真珠湾攻撃から所沢市「芙蓉会 富士見産婦人科病院事件」まで パート31

真珠湾攻撃から所沢市「芙蓉会 富士見産婦人科病院事件」まで パート31

目次
第42章 ヒトラーの第3帝国主義は拡大成長している 

第42章 ヒトラーの第3帝国主義は拡大成長している
 藤圭子の戸籍上の母「竹山澄江(阿部澄江)」は、何処の出身か?調べる事は難しいが、ここに一つのヒントになる書籍がある。それは、アメリカ人の教授で、山梨大学教育人間科学部教授/江戸東京博物館専門研究員の「ジェラルド・グローマー(Gerald Groemer)」と云う人が研究した書籍『瞽女と瞽女唄の研究 研究篇』(財団法人 名古屋大学出版会刊)に、次の様な記述がある。

【瞽女と瞽女唄の研究 研究篇】
p8
ほぼ同時代、徳山藩(現山口県)が「盲人」に対する扶持米の新政策を打ち出し時にも、やはり「小瞽女」と「寿名瞽女」が区別され、「寿名瞽女」は1人前の瞽女とされていた。天保頃、松代藩(現長野県)の当道組織が提出した願書の末尾にも、寿名瞽女が寿名を受領していない瞽女の前に名前を連ねており、両者の上下関係は明らかである。瞽女が名前を改めた際には、松代の座頭座が瞽女師匠から提出された「名附状」を「相認、座元致奥印当人江相渡候」ことがしきたりで、当道組織が寿名の受領に深く関わっていたことがわかる。
実際に「寿名」あるいは「寿名瞽女」への言及が確認できる史料を表1・1にまとめておこう。

パート30で書いた様に、藤圭子の戸籍上の母 竹山澄江(阿部澄江)の芸名は「寿々木澄子」である。つまり、山口県若しくは、長野県の出身と思われるが、藤圭子のマネジャー兼夫である「宇多田照實」が山口県の出身で有る所からして、竹山澄江は山口県の瞽女と云うことになる。竹山澄江は山口県でも裕福な家で成長し、何等かの理由で視力を失ったか?弱視になったと考えたれば、宇多田家と竹山家は知り合いだったとなるし、宇多田家は瞽女宿をしていたとも考えられる。そこが、藤圭子を預かる人間関係である。竹山澄江は2010年に80歳で亡くなっているから、「1930年(昭和5)」の生まれである。当時なら瞽女制度は存続していたが、戦後は瞽女の数が激減しているから、浪曲師に嫁いだと考えられる。瞽女の規則は大変厳しいものであった様であるから、阿部純子(藤圭子)に対しても厳しくしつけたことは容易に想像できる。
ここでは、「ジェラルド・グローマー(Gerald Groemer)」教授の意見を掲載する。又、『瞽女』に関する参考書籍名を最後に記載する。
「ジェラルド・グローマー(Gerald Groemer)」教授は、《各時代の人々の生き方や文化の鏡として、それと向き合おうとするならば、そこで必要とされる問いかけは、「瞽女が我々の社会にとってどんな意味を持っているのか」というより「我々の社会は瞽女にとってどんな意味を持っているのか」という形を取らなければならない。このような逆説的な問題提起によってはじめて、瞽女唄に内在する現代社会への批判力を蘇生させ、瞽女唄と現代社会との建設的な関係の模索が開始されるであろう。》と云い。又《「完全な身体」あるいは「完全な知性」》と云う現代の健康帝国主義を疑う必要がある。と述べている。これは、ヒトラーの「千年帝国ー健康帝国主義」と云う訳で、麻生太郎の糞祖父だかに当たる「吉田茂元首相」が築き上げた健康帝国/経済至上主義の結果を、麻生太郎が「ヒトラーの様にやればよい」と発言するのだが、その麻生太郎自身が「吉田茂のヒトラー主義」を継承しているに過ぎない訳である。

【瞽女と瞽女唄の研究 研究篇】
p468
単位を少し拡大した場合は、七五調あるいは七七調が重要性を帯びてくる。多くの瞽女唄では「ヒトコト」を旋律の1フレーズに載せることが基本であるが、いくつかの音節が次のフレーズに移される場合、「コト」と「フレーズ」との間に不一致が生じ、ここにも音楽と言語との間に一種の緊張が生じる。そして「ナガシ」の最後の歌詞の韻律と旋律の構造が再度一致し、「ナガシ」という演奏の単位が成立する。
さらに大きな単位は「段」である。話しのプロットの構造は演奏に際して多数の「ナガシ」に分解されている。三味線の間奏が挿入されることにより言語・文学の水準が一時的に無視されており、この不一致からも大きな期待感・緊張感が生じる。かって「葛の葉子別れ」、「八百屋お七」など瞽女唄の粗筋は聴衆が熟知しており、瞽女唄を楽しむことは、新しい芸能との出会いというよりは古いものとの再会の喜びを意味していた。しかし、この再会の具体的な姿は瞽女の演奏によって時に微妙に、時に大胆に改変され、聴き手はその細部まで容易に予測できなかった。演奏により歌詞と音楽の相互関係がどのような展開を見せるのかを知るためにはやはり実際に演奏を経験するしか方法はなかった。
瞽女唄を幼少から親しんでいた聴衆は、このプロセスを無意識的に理解していたのであろう。しかし、瞽女唄をはじめて聴く現代人にとっては、このプロセスを意識化することが重要である。旋律を個別の短い単位として評価し、三味線伴奏の音色や即興的な微妙な変化に耳を傾け、あるいは話に登場する主人公たちの過酷な運命などに感動することもそれなりの楽しみと価値もあろうが、「祭文松坂」を聞きながら音楽的・文学的要素がどのように扱われ、循環的時間と直線的時間が演奏の中にどのように構築されているのか、またそれがプロットの内容にどのように関わっているのかを把握することこそが瞽女唄への理解に不可欠なのである。
ところが、瞽女唄の意味はこうした構造的要素の次元をはるかに超えている。経済、政治、文化などの社会的諸条件が歴史的に変化する中、同じ音楽・言語の構造的要素も時代によって異なる意味を帯びてるようになる。したがって、瞽女唄(あるいはさらに伝統文化一般)の意味も、各時代に生きている聴き手がそのつど問い直さなければならなくなる。
瞽女唄を空虚なノスタルジアの道具、あるいは単に過去のある時に流通した商品として愛でるのではなく、各時代の人々の生き方や文化の鏡として、それと向き合おうとするならば、そこで必要とされる問いかけは、「瞽女が我々の社会にとってどんな意味を持っているのか」というより「我々の社会は瞽女にとってどんな意味を持っているのか」という形を取らなければならない。このような逆説的な問題提起によってはじめて、瞽女唄に内在する現代社会への批判力を蘇生させ、瞽女唄と現代社会との建設的な関係の模索が開始されるであろう。例えば、越後瞽女唄を新たに普及するためにはどうすればよいのかという『文化保存』的観点よりは、そもそもこの唄を1世紀にわたり衰退させてきた政治・経済諸条件をどのように評価し、それをどのように改めるべきかという「社会変革」的観点の方がさらに重要であろう。また例えば、古い唄を「民俗芸能」として鑑賞の仕方を伝えるより、そもそも20世紀になってはじめて登場した「民俗芸能」というカテゴリー自体に孕まれるイデオロギー的な役割を解明することの方がなお肝要となろう。こうした観点に立つならば、瞽女唄から我々自身の社会への批判へと問題を展開することが可能となる。そうすることによってはじめて現在における瞽女唄の真の意味が、われわれの眼前に姿を現してくることであろう。

【瞽女と瞽女唄の研究 研究篇】
p527 後書
図書館の視聴覚資料室にあったレコードのジャケットに「瞽女」という文字を私が初めて目にしたのは、昭和60年(1985)に来日して間もなくのことであった。「瞽女」の読み方は知らなかったが、解説書に掲載された歌詞を追いながら録音を聴き、越後瞽女の記憶力と集中力に驚いた。早速唄の旋律の採譜を試み、歌詞の英訳も手がけ、そうして行くうちにますます瞽女と瞽女唄に対する興味が深まり、彼女たちが様々な悪条件のもとでどのように仲間組織を確立し、どのようにして膨大なレパートリーを創り出していったのかを知るために手がかりとなる瞽女関係史料、文献などを集めることに専念するようになった。昭和63年(1988)には故佐久間惇一先生の紹介で当時88歳であった小林ハルとの出会いに恵まれ、彼女の生演奏「鈴木主水」を聴いた時には、寒稽古で鍛えられた声の力に圧倒された。・・・中略・・・最後に、瞽女研究の意義、あるいはそれを現代社会にどのように活用すべきかに関して一言しておきたい。近年とりわけ欧米に展開しつっある。「障害学」(disability studies)の研究成果からわかるように、いわゆる先進国において人間の理想とは、若く、スポーツに長け、疲れを知らず長時間労働をこなし、「完全な身体」あるいは「完全な知性」の持ち主(特に男性)とされている。もっともこれは広告業界、プロ・スポーツ業界、福祉関連業界、厚生労働省などの要望を強く反映した理想像である。こうした人間像は、単なる理想にとどまらず、それが「普通」とみなされるにいたって、人々はこの虚像に照らして、自らが「不完全」か、あるいはいずれは「不完全」になるのではないかという心配や不安に駆られるのである。そうして見だされた「短所」を補うための商品が宣伝され、それらの購入が薦められ、資本主義社会における消費の拡大が進み、企業に莫大な利益をもたらしている。
こうした病理的な現状を社会レベルで匡正(きょうせい)していくには、産業界やマスメディアが人々に強制しようとしているイメージに屈せず、その虚偽性を明らかにすることが重要である、つまり「完全な身体」を想定するイデオロギーの徹底的な批判が不可欠である。それを実現するためには、その源の所在を見つけ出すことが前提条件であり、言い換えればそれは先に述べた虚像の歴史を知ることに他ならない。「障害学」の一分野とされるこのような歴史学は、単にそもそも存在しない。「障害者」に限定された「立場」からの歴史語りといった思想に基づく断片の歴史学ではない。またそれは、主観的に決められた「史実」の羅列にとどまる実証主義的歴史学でもむろんない。立場論としての歴史学や実証主義の誤謬(ごびゅう)に陥らないためには、様々な時代と場所において「障害」という概念がどのように構築されたのか、各時代の障害者支援に関わる諸政策の有無が経済的生産性の向上(近世の場合は主に年貢・運上金などの増加)と支配体制の正当性化にどうように関連したのか、また個別の歴史的・社会的条件のもとで「障害者」とされた者の有する能力がなぜ、あるいはどのように抑制・開発されたのかを問い直す必要がある。このプロセスから社会全体の力学が幾分なりとも解明されてゆくならば、長い歴史のなかに築かれた差別的慣習や価値観。そしてそれを推し進めた政治体制などが現代社会にどのように受け継がれ、かつどのように変化してきたのかも次第に明らかとなるであろう。
「障害者」は、これまでの歴史語りに一つの空白領域をなしてきた。つまり逆説的な言い方をするならば、「障害者」は歴史的な「不在性」によってのみ、その存在が表示されてきたのである。今や彼らの存在は歴史語りの内にたしかに存在するものとして取り戻されつつある。そして、彼らが取り戻されることによって、彼らに対する差別が、いかに歴史的に作り出されてきたのかが明らかとなり、その解消への道筋が示されるであろう。もし差別が、不可避な運命の所産ではなく、歴史的に生み出されたものに過ぎないとするならば、それを克服する方法も歴史による以外にはないのである。差別の廃止にあたり、「障害者」は単に「処遇の対象」ではなくなるであろう。その時、「障害者」・「健常者」を問わず、人間それぞれの発達と可能性をどのように支援すればよいのかが、はじめて論じられるようになるであろう。支援とは単に政府、自治体などが「障害者」に一方的に与える「慈悲」や「憐愍(れんびん)」ではなく、被支援者が主体的に政策の立案・決定・実行に参加することを意味する。そうすることで人間同士の様々な差異を基調とし、不当な差別を生むことのない、各個人の障害との多様な取り組みを後押しする政策がはじめて誕生するであろう。その時、これまで恣意的(しいてき)に「障害者」と「健常者」とに分類されていた人々の利害は、最終的に完全に一致を見るであろう。そして、正しい歴史認識に基づく社会改革を徹底的に推進してゆくならば、「完全な身体」あるいは「完全な知性」を持たない者――それは実は全ての人間である。――が現在経験している差別や将来への意識的・無意識的な不安が大幅に解消され、はじめて人間らしい社会が成立するのである。瞽女と瞽女唄の研究を通して本書がこの道程の小さな一歩となれば幸いである。
 2007年1月  著者

【瞽女と瞽女唄の研究 史料篇】
p597
明治29年(1896)刊、熊本市または神戸付近か。小泉八雲が見た瞽女の演奏
[翻訳]
大道芸人
三味線をかかえて、7、8つの小さな男の子をつれた女が、わたくしの家へ唄を歌いにやってきた。・・・中略・・・女は玄関の石段のところに腰をおろして、しばらく、三味線の糸の調子を合わせていたが、やがて前弾きを弾きだした。しばらく、すると、たちまち一種の魅惑が、聴きてのうえにおちてきた。聴ききては、みな、へーエといったような顔をして、微笑をもらしながら驚きの目をみはって、たがいの顔を見あわせた。・・・・中略・・・これほどの声、これほどの唄は、まず聞かれたことがなかったろういうほどの声である。しかも女は、それこそただの百姓でも歌えるような調子でうたっているのである。おそらく、その声の調子は、野山にすむ蝉か、藪うぐいすからでも習いおぼえたものであろう。それでいて、西洋の音譜にむかしから書かれたことのない半音程や、その半音程のまた半音程を、自由自在、らくらくと歌いこなしているのである。女がそうやって歌っているうちに、聴いているものは、みな物いわずに、涙をすすりはじめた。歌の文句は、わたくしにははっきり聞き分けられなかったが、それでも、じっとそうして聴いていると、女の声につれて、日本の生活のうら悲しさ、うっとりするような甘さ、抑えに抑えられた苦しさが、惻々としてわたくしの心にかよってくるような気がした。それは、目に見えないものを切ないほど追い求める気持、とでもいったらよかろうか。まるでなにか目に見えない物柔らかなものが、自分の身のまわりにひたひたと押し寄せてきて、おののき ているかのようであった。そして、とうに忘れ去ってしまった時と場所との感覚が、あやしい物の怪のような感じとして打ちまじって、そこはかとなく、心に蘇ってくるのだった。その感じは、ただの生きている記憶のなかの時と場所との感じとは、ぜんぜん別種のものであった。
そのとき、ふとわたくしは、その歌うたいの女が、盲人であることを見たのである。
さて、歌がうたいおわったとき、わたくしたちは、遠慮する女をむりに家のなかへ招じ入れて、女の身の上ばなしを聞いてみた。むかしは、この女の家も、相当な暮しをしていたところから、女は娘のころに三味線を習いおぼえたのであった。つれている男の子は、自分のせがれであった。女の亭主は中風をわずらっていた。女の両眼は疱瘡のために失明したのである。しかし、からだだけはどうやら丈夫だったので、女はかなりの遠道を歩くことができた。子どもがくたびれれば、女は自分で負ぶってやることもある。ーおかげで歌をうたいさえすれば、見ず知らずのかたがたが涙をこぼして、お鳥目や食べものを投げて下さいますので、床に寝ついたきりの夫とこの子どもは、どうにかこうにかわたくしひとりの身すぎで養ってまいれます。・・・これが女の身の上ばなしであった。わたくしどもでは、女にいくらかの鳥目をやってうえ、食事を出してやった。やがて、女は男の子に手を引かれながら、立ち去って行った。わたくしは、この女から、最近あった心中事件を諷った小唄の本を、一部買い求めた。「くどきぶし・玉米・竹次郎・大阪市南区日本橋4丁目14番地 竹中よね作」としてある小冊子である。一見して、木版からおこした冊子で、中に小さな挿絵が2枚はいっている。ひとつは、うら若い男女がふたりで嘆き悲しんでいる図。もうひとつの方は、一種の止め絵に類した絵で、それには、ひと張りの机、消えかかったランプ、ひろげた手紙、香華のたいてある香炉、それから、仏式の方で死人に供える神聖な植物である“しきみ”をさした花立、などがあらわしてある。縦書きに、すらすらと書かれてある妙な草書体の原文は、しいて翻訳してみれば、こんなものでもあろうか。
「音に名高い大阪は、西本町の1丁目。――心中ばなしの哀れさよ。
「年は19の玉米を、職人風情の竹次郎が、見染めて惚れた緑の糸。
「2世も3世もかわらじと、誓い合ったるその仲は、――遊女に惚れた身のなげき。
「たがいの腕に彫りあった。竜と竹との2つ文字。――浮世の苦労よそにして。
「篭の鳥をば見受けする、55円の身のしろ金、才覚できぬ竹次郎が、その心根の切なさよ。
「とてもこの世じゃ妻なし鳥よ。主と呼ばれぬ2人がえにし、いっそ苦界をおさらばに、とても死なんと誓いける。
「われなきあとは、朋輩衆、香華のひとつも上げてたも、回向たのむと2人が、露と消えゆくあわれさよ。
「死んでゆく身の竹次郎が、かたのごとくに手を取りし、水盃が世のなごり。
「あわれなるかな2人が、たがいに思い思われつ、心中する身の胸のうち、ああ、捨てし命ぞあわれなる。

要するに、この物語になかには、格別たいした変哲なところもなければ、歌詞にも、特別に取り立てて言うようなものもない。その歌いぶりが聴くものの感歎を博したのは、まさにかの女の美音にあったのである。それにしても、それを歌ったものがすでに立ち去ってしまったのちになっても、その声は、依然として長く耳 に残っているような気がする。――あの不思議な魅力をもった声調の秘密を、なんとかして自分で解き明かそうとせずにはいられないほど、それほど自分の胸になかに、妙に甘美な感じとうら悲しい感じをのこしながら。
(ラフカディオ・ハーン、平井呈一訳『心』44~49頁。翻訳に少々訂正を施した)

『瞽女』に関する参考書籍名
1、瞽女物語ー斎藤真一の世界
  講談社文庫
  昭和52年4月15日 第1刷発行
2、絵日記 瞽女を訪ねて
  昭和53年4月10日 第1刷発行
  著 者:斎藤真一
  発行者:藤根井和夫
  発行所:日本放送出版協会
  東京都渋谷区宇田川町41ー1
  〒150 電話03ー464ー7311
  印刷所:凸版印刷株式会社
  製本所:凸版製本株式会社
  装 幀:竹内宏一
*斎藤真一の略歴
1922年 岡山県倉敷に、父斎藤藤太郎(尺八都山流師範)の長男として生まれる。
1948年 東京美術学校卒業。在学中に学徒出陣で3年海軍従軍。県立伊東高校に20年間勤務。
1959年~60年 パリに留学。ジプシーにひかれヨーロッパ各国、2万キロをバイクで走破、放浪生活を送る。
1961年~70年 帰国後、津軽を訪ね、津軽三味線に感動し瞽女を知り、以来10余年、越後、信濃路を歩き続け、膨大精緻な記録と独自の画風を生む。
1970年 「越後瞽女日記展」(文芸春秋画廊・羽黒洞主催)。
    「おかみの悲しみ」を国立近代美術館買上げ。
1971年 安井賞佳作受賞
1972年 『瞽女ー盲目の旅芸人』(日本放送出版協会)、画集『越後瞽女日記』(河出書房新社)刊行。
    「越後瞽女日記・回顧展」(東京三越本店、大阪松坂屋)。
1973年 『瞽女ー盲目の旅芸人』第21回日本エッセイスト・クラブ賞受賞。
1974年 「津軽じょんからー瞽女日記展」(東京・大阪・名古屋松坂屋)。
     画集『津軽じょんから瞽女日記』(大西書店)刊行。
     「お春瞽女物語り展」(上野松坂屋)。
1976年 フランス賞展受賞。渡仏。
1977年 『瞽女―斎藤真一画集』(毎日新聞社)、『瞽女物語』(講談社)刊行。
    パリ展(カルドマティニオン画廊)。
    スイス展(バーゼル・クンストメッセー、ギャラリー山木出品)。渡欧。
1978年 スイス展(バーゼル・クンストメッセー出品予定)。
    ドイツ、ケルンとルクセンブルグにて個展予定。
    イタリア、チャタルド美術館にて作品展予定。
3、瞽女さは消えた 日本最後のごぜ旅日記
  昭和56年2月20日 発行
  著 者:村田潤三郎
  発行者:菅 英志
  印刷所:(株)光 邦
  発行所:新人物往来社
  東京都千代田区丸の内3ー3ー1
  〒100
  電話(212)3931
  村田潤三郎(むらた じゅんざぶろう)
  1924年、新潟県刈羽郡高柳町岡野に生まれる。
  仏教大学仏教学部卒業
  仏教史学会会員
  著 書:「越後の袖」「山城古寺巡礼」「小国和紙」
      「越後の木喰仏」その他。
  住 所:新潟県刈羽郡小国町森光
4、瞽女ー旅芸人の記録ー
  昭和62年2月5日 印刷
  昭和62年2月10日 発行
  定価3,200円
  著 者:五十嵐富夫
  発行者:及川篤二
  印刷所:共信社印刷所
  101 東京都千代田区猿楽町2ー8ー13
  (株)桜 楓 社
  電話03ー295ー8771
  五十嵐富夫(いがらし とみお)
  大正5年群馬県伊勢佐木市に生まれる。
  東京高等師範学校研究科修了、
  現在群馬女子短期大学教授、文学博士。
  関東近世史研究会、地方史研究協議会、
  交通史研究会の会員。
  著 書
  「近世関所制度の研究」(有峰書店)
  「日光例弊使街道の研究」「縁切寺」「日本紀行文学の研究」
  (柏書房)
  「飯盛女」(新人物往来社)
  「日本女性文化史」(吾妻書館)
  現住所 群馬県伊勢佐木市田中島町560
5、民俗 民芸双書91
  瞽女の民俗
  1983年3月10日 第1刷発行
  著 者:佐久間惇一
  印 刷:佐藤文夫
  印 刷:KMS
  製 本:共伸舎
  発行所:岩崎美術社
  東京都文京区本駒込3ー39ー6
  電話824ー1731
  佐久間惇一(さくま・じゅんいち)
  1914年(大正3)新発田市生まれる。
  現 在:日本民俗学会員、日本口承文芸学会員、
      新発田市文化財調査審議会委員、
      新潟県史執筆員、新潟県民俗学会理事。
  編著書:「二王子山麓民俗誌」(自版)
      「新発田市史資料民俗」上・下巻(共編著、新発田刊)
      「絵姿女房」(桜楓社刊)
      「北蒲原郡昔話集」(岩崎美術社刊)
      「阿賀北ごぜとごぜ唄集」(新発田市刊)
  現住所:新発田市諏訪町2ー2-1
6、瞽女と瞽女唄の研究 研究篇
  2007年2月28日 初版第1刷発行
  著 者:ジェラルド・グローマー
  発 行:金井雄一
  発行所:財団法人 名古屋大学出版会
  〒464ー0814
  名古屋市千種区不老町1 名古屋大学構内
  電話(052)781ー5027
  印 刷:(株)クイックス
7、瞽女と瞽女唄の研究 史料篇
  2007年2月28日 初版第1刷発行
  著 者:ジェラルド・グローマー
  発 行:金井雄一
  発行所:財団法人 名古屋大学出版会
  〒464ー0814
  名古屋市千種区不老町1 名古屋大学構内
  電話(052)781ー5027
  印 刷:(株)クイックス
  《著者略歴》
  ジェラルド・グローマー(Gerald Groemer)
  1957年 アメリカ合衆国オレゴン州に生まれる。
  1985年 ジョンズ・ホプキンス大学ピーボディ音楽院博士課程修了
       ・音楽博士
  1993年 東京芸術大学大学院音楽研究課博士課程修了・芸術博士(音楽学)
      江戸東京博物館専門研究員。
  1994年 Earlham College (Richmond, Indiana, USA)助教授。
  現 在  山梨大学教育人間科学部教授
  著 書  「幕末はやり唄」名著出版、1995年(東洋音楽学会田辺賞受賞)
       The Spirit of Tsugaru:Blind Musicians Tsugaru
       Jamisen,and the Folk Music of Northern Japan,
       Harmonie Park Park Press, 1999
8、瞽女 信仰と芸能
  初版千五百部
 1996年10月15日 初版第1刷印刷
 1996年11月10日 初版第1刷発行
 著 者:鈴木昭英
 発行者:濱 久年
 発行所:高志書院
 東京都杉並区高井戸1ー2ー6
 電話03(3302)0405
 印刷・製本 亜細亜印刷株式会社
*著者略歴
 鈴木昭英(すずき しょうえい)
 1932年 新潟県長岡市生まれ
 1962年 大谷大学大学院博士課程修了
 1963年 大阪市立博物館学芸員
 1973年 長岡市立科学博物館館長
 1992年 長岡市郷土史料館長
 現在 上越教育大学非常員講師
    日本口承文芸学会理事
    民俗芸能学会評議員
主要著書
 『伊兵タケ聞く書 越後瞽女』1976年、講談社(共著)
 『富士・御獄と中部霊山』1978年名著出版(編著)
 『仏教芸能と美術』1993年、名著出版(編著)
現住所 〒940 新潟県長岡市福島町2467

9、高田瞽女最後
  昭和58年9月10日 第1刷発行
  定価 1,500円
  著 者:大山真人
  発行者:朝香 淳
  発行所:株式会社 音楽之友社
  東京都新宿区神楽坂6ー30 郵便番号162
  電話03(235)2111
  装丁:菊地信義
  本文印刷所:大永舎
  オフセット印刷所:太陽印刷株式会社
  製本所:黒田製本
*著者略歴
 大山真人(おおやま まひと)
 昭和19年、山形市生まれ。
 県立山形南高等学校、早稲田大学文学部卒業後、昭和51年まで出版社勤務、以後フリーのノンフィクション・ライターとして現在に到る。
 山形市在住。
 著書に「わたしは瞽女」「ある瞽女宿の没落」(音楽之友社)等がある。

【瞽女 信仰と芸能】(鈴木昭英)
p100 1、生業に関する信仰 ①養蚕
瞽女に対する信仰が生業のうえで最も顕著に現れたのは養蚕である。養蚕業の盛んな地方では、繭の増産を願って瞽女をよく迎え入れた。県内では養蚕地帯の魚沼や頸城の山間部はもちろん、県外はわが国第1の養蚕権を誇った群馬県をはじめ、周辺諸県、関東諸県の遠くまで訪れたうらには、養蚕信仰に支えられた面が大きい。瞽女が養蚕期にそうした地方を訪れると、瞽女が来るのを縁起がよいと歓待する。そして元気のいい唄を蚕に聞かせてほしいと蚕室に導き、蚕棚の下で歌わせたりする。そのためにわが家に泊まってほしいという人もあり、宿にはこと欠かない。今日はどの家に泊まろうかと選ぶことさえできた時代がった。蚕に唄を聞かせるというが、それは歌詞の内容、演目にはさほど関係がない。問題は伴奏楽器としての三味線の旋律にあったらしい。蚕は三味線の音が好きで、その音を聞くと桑の食い方が違うというのである。それで蚕が丈夫に育ち、収穫が上がるとする。だから、蚕の眠りのさいちゅうに瞽女が来て歌うと、蚕が喜び勇んで休まないとし、瞽女に歌うのを遠慮してもうらう人もった。こんなふうであるから、夏場に群馬などの県外へ出かけた瞽女は大変な稼ぎがあったという。・・以下略

シリアへの攻撃とは、日本の話しである。
戦後は、日本の「オウム真理教団」しか化学兵器を実戦使用していないからである。
攻撃開始日は、WTC米国同時多発テロの9月11日である。

68年前<戦艦 ミズリーにて降伏文書調印の日>
2013年9月2日(月)榎本東州 記
2013年9月2日(月)12時 図表を追加 校正
  榎本東州 記
2013年9月6日(金)ジェラルド・グローマー教授の「後書」
を全文掲載とし、斎藤真一氏の略歴を記載し、瞽女に関する
書籍名を追加する校正をした。
  榎本東州 記

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