうけながら生活す。
  5月、自選歌集『阿佐緒抒情歌集』を平凡社から上梓。
  6月、高円寺に転居。
  11月、当時、歌舞伎町横にあったバー「ラバン」にマネキン・ガールとして出る。月給120円であった。翌5年5月まで続ける。
     <阿佐ヶ谷に三ヶ島葭子の妹千代の世話を受けながら生活。自選歌集「阿佐緒抒情歌集」上梓。高円寺に転居。11月歌舞伎座横にあったバー「ラバン」にマネキンガールとして出る。
      月給120円。>
1930年(昭和5)43歳
  5月、「ラバン」を退いて後、数寄屋橋畔に酒場「蕭々(しょうしょう)園阿佐緒の家」を開く。
  この年の秋、市外西巣鴨町宮仲1979番地に転居し、太平洋画会の研究所に通っていた長男千秋と共に生活するに至った。
      <ラバンを退いて、数寄屋橋畔に酒場「阿佐緒の家」を開く。西巣鴨に転居、長男千秋と同居。>
1931年(昭和6)44歳
  3月、改造社版、『現代短歌全集第18巻』に「原阿佐緒歌集」として、364首収録される。
  4月、加藤精一、東屋三郎等と共に10日から市村座で、ハインリッヒ・マンの「嘆きの天使」に出演したが不評に終る。しばらくして、直木三十五の世話で東亜キネマに入社。
    千秋はこの年、俳優として河合映画会社に入社。後、新興キネマ(現、東映)に移り、助監督からさらに監督となった。
      <市村座でハイリヒマンの「嘆きの天使」に出演。直木三十五の世話で東亜キネマに入社。千秋俳優として、河合映画会社に入社後新興キネマ(現東映)に移り監督となる。>
1932年(昭和7)45歳
  この年、久米正雄の紹介で「佳人よいづこへ」という阿佐緒の半生を描いたような映画に出演す。また、この年、大阪へ行き、酒場「ニューヨークサロン」を開き、さらに、梅田阪急終点東北側
  に酒場「あさおの家」を開く。
    <久米正雄の紹介で「佳人よいづこへ」という阿佐緒の半生を描いたような映画に出演。大阪で酒場「ニューヨークサロン」を開き、さらに梅田阪急終点の近くに「あさをの家」を開く>
1933年(昭和8)46歳
1934年(昭和9)47歳
  9月21日、室戸台風の被害を受け、大阪から京都貴船へ引越す。この際、整理しておいた未発表の原稿を悉くを失う。
    <9月21日室戸台風の被害を受け、大阪から京都貴船へ転居、この際整理しておいた未発表の原稿を悉く(ことごとく)失う。これ以後短歌生活から離れてしまう。>
1935年(昭和10)48歳
  この年、酒場ぐらしに憔悴し切った身をひきずるようにして帰郷。
    <しょう悴しきって身をひきずるように郷里宮床へ帰る。>
1936年(昭和11)49歳
  12月3日、母しげ死去。享年77歳。
    <母しげ死去。77歳>
1937年(昭和12)50歳
1938年(昭和13)51歳
1939年(昭和14)52歳
1940年(昭和15)53歳
1941年(昭和16)54歳
1942年(昭和17)55歳
1943年(昭和18)56歳
1944年(昭和19)57歳
1945年(昭和20)58歳
†12月、石原純(64歳) 東京 岩波書店訪問の後で交通事故により重傷を負う。
1946年(昭和21)59歳
 ◇4月25日、岩波茂雄 伊豆山(熱海)惜櫟荘にて3回目の脳出血(脳溢血)の為、死去す。享年64年8ヵ月。
1947年(昭和22)60歳
†1月19日、石原純死去、享年66歳。
1948年(昭和23)61歳
1949年(昭和24)62歳
1950年(昭和25)63歳
1951年(昭和26)64歳
  この年、千秋、映画「仔熊物語」に失敗し、宮床の身代殆ど失う。
    <長男千秋「仔熊物語」に失敗し、宮床の身代殆ど失う。>
1952年(昭和27)65歳
1953年(昭和28)66歳
1954年(昭和29)67歳
  3月3日、宮床をたって神奈川県真鶴1575番地に住む次男保美・桃子夫婦のもとへ赴く。保美は独立プロに所属し、「雲ながるる果てに」「陽のはて」等の出演、俳優としてすでにゆるぎない地位にあった。
  6月、「歌はぬ20年」を「短歌研究」に発表。
    <宮床をたって神奈川県真鶴に住む次男保未(妻桃子)夫婦の許へ赴く。保美既に俳優としてゆるぎない地位にあった。「歌わぬ20年」を短歌研究に発表。>
1955年(昭和30)68歳
1956年(昭和31)69歳
1957年(昭和32)70歳
  この頃から水原秋桜子に師事し、句作する。
     <水原秋桜子に師事句作する。>
1958年(昭和33)71歳
1959年(昭和34)72歳
  3月、杉並に新築の計画があり、一旦帰郷。
  4月、疲労から一時病床に臥す。
  11月、杉並区永福町に新築落成し、改めて上京す。
     <宮床へ帰る。4月病床に臥す。(疲労)11月杉並区永福町に新居宅落成し改めて上京、保美、桃子の許に同居生活。>
1960年(昭和35)73歳
1961年(昭和36)74歳
  6月、「原阿佐緒歌碑建設委員会」により、仙台八木山に第1歌碑が建設さる。
  7月、第2歌碑が郷里宮床の家の庭に建設さる。この除幕式に参列するため帰省す。
      <6月仙台八木山に第1歌碑建設。 7月郷里宮床の自庭に第2歌碑建設。この除幕式に参列の為帰郷。>
1962年(昭和37)75歳
1963年(昭和38)76歳
1964年(昭和39)77歳
1965年(昭和40)78歳
1966年(昭和41)79歳
1967年(昭和42)80歳
1968年(昭和43)81歳
1969年(昭和44)82歳
  2月21日、午後8時10分、老衰による心不全のため死去。法名は赤晃朗歌大姉位。
      <2月21日午後8時10分老衰による心不全の為、永眠80歳。>
1970年(昭和45)没後1年
  9月23日、仙台市八木山野草園の茂ヶ崎荘において、歌碑建立10年祭が建設委員会によって開催された。

*注釈ー上記年表の中で<>表記の記述は、鋸南町歴史民俗資料館所蔵の「展示目録 石原純・原阿佐緒の資料」に収録された「原阿佐緒の略歴」に関する記述である。
*記号:†は石原純の履歴から。
*記号:‡は三ヶ島葭子の履歴から。ー三ヶ島葭子研究{枡本良・川合千鶴子・福原ひろ(水+晃)子・成瀬昌子著、古川書房、1976年(昭51)2月25日発行}
*記号:⁂は中川一政の履歴から。ー「腹の虫」(中川一政全集 第9巻1986年12月10日初版発行、1993年1月30日再版発行。中央公論社刊)
*記号:△は小原要逸の履歴から。ー原阿佐緒の生涯(小野勝美著、古川書房、1974年(昭49)11月20日発行)
*記号:◇はその他。
*注ー<1921年(大正10)8月、石原、病気の故をもって大学を辞職す。その後間もなく石原と共に信濃富士見へ赴き、9月半ばまで滞在。>と云う記述に関して、当時の讀賣新聞「1921年(大正10)9月28日 朝刊5ページ」には【石原博士が阿佐緒女史と同棲 信州富士見に滞在中 学界への復活は絶望と某友談ーー仙台特電 歌人原阿佐緒女史と恋愛事件で一世を驚かせた博士石原純氏は恩師長岡博士を始め知己友人の切なる勧告を斥けて去る12日以来、信州富士見町の富士見ホテルで阿佐緒女史と同棲している。・・・・】
*注ー早坂掬紫(玄質)1889年~1923年 雑誌「風景」創刊大正3年5月に関係。この雑誌の主宰は山村暮鳥(1884年~1924年)群馬県生まれ、日本聖公会の牧師。
*注ー保田小学校裏山の保田町本郷776『靉日荘』は、昭和44年に取り壊され、現在は「貸山荘 紫花山荘(しかさんそう)」と成っている。
*「考えてみれば自分の父も、毎月の家賃、米、味噌等を払えば何も残らないような月給で20何年、教員をしてきたのだ」ー三ヵ島葭子研究p106
*今泉定助(=今泉定介)の略歴:三ヶ島葭子が、21歳の1908年(明治41)2月頃に住込んだ【麻布笄(こうがい)町の今泉定介邸】
 今泉定助(いまいずみ さだすけ)ー1863年(文久3)~1944年(昭和19)
 1863年(文久3)2月9日、陸奥国刈田郡白石(現、宮城県白石市)に生まれる。
 1874年(明治7)、佐藤家の養子となり佐藤定介を名乗る。
 1886年(明治19)、東京帝国大学古典講習科国書課卒業。東京学士会院編纂委員『古事類苑』編集に従事。
 1888年(明治21)、皇室典範講習研究所付設補充中学(後の共立中学校)教頭。
 1890年(明治23)、古事類苑編纂委員を退職。国学院開設に尽力、開校と同時に講師。佐藤家と離縁、今泉姓に戻る。
 1891年(明治24)、共立中学校長。
 1894年(明治27)、東京府城北中学校校長。
 1897年(明治30)、国学院学監補。
 1898年(明治31)、城北中学校長を退職。
 1902年(明治35)、吉川弘文館編輯監督。
 1905年(明治38)、市島謙吉と国書刊行会を創立。
 1906年(明治39)、病気により一切の職を辞退。
 1908年(明治41)、神宮奉斎会宮城本部長。
 1911年(明治44)、神宮奉斎会理事。
 1918年(大正7)、皇典講究所理事。
 1921年(大正10)、神宮奉斎会会長。
 1928年(昭和3)、日本皇政会を創立、会長。
 1934年(昭和9)、血盟団事件特別弁護人。
 1938年(昭和13)、日本大学に皇道学院を設置、同院長。
 1940年(昭和15)、国民精神総動員本部顧問。
 1944年(昭和19)、9月11日死去 享年82歳
 <主要業績>
『新井白石全集』全6巻(校訂、国書刊行会、1905年)
『故実叢書』和装本128冊(校訂、吉川弘文館、1899年~1906年)
増呈版、同1928年~1933年)。
『今泉定助先生研究全集』全3巻(日本大学 今泉研究所、1969年)
以上、出典は、『日本史研究者辞典』{1999年(平成11)6月1日、第1刷発行、編者:日本歴史学会 代表児玉幸多、発行所:吉川弘文館)。
1939年11月10日 讀賣新聞 朝刊7ページ記事。
 【喜寿に喜びの今泉定助翁 きのう祝賀会】同紙面の記事として【誤った“文化と英雄”観 児童の頭から一掃 教科書を改訂】
1941年2月12日 讀賣新聞 朝刊7ページ記事
 【陸海空に奉祝行進 時 粉砕の熱誠 「悠久日本」を壽ぐ帝都】
1944年9月12日 讀賣新聞 朝刊3ページ記事
 【今泉定助翁】同紙面の記事として【1億の智能を結集 「科学総武装」の秋 翼に示そう、日本の底力。勝を決するの機方に今日に在り】

次に【千葉県館山市史】から、「石原純・原阿佐緒」の当時の状況について、書かれた部分を以下に転載します。
館山市史
印刷:昭和46年6月20日
発行:昭和46年7月1日
編集:館山市史編さん委員会
発行:館山市
印刷兼印刷所:第一法規出版株式会社
107 東京都港区南青山2丁目1番地17号
Tel.(03)404ー2251(大代表)

p1026 6安房美術と石原純・原阿佐緒
 大正12年9月1日の関東大震災は、房州にもおびただしい被害を与えた。東京は地震そのものの被害は軽微だったが、火災の発生によって、焼野が原と化したのだといわれる。それに比較すれば、房州特に北条、館山付近は、直接地震によって受けた被害が、はるかに甚大で惨憺たるものであったという。それほど震災の被害が大きかった房州は、復興工事も遅々として捗らなかった。震災前まではおびただしい海水浴客を迎えていた館山湾沿岸は、まだ海水浴客を迎えるほどに復興せず、漸く住宅だけをバラック建てにし、雨露をしのいでいた。そういう状態の北条町で、大正13年7月に、早くも美術展覧会が開かれたのだから、一般からは好奇の目で見られたに違いない。中には「いいご身分の人たちがいたものだ」となかば嘲笑的にいう人たちもあった。主催者は、この美術展覧会を開催するために、俄に結成された「安房美術会」という団体であった。出品者の顔触を見ると、アララギ派の歌人であり、アインシュタインの相対性原理の権威である理学博士石原純、その恋の相手であり、同じアララギ派の美人歌人原阿佐緒などの名前も見える。石原博士は東北帝国大学の勅人教授という地位にあり、また立派な家庭も持ち子供までありながら、その地位も家庭も弊履の如く捨てて、美人歌人原阿佐緒との熱烈な恋愛を成就させるため、大正11年11月以来、房州保田町(現鋸南町)に来て、しばらく旅館住居をしていたが関東大震災の年の初夏、2人のために住居を建築しそこに住んでいた。このご両人をはじめとして、日本画の金森南耕、石井君子、中村有楽等で、日本画あり油絵あり、水彩画あり書がありでバラエティに富んでいた。会場は大正4年の創業という、レストラン鏡軒であった。そういえば素晴らしい会場のように聞こえるだろうが、その実、この鏡軒も前年の地震で潰れ、まだ復興もせず、ようやく海水浴客が入り込む季節を迎えたバラックの葭簀張り(よしずばり)の小舎で、営業をはじめたばかりのところである。もっとも、町内の建物という建物は、ほとんど倒れ。人の5、6人も集まることがあれば、その会場探しに苦労した時代でもあるから、バラックでも葭簀張りでも、会場があっただけでも見つけものであった。この「安房美術会」の誕生には、光雲・斎藤喜市・有楽・中村弥二郎の力が大いに預っている。光雲は人も知る眼科医で、俳人であり日本画も描けば油絵も描くという多芸の人である。有楽はつい先ごろまで、東京で「東京パック」という大人向きの月刊漫画雑誌を経営発行していた文化人で、傘下には北沢楽天、下山凹夫、池部均その他、当代一流の漫画家が集っていた。その有楽が北条町八幡に来て、地方文化の向上のために、豪華な極彩色の地方雑誌「楽土の房州」を発行していたから、北条の文化人光雲とは大いに共鳴し合い、たちまち「安房美術会」の誕生となったのでる。大正12年の夏、保田小学校裏の山の中腹に土地を求めた、石原純、原阿佐緒の両人は、石原博士自身設計して、文化住宅風の愛の巣を建てた。阿佐緒は断髪で、小娘の着るような派手な柄の和服を着たり、毛皮のオーバーを着たりして、常に厚化粧をしていたから、特に人目をひいたものである。石原博士はどこへ行くにも、その阿佐緒と鴛鴦(おしどり)のように仲よく出かけた。それが地元の人たちを強く刺戟したと見えて、なかには嫉妬半分で悪口をいうものも少なくなかった。
「土から生れたような純朴な田舎の子どもや若い者たちの前では、少し考えて貰わなければ困る。ご両人は別に真似ろといって、あんな服装や態度をしているのではあるまいが、お一人は大学の勅任教授をされた方、お一人は歌人として有名な方だ。お二人はああして歩かれることは、真似るものが出るに違いない。もちろん真似るのも悪いといわれればそれまでだが、全く困ったものです」
一部の極端な評者は、保田町から去って貰った方が、教育上大いに助かる、というものもあった程である。またある者は、女学校長の口を借りてまで両人を非難したものもあった。そうした世間のいろいろな噂が、直接両人の耳に入ったかどうか、それはわからないが、大正15年ころから阿佐緒の服装が、やや地味になったことは事実である。
石原、原の両人が、住宅を新築した前後に石原博士は「靉日」という歌集を出版したため、ジャーナリストはすかさず、この家に「靉日荘」とか「靉日山荘」とかいう名をつけた。それが正式名称のように思われた。しかし両人はこの家を「紫花山房」と名づけ、自分たちではそう呼んだり、書くものにもそう書いていた。
保田の町民から両人が非難されたのは、あまりにも仲睦まじい間柄を嫉妬してのことと見てよいが、そんな一方では、この両人は房州の文化の向上に、大いに貢献したといってよいだろう。いままでは、田舎の小さな半農半漁の街として、普段は滅多に名士など来なかった保田町は、歌壇で名前を知られた人、学者、著述家、画壇の知名人、出版関係者などが、ほとんど毎日のように訪れて来た。当時の房州の文化の中心地は、北条町よりもむしろ、保田町に移った感があった。房州の若い歌人たちは、両人を慕ってやって来た。その人たちのために「保田短歌会」を起して、毎月1回松音楼旅館で短歌会を開いた。房州出身の歌人で石原純とともに、歌誌「日光」の同人であった古泉千樫も、帰省したついでに、この会に臨んだこともあれば、田圃歌人と謳われた印旛沼の植庄亮も、この会に出席したことがある。若い歌人たちは、石原、原両人を中心として、月刊短歌雑誌「波止場」を発行し、歌道の精進に務めたが、その「波止場」も、第2号が出ただけで尻切れトンボになったのは、かえすがえすも惜しまれる。阿佐緒は、毛糸編物が得意で、素晴らしい技術を持っていたが、そのことがいつか保田町の有志婦人の間にも知れわたったため、「紫花山房」に集って、編物講習会を受けるものが続出した。大正15年の冬には、阿佐緒は自身の制作品や、受講者の作品を集めて即売会を兼ねた展示会を開いた。当時、北条善導会館(現館山市公民館)の敷地内に建っていた北条文庫(北条町教育談話会経営)がその会場であった。3日間にわたって開催されたが、即売会は相当の売り上げがあったところと見ると、阿佐緒の技術は、その道の専門家を凌ぐものがあったに違いない。安房美術会は第2回美術展覧会を、新築落成間もない安房復興館(現安房支庁舎)で開き、その後も会場は転々として変ったが、毎回入場料を取りながら、かなりの入場者があり、地方文化の向上に大きな役目を果した。しかし、保田町に居住していた石原、原両人が昭和3年9月末から、東京に去ってからというもの、安房美術会展も骨が抜けたような形となった。もっとも、保田町は元の静けさを取り戻したような感があった。安房美術会が、毎年1回美術展会を開催したおかげで、房州人の美術思想が次第に向上したことは歪めない。その点では大きな功績を残したといってよい。特に昭和9年5月25日から31日まで、東京日本橋・白木屋デパートの7階で開催した「房州風景紹介展覧会」は大英断の試みであったが、出品中に売約済みが相当あって、成績は頗る良好、予想外の成功を収めたのは何よりの自慢である。この展覧会は、安房美術会とすれば、第15回展覧会であったが、はじめての東京進出だけに、開催に当たっては充分慎重を期し、実行委員5名を上げた。その顔触は斎藤光雲、金森南耕、西宮六白子、本堂龍城、小林猶治郎である。この会を東京で開催した目的は、館山湾をはじめ房州には、夏の海水浴に適した土地がたくさんある。海水浴には向かないが、景色のよいところも多い。それらの風景を東京人に紹介し、海水浴客ばかりでなく、一般観光客を呼び寄せようというのである。だから、房総観光協会、東京湾汽船株式会社その他の後援を得て開催したのである。結果として意外に好評を博し、売約済みの札の張られた作品も多く、予期以上の成功を納めたのは幸運であった。
この安房美術会も、日華事変が勃発してからは、展覧会どころでなく、腕を拱いていたずらに制作欲を燃やした。しかし安房美術会の有力メンバー斎藤光雲、西宮六白子、宮坂春三の3人は、日華事変勃発1周年を迎えようとする昭和13年4月3日。大陸戦線で勇猛果敢に戦いながら、壮烈な戦死を遂げ、声なき凱旋をして肉親や郷党の涙をさそった勇士たちの遺影を、油絵肖像に揮毫し、遺族に贈呈する計画が纏まった。・・・肖像画は館山北条町出身の11勇士と、寄留者2勇士計13人勇士のものである。この肖像画のほかに46版型のパンフレット「事変の華・館山北条町11勇士」を印刷した。この中には戦歿者の肖像画を写真版で挿入し、簡単な戦歴まで付記した。この小冊子は遺族に贈呈したほか、各方面に寄贈し、輝かしいその戦功をたたえたのである。巻頭言に「昭和13年7月7日、支那事変1周年記念日。この油絵肖像画(6号型額縁付)を無言の凱旋者御遺族に贈呈す」と記してある。3人の合作によって完遂できた、戦没者肖像画贈呈の美挙は、時の千葉県知事多久安信に認められ「銃後の彩管報告者」として斎藤光雲、西宮六白子、宮坂春三の名前で表彰状が授与された。・・・会長に夏井清を推戴したが、何分にも運営がうまくゆかず、いくばくもなくして再び会長は斎藤光雲を戴いて現在に及んでいる。90歳の高齢でありながら、いまなおかくしゃくとして制作に従事しているばかりでなく、展覧会場の飾り付けには率先して働いているのは、敬服に値する。若い人たちは鑑みとすべきである。

「叩かれても言わねばならないこと」の著者 
枝野幸男元民主党幹事長が明日5月9日 所沢駅西口で16時演説。

2013年5月8日 水曜日  榎 本 東 州 記 

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